「今宵こそ満願じゃ」
鶴岡八幡宮にこもって祈り続けた剣客が、ふと、他に頼っている自分を恥じました。心は水のように静まり、そのまま神前を退こうとしたそのとき、背後に殺気が迫ります。体を横に開き、抜き打ちