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大石正巳の生涯|雄弁と決断力で明治政界を生き抜いた土佐の猛者

大石正巳の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「そんな生意気を言うなら、お前が行って片付けて来い」

「よろしい、私が引き受けましょう」

中国との協調を急げ、朝鮮との懸案を早く片付けよと元老たちを説いて回った男は、そう言われて即座に引き受け、外交の経験もないまま弁理公使として京城へ乗りこみました。背後に袁世凱がいる相手から、賠償金を取って帰ってきます。土佐の立志社で弁舌を磨き、憲政党を作り、農商務大臣となり、そして自ら政界を去った大石正巳(おおいし まさみ)の生涯です。

 

征韓論の刺戟

西郷隆盛と大久保利通とが衝突したのは、征韓論のためでした。それが契機となって佐賀の乱、熊本の乱、秋月の乱、山口の乱などが相次いで起こり、ついに西南戦争となり、また大久保利通が刺客のために倒れるなど、世を挙げて騒がしくなりました。この征韓論の主張者は参議西郷隆盛、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助らでしたが、それは当時の大蔵卿大久保利通が反対したので、ついに否決されてしまったのです。そこで征韓論の主唱者、陸軍大将参議西郷隆盛をはじめ桐野利秋、篠原国幹らは故郷鹿児島に去り、また同論者たる参議副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平も袂を連ねてその職を退きました。実に当時はまだ維新の大業成って、国政がようやく整おうとするときです。ふたたび天下は騒然としました。

板垣退助は明治七年(1874年)、郷里土佐へ帰るとすぐ、法律研究所を起こして子弟の誘導をはかり、一方には立志社を創設してその有志を集め、ここにおいて民撰議院開設の叫びを揚げました。このときです。青年大石正巳は、あふれるばかりの熱情をもって馳せ参じ、板垣の率いる立志社へ加盟しました。そしてそこで彼は盛んに縦論横議したものでした。後年彼は、舌戦で人に後れを取ったことがないといわれましたが、すでにこのときに弁論の才能は現れていたのです。当時大石の頭には、板垣が「征韓論に敗れた」という一事が深く彫りつけられてしまいました。これ以来、大石は韓国、朝鮮のことといえば深く注意するようになりました。

そこで彼はまず朝鮮と中国を十分に視察する必要を感じ、明治二十五年(1892年)に、朝鮮から南満洲、北京、天津、ウラジオストクと各地を調査しました。そして「中国との関係を改善することが一大急務である」と痛感し、帰朝と同時に時の首相伊藤博文をはじめ山県、井上両元老を歴訪しました。それには、「日本は中国と協調してゆかねばならぬ。朝鮮問題くらいで中国と喧嘩しては駄目だ。早く朝鮮との懸案を片付けてもらいたい」と説いて回りました。

「そんな生意気を言うなら、お前が行って片付けて来い」

大石は外交の経験はありませんが、人のやることだからできないことはあるまいとばかりで、「よろしい、私が引き受けましょう」と即座に引き受けてしまいました。このときの事件というのは、朝鮮政府が防穀令を不当に実施した結果、在留日本商人が大損害を受けたので、その賠償を要求することにありました。問題としては決して大きくはありませんでしたが、その背後に例の袁世凱が黒幕としてついていることが憂慮されました。大石はこのとき弁理公使として京城へ赴任し、韓廷に迫り、国王に謁見して首尾よく賠償金を取って引き揚げたのです。

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英書生から政界入り

大石正巳は高知藩士大石良則の二男として、安政二年(1855年)四月、吾川郡御畳瀬(みませ)村に生まれました。彼は二十歳のころ上京して英学を修めましたが、そのころ同郷の三菱商会主岩崎弥太郎が京橋八丁堀へ学校を設けることになったので、その学校の英語教師として迎えられました。またそれが縁となって岩崎に見いだされ、非凡な才幹ある人物として何かと援助を受けたのでした。その後、同郷の馬場辰猪がイギリスから帰朝したので、大石は彼に相談して、明治義塾という中等程度の学校を開くことにしました。塾の経営には同郷の福岡孝弟、杉浦重剛がその任にあたりました。ところが明治十四年(1881年)に板垣が自由党を組織して天下の同志を糾合したので、馬場、大石は自由党に加わり、専心党務に奔走したのです。その翌年に自由党の総理板垣が洋行するについて、大石と馬場は板垣の洋行費の出所を疑い、板垣とその意見を異にしたため、二人は自由党を脱党することになりました。すると明治十七年、板垣は自由党を解散して土佐に帰るし、大隈は改進党の総理をやめるという風で、各政党とも意気銷沈して途方に暮れている矢先、後藤象二郎はここに「大同団結」を叫びました。その主張するところは、「小異を捨て大同につき、藩閥政府に当たる」というにありました。この主張が政界に活気を加えて、改進党からは犬養、尾崎が加わり、党務には大石と犬養があたりました。

さてここに、大石が待ちに待った外国行きの機会が来ました。馬場辰猪がアメリカへ渡るというので、大石も一緒に行くことになったのです。さっそくその準備に取りかかっていたところ、意外にも大石が爆裂弾を横浜の外商から手に入れたという嫌疑がかかり、彼はそのまま監獄へぶちこまれてしまいました。そのために未決監にあること七か月余にしてようやく無罪で出獄しました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「未決監にあること一年」としていますが、明治十八年十一月の逮捕から翌十九年六月の無罪判決まで約七か月です。

