「責任は自分が負うから、自分を叱ってもらいたい」
九歳の少年が、村人の前にひとり残ってそう言いました。友だちと神社の山車(だし)を引き出していたずらをし、叱られて、みなは一目散に逃げたのです。自分は止めるよう勧めたが、みなが承知しないので加わった。しかしこれはいたずらに相違ない、だから叱ってくれ。長州の貧しい家の子、のちの伊藤博文(いとう ひろぶみ)です。
時代と人
明治維新の前後を通じて、人傑五名を挙げよと言われたなら、誰しもそれがはなはだ難問であることに気づくでしょう。しかし、その五名のなかに決して逸することのできない一人物があります。ほかでもない、伊藤博文です。
明治維新は、単に一国の大業であったばかりでなく、実に複雑な国際関係のなかに日本がはじめて進出していった大業でした。この内外の微妙な諸情勢の渦巻きをはっきりとつかみ、さらにこの渦巻きの流れゆくところを見通して日本の進路を導いた、いわゆる明治の元勲(げんくん:建国の功臣)のなかで、伊藤博文の名はひときわ強い光を放っています。
討幕の実勢力たる薩長の連合を成就させたこと。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊の砲口を押さえ、彦島租借のような屈辱的な講和条項を削除させたこと。国禁を犯して西欧に学び、日本の制度文物の基礎を築き、自ら第一次内閣の宰相となって、立憲政治の中枢となるべき政党を組織したこと。帝国憲法を起草したこと。清の半属国のような朝鮮を独立国とし、のちにこれを併合して戦略上その他の問題を解決したこと。底本の『日本英雄伝』は、彼の功績をこう数え上げています。
六十九歳の全生涯を通じての彼は、世界の檜(ひのき)舞台に登場した新興国日本の師父であったとも言えるでしょう。国家は彼に負うところがはなはだ多かったし、彼はまた国家の舞台によって思う存分の活躍ができたのです。まことに時代は人を生み、人は時代を作るのでした。

成長する大器
彼は天保十二年(1841年)九月二日、山口県の一寒村、束荷(つかり)村に住む軽輩の士、林十蔵の一子として生まれました。父の十蔵は士分ではありましたが、まったく水呑百姓(みずのみびゃくしょう:田畑を持たない農民)と変わりのない貧乏に苦しんでいました。
彼はしだいに物心がつくにしたがって、非常に負けず嫌いの子となり、「武士の子」という強い自負を抱くようになりました。九歳のころのことです。友人たちとお宮の山車を引き出していたずらをやっているところを、村人に叱責されたことがあります。友人たちは一散に逃げ失せましたが、彼は一人居残って、堂々と村人に思うところを述べました。
「自分は最初こういういたずらをやめるようにみなに勧めたが、みなが承知しなかったので自分もみなに加わった。しかしこれはいたずらに相違ない。責任は自分が負うから、自分を叱ってもらいたい」
衆議を重んじ、それに同意した以上は一身に責任を取って恐れないこの意気こそ、彼の全生涯を通じての態度でした。
彼が六歳のとき、父は単身萩の城下に出て、卒族(そつぞく:足軽などの下級武士)伊藤弥右衛門の株を買い、妻子を呼び寄せました。この人は早くから討幕を主張して注意人物となっていたほどの傑物であったと底本は伝えています。その妻の琴子もまた、責任感の強い賢夫人でした。彼は十二歳のとき井原家に奉公していましたが、ある雪の夜、主家の使いの帰り道、あまりの寒さに実家に立ち寄りました。ところが母の琴子は色をなして、主用の途中で道草を食うなどとはもってのほかだと、わが子をふたたび雪のなかに追い出したのです。彼はこの両親によって育てられ、物情騒然たる天下の形勢のなかに成長していきました。
当時は、イギリス、アメリカ、フランス、ロシアなど、帝国主義的な野心に燃えた先進諸国が東洋にその魔手を伸ばそうとしつつあった時代で、清国はすでにその犠牲となって、イギリスに香港を奪われていました。危機は刻々と日本の上にも迫りつつあります。一方、国内には志士が各地に奮起して、封建日本の弔鐘が鳴りはじめていました。まさしく時代は人を呼んでいたのです。
十五歳のとき、彼は選ばれて浦賀付近の警備につきましたが、警備隊長の来原良蔵(くるはら りょうぞう)は早くも彼の器量を見抜いて、絶えず彼に読書を教え、天下の形勢を説きました。二年ののち、交代となって長州へ帰るに際して、彼を吉田松陰、木戸孝允に紹介します。松下村塾に学ぶこと五か月、藩の内命を受けて京都に使いし、梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わりを結びました。さらに来原良蔵にしたがって、洋式兵法の研究のために長崎に遊学します。こうして彼は天下の形勢をありのままに知ると同時に、多くの西洋の書籍にふれる機会を得たのですが、彼の知識欲はこれに満足せず、海外留学の志は日に日につのるばかりでした。

