「読めないということはないはずだ。以前、前野さんは、国や言葉が違っても、同じ人間と生まれたからには、読んで読めないはずがないと言われて、蘭学の勉強をなされた。一つ大いに奮発して、その書物を翻訳してみるんだね」
師の桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)にそう励まされて、二十五歳の津山藩医はオランダ語の内科書と首っ引きの日々に入りました。それから十年。できあがったのが、日本で最初のオランダ内科書の翻訳『西説内科選要(せいせつないかせんよう)』全十八巻です。訳したのは、子どものころ学問が大嫌いだった宇田川玄随(うだがわ げんずい)でした。
蘭学興隆
徳川幕府の極端な鎖国政策は、一時ほとんど外国人と日本人との接触を絶縁させようとしました。交通貿易はもちろん、洋書およびその中国語訳すら禁書として一切の輸入を厳禁し、わずかにオランダ一国のみが長崎の出島にオランダ屋敷という貿易商館を設けることを許され、年々限られた船舶によって西洋の物資と文化とをもたらしていました。その出島のオランダ屋敷に来住するカピタン(商館長)の随員として、しばしば西洋の医者がやって来ました。したがって長崎にはオランダ流の医術が発達し、のちには西流、栗崎流、判田流などの外科医が門戸を張るに至ります。オランダの館長は、国書の奉呈や通商免許の答礼などのために、それらの医者やその他の随員を伴って江戸に上りました。吉宗の時代にはそれが一つの外交儀礼ともなり、幕府ではこの謁見を「紅毛人御覧」と称していました。ことに吉宗は天文を好み、蘭学に志す者を優遇したため、表面は禁書によって西洋学術の研究はできなかったけれども、いつしかオランダ文字を解する者が長崎にも江戸にも多くなっていったのです。青木昆陽、前野良沢、後藤梨春、中川淳庵、杉田玄白など、『蘭学事始』のなかに出てくる主要人物が、まさにその中心をなしました。
有名なターヘル・アナトミアを玄白や良沢が翻訳し、辛酸の極み、『解体新書』四巻として上梓したのが安永三年(1774年)のことでした。この書の刊行ののち、まだ十年になるかならずのあいだに、わが国の蘭学は長足の進歩をとげます。そこには桂川甫周がいました。大槻玄沢がいました。そうして、宇田川玄随もまた先輩の業績を継ぎ、諸家争って翻訳の業を起こし、この学問はこれがためにますます興隆したのです。

玄随の生い立ち
宇田川玄随の父は名を道紀といい、もと武蔵の淵江に住んでいましたが、のち津山侯松平家の侍医となって江戸に移住しました。玄随は宝暦五年(1755年)十二月、江戸の官邸で生まれました。幼少の折にはどうにも学問が嫌いで、とうてい医家の跡を継がせる望みがありませんでした。もともと宇田川家は儒学と医法とにくわしく、これによって松平家にも召し抱えられたわけですが、玄随に至ってついにこの家業も絶え果てるかと、両親を困惑させたほどでした。しかし青年期に達するや、ようやく彼の頭のよさが認められてきます。二十歳のときには父に代わって医員の職に列し、藩主康哉(やすちか)に近侍して、その世子の学友ともなり、しばしば進講をつとめました。
そのころ桂川甫周は江戸の築地にいました。幕府の医官であり、『解体新書』の奥付に名を連ねた一人です。明和九年(1772年)、二十二歳のときすでに幕府の命によりオランダ使節の応接にあたった人でした。玄随は当時の情勢から、宇田川家は代々儒学を学び、かつ漢方を主としてきたが、将来どうしても蘭方をもって立たなければならないと考えました。二十五歳のとき、はじめて甫周の門に入ります。彼の天分はここに発揮され、甫周もまた大いにその非凡を愛しました。ある日、甫周はオランダ人ゴルテルの内科書を手に入れて、これを玄随に見せました。玄随はそれを借り受け、寸時も手離さないで読みふけっていました。
「どうだね、少しは読めるかね」
「いや、なかなかもちまして」
「読めないということはないはずだ。以前、前野さんは、国や言葉が違っても、同じ人間と生まれたからには、読んで読めないはずがないと言われて、蘭学の勉強をなされた。一つ大いに奮発して、その書物を翻訳してみるんだね」
甫周はそう言って、玄随を励ましました。

西説内科選要
以来、玄随はこの内科書を読破することに熱中しました。甫周もできるだけの力を貸しました。前野良沢にも教えを乞いました。良沢の門人には大槻玄沢がありました。彼は仙台から江戸に出て、天明八年(1788年)に『蘭学階梯』という文法書を著しています。こうして刻苦精励、彼の内科書と首っ引きをするあいだに、早くも十年の歳月は経過しました。そうして千辛万苦の結果、やっとでき上がった翻訳が、『西説内科選要』全十八巻です。オランダ医術内科書翻訳事業の嚆矢(こうし:先駆け)の名誉は、ついに玄随の手に帰しました。前にも言ったように、当時、蘭方医学といえばほとんどことごとくが外科に偏していました。ここに玄随の『内科選要』が世に出るに及び、はじめて蘭方にも内科のあることを世人に知らせることができたのです。
大槻玄沢はこの翻訳書を一見し、玄随に言いました。
「西洋の内科をもってこれを天下に公にするのは、実に空前のことである。だから、明詳精細、人の期待に添うものでなければ翻訳の価値がない。ところが今この書を見ると、あまりにも簡略すぎると思うがどうですか」
日ごろ無口で温厚な玄随は、このとき姿勢を正してこう言いました。
「いかにもさよう思われるかもしれません。けれども私がこの書を翻訳しました目的は、ひとえに内科の医術に従おうとする者のために、後人の手引きともなればと存じた次第で、自分の学問を人に誇らんがためでは毛頭ございません」
玄随は晩年、さらにこの書に改訂を加え、平易を旨とし、努めて治療の準則を世に示そうと試みましたが、いまだ脱稿を見るに至らず、寛政九年(1797年)十二月、四十三歳をもって没したのです。彼の著書にはこのほかに『遠西名物考』『東西病考』『遠西草木略』『西洋医言』『蘭畝俶載(らんぼしゅくさい)』『蘭訳弁髦(らんやくべんぼう)』『西文矩(せいぶんく)』『槐塾文庫』『槐園文集』などがあります。槐園(かいえん)は彼の号でした。

玄随と玄真
安岡玄真(げんしん)と名乗る、漢学に堪能な若い医者がいました。この人ははじめ漢方の傷寒論によって一巻の著述を試み、江戸中の漢方医を片っ端から訪問しては、その意見を求め歩いていました。めぐりめぐって宇田川玄随のところにもやって来て、例のとおり閲覧を請うたところが、玄随は表題を見たばかりで開きもせず、にべもなく突き戻しました。
「先生、ご意見を承りたいのですが」
玄真はむっとしてたずね直しました。
「私もこれまでは漢方を学んだ者でござったが、オランダの医術に指を染めると、かようなものはとんと他愛もないものと思われます。せっかくのご勉強だが、ちっと蘭方をもおやりになるがよろしいでしょう」
そう言って玄随は、蘭方と漢方の正否を大略説明しました。玄真は玄随の新説に茫然として立ち去りましたが、一人静かに考え直してみれば、まったく東洋の漢方の心細さが分かってきます。そこで多年苦心の結晶たる自分の著述を惜しげもなくずたずたに引き裂いて、ふたたび玄随の邸を訪ねました。そうして今日から門人にしてもらいたいと懇願したのです。玄随はさっそく承知してくれました。
玄随にはすでにたくさんの門人もあり、月に六回の講義も盛んに行われていました。玄真はわけて熱心に傾聴しました。ある日、講義が終わると、玄随の夫人が到来物だといって重箱に一杯の強飯(こわめし)を出しました。するとそれを受け取った玄真が、ほかの門人たちに分配しようとはせず、どこかへ持っていったまま、いつまでたっても出てきません。不審に思ってみなが探し回ったところ、一間に打ち倒れていました。しばらくしてやっと気がついたので、いったいどうしたわけだとたずねてみると、みなはさらにいっそうその返答に驚かされました。彼は毎晩遅くまで流しの按摩(あんま)に出てわずかにその日の糊口(ここう)をしのぎ、家もなくて木賃宿に泊まっている身の上でした。この二、三日はあいにく雨ばかり降り続き、按摩にも出られず、今日でまる三日というもの、一食も喉に入れていなかったのです。強飯のお重を見るなり、むらむらと食い意地がさもしくなり、とうとう一人で食ってしまい、前後不覚におちいったのでした。このことがあってからは、玄随もいたくその熱心さに感服し、自分の家の塾生として引き取ることにしました。そしてさらに、実子が亡くなっていたので養子として、宇田川姓を名乗らせました。『言海』の著者・大槻文彦の講演筆記に載っている話です。
玄随の没後、玄真は養父の遺志を継いで『内科選要』に校訂補注を施し、『増補重訂内科選要』を公にしました。また文化二年(1805年)には『医範提綱(いはんていこう)』を著しています。この書はさきに大槻玄沢の書いた内科書を基礎として、さらに内科の説を大成したもので、そのころの医家は全編の文章を暗誦しえたくらい、重要な名著とされたのです。玄随にしてもそうでしたが、とりわけ玄真は漢学の素養をもってその力を翻訳のほうに応用したのですから、訳語がすこぶる的確でした。今まで一定した訳語のなかったものも、大抵この人によって適訳が決定されたほどです。後年、幕府に召されて天文台の翻訳方に任じられ、明治四十三年(1910年)十一月、父玄随とともに正四位を追贈されました。玄真もまた嗣(あとつぎ)なく、大垣の藩医江沢養樹の嫡子を迎えて養子としました。すなわち宇田川榕庵(ようあん)です。
学問嫌いの子どもが十年かけて訳した一冊は、人に誇るためではなく、あとに続く者の手引きのためでした。その人のもとに、三日食べていない若者が重箱の飯を一人で平らげて倒れ、やがて養子となって業を継ぎ、そのまた養子が日本の化学と植物学を開きます。宇田川の家の三代は、一冊の翻訳から始まったのです。