 

それから渡米はしましたが、まもなく帰朝すると、かねて後藤象二郎とは意気投合した仲だったので、後藤を説いて雑誌『政論』を発行し、大石はその主筆となって大いに手腕を振るったのです。すると、はからずも『政論』誌上の言論が新聞条例にふれて、主筆大石は禁錮の処罰を受けました。「俺はイギリスへ渡って、大いに政治学を研究して来る」。大石は発憤し、あわただしくイギリスへ飛びました。

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活躍の絶頂期

「自由、進歩両党を解党して、さらに新政党を作り、力を強大にして政府に当たれば、必ずや政権を伊藤らの手から奪うことができる」

大気炎を上げて大石に語ったのは、玄洋社の社長となって九州の一角に地歩を占めていた平岡浩太郎でした。ときは明治三十一年(1898年)で、伊藤内閣のとき、自由、進歩両党がたがいに旧恨を忘れて固く提携し、あくまでも藩閥と闘わなければならないことを一様に直覚し、それを期待しているときでした。その期待を形に実現させようとしたのは大石正巳です。彼はそれを犬養、尾崎、松田らにはかりました。そこで両党の領袖たちはひそかに平岡の邸宅へ会合して、「唯一念、藩閥と一大決戦を試みるのみ」と真剣に談じ合いました。その結果が、新富座における両党合同の憲政党結党式です。片岡健吉を議長に推して九か条の綱領を宣言しましたが、そのときの光景はまさに戦わずして敵を圧し去る観がありました。

案のごとく議会は解散となり、伊藤首相は明治大帝の御前に参内して自分の決心の存するところを奏上し、なお元老の会議において自己の抱懐を披瀝しました。その会議には伊藤、大山、山県、西郷、黒田、井上の六人の元勲が列席していました。「今日の場合、政府党を興して気勢を揚げる以外には、民党の攻鋒に対して防御すべき何らの方策なし」と述べ、このときの伊藤の決心は必死の覚悟でした。伊藤の説はあくまで政府党を組織して民党の大団結を破壊しなければならない、そのためには伊藤は自ら陣頭に立って戦うから、五人の元老はよろしく予を援助してくれよというにありました。ところで五人の元老は伊藤の説に反対でした。ことに山県と伊藤は三時間にわたる大論争の末、ついに伊藤は会議から退出して、すぐさま奏上文を起草して首相の身を引きました。すると、ここに後継内閣を誰にすべきかの問題が議せられたとき、伊藤が口を開いて、

「事ここに至っては、臣は後継者として、新政党の代表者たる大隈、板垣を推薦したてまつるをもって、当然の順序なりと信ず」

と奏上しました。このとき満座の元勲一同は驚きました。ことに山県などは当然自分のところへ後継内閣のお鉢が回ってくるものと思っていただけに、伊藤が格例を破って在野党の首領を奏薦したので、伊藤と山県はたがいに顔を見合わせました。大帝は伊藤の奏薦をお聴きになるや、伊藤の言を可としたもうたので、議たちまち決して、ただちに伊藤から板垣、大隈にその旨を伝えることになりました。こうして板垣は大隈を推して、ここに大隈内閣ができ上がりました。このとき憲政党は狂喜して、我党万歳を叫びました。大石正巳は憲政党の首領株となり、続いて我党内閣の成立とともに農商務大臣の椅子を獲得したのです。まさに大石の得意絶頂の時代でした。

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政界を退く

「自ら政党を組織するにあらざれば、思うままに政治を行うを得ず」

桂公は欧州から帰朝すると、いち早くその計画のもとに同志を糾合しました。そのとき桂公の傘下に集まった主な人々は、大石正巳、島田三郎、河野広中、箕浦勝人、武富時敏たちでした。そしてここに立憲同志会を造ったのです。そのとき大石は総務となり、敵にも味方にも畏敬される身となりました。桂公は大正二年(1913年)十月にすでに世を去っていたので、翌三年に山本内閣が倒れたときには、ふたたび大隈がそのあとを襲いました。もし桂公が健在であったならば、大隈は出馬しなかったでしょう。のみならず、大石正巳が政界を隠退するようなこともなかったでしょう。なぜならば、大石は桂公の後継者である加藤伯に邪魔者扱いにされたがゆえに、加藤の上にも立てず、一方大隈の下にいることも好まず、ついに政界を隠退することに決心したのだったからです。以来彼は悠々としてその晩年を送っていましたが、昭和十年(1935年)、病を得てついに没しました。

舌戦で負けたことのない人が、外交の素人のまま袁世凱の影を踏んで賠償金を取り、両党を合わせて憲政党を作り、初の政党内閣の大臣になりました。そして自分を邪魔者扱いする後継者の下には立たない、と政界を去った。土佐の猛者の引き際は、その弁舌と同じくらい、きっぱりしていました。

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大井憲太郎の生涯|大阪事件を主導し労働運動の先駆けとなった自由民権運動の闘士
板垣退助らと共に自由民権運動を牽引し、福島事件での熱弁や、朝鮮の独立支援を企てた「大阪事件」の首謀者として知られる大井憲太郎。熱血漢でありながら部下を深く愛し、明治期の労働運動・無産階級保護の先駆者となった闘士の生涯を解説します。

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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