二十五歳の外交官
時は来ました。文久三年(1863年)、藩の内命によって、井上聞多(もんた:のちの馨)ら五人とともに、イギリスへ留学することになったのです。当時、海外渡航は国禁で、これを犯す者は死罪に処せられました。彼らは商人に扮装して横浜に潜入し、イギリスの商船長に紹介される手づるを得て、容易に承知しない船長を説き落とし、断髪洋装の姿で深夜、首尾よくイギリス商船に乗りこんだのです。彼らは水夫の助手となって上海に着き、ほかの商船に移って、幾多の困苦と侮辱とに耐え、海上四か月ののちにロンドンに上陸しました。彼と井上聞多とは、化学教授の家の食客(しょっかく:居候)となって、イギリスの事情と学問の研究に精励します。
たまたまロンドン・タイムスは長州藩の外国船砲撃のことを報じ、またイギリス国内に長州攻略の議が有力となっているとも報じていました。彼は危機迫る祖国のために翻然(ほんぜん)と意を決して、帰国の途についたのです。彼の国際的な活躍の第一歩は、実にここに踏み出されました。長州攻撃の四国連合艦隊は、早くも豊後姫島に結集して待機中です。彼はポルトガル人デボナーと名乗って横浜の外国人ホテルに入り、ただちにイギリス公使に面会しました。彼は長州攻略に十二日間の猶予を乞い、敵の根拠地である姫島までの海路の便を得ます。それから漁舟によって三田尻に上陸し、山口に潜入しました。
藩論は、彼の帰国によって沸騰しました。彼は売国奴とののしられ、刺客に狙われながらも、なお世界の大勢と日本の実力とを説いて一歩も退きません。猶予された十二日間は過ぎました。彼の三か月の猶予の要求は一蹴され、ついに四国連合艦隊の下関砲撃となったのです。しかし講和談判において彼の手腕はよく国威の失墜を救い、禍根となるべき彦島租借の条項をみごとに削除させたのでした。国民はひとしくこの二十五歳の新鋭外交官の出現に驚喜しました。彼は今や長州の一伊藤ではなく、日本の伊藤として世に現れたのです。「書生々々と軽蔑するな、書生は天下のあばれもの」と京童(きょうわらべ)の俗謡にうたわれたのも、もっともなことでしょう。

新日本の師父として
彼の活躍はいよいよその輝きを加えていきました。まず第一に、討幕の大事業がありました。彼は一刻も悲壮な言論に酔おうとはしません。彼は、討幕のためには薩長連合こそ目下の急務だと考えました。井上聞多とともに、たがいに離反していた薩長の志士を結び、討幕の連合勢力を組織したのです。こうして将軍慶喜の大政奉還となり、幾多の志士の犠牲は報いられて、新興日本は新しい第一歩を踏み出しました。慶応三年(1867年)、彼が二十七歳のときです。
明治二年(1869年)、彼は民部大輔(たいふ)となって新制度の整備に努め、同四年には岩倉具視を正使とする遣外使節の副使として欧米各国を歴訪しましたが、少壮俊英(しょうそうしゅんえい:若くてすぐれていること)の彼はしばしば岩倉と事を論じて、「貴方のごとき糟公卿(かすくげ)に国家の事が判るか」と面と向かって責めたほど、自ら深く信じるところがありました。征韓論の沸騰するさなかに彼は帰国します。微妙な世界の動きを知り尽くした彼は、断固として征韓論に反対しました。木戸孝允が死に、続いて大久保利通が凶刃に倒れるに及んで、天下はこぞって彼の経綸(けいりん:国を治める方策)と才腕とに全幅の信頼をかけたのです。
明治十四年(1881年)、国会開設に関する詔勅が下り、彼は三たび海を渡って先進諸国の法律、政治を研究し、十六年に帰国して、かの帝国憲法草案の起草の重任につきました。明治二十八年(1895年)、大勲位の称号を贈られ、「長州の一軽士の子」はここに位人臣(くらいじんしん)を極めたのです。
明治四十二年(1909年)十月、六十九歳にしてハルビン駅頭の凶弾に倒れる劇的な最期に至るまで、宰相となること四度、野にいるときも常に要職にあって、彼の処理した国事はただ列記するだけでも一巻の書をなすほどです。
彼の性格は円転滑脱(えんてんかつだつ:角が立たず物事をうまく運ぶこと)で、「八方美人」とあだ名されるほど部下の統御に長じていました。しかも決して私党を作らず、財を積まず、異常な精力を傾けて日本を世界の日本たらしめることに努めたその功績は、実に維新の人傑五名のなかに彼の名を逸することのできない光輝を放っています。彼を豊太閤やビスマルクに比肩する政治家だと評する者がありますが、はなはだしく奇矯な言とは言えないでしょう。
雪の夜に母に追い出された少年は、国禁を犯して海を渡り、売国奴とののしられながら藩を説き、憲法を書き、四度の内閣を率いて、異国の駅で倒れました。責任は自分が負う。九歳の日に言ったことを、この人は最後まで通したのです。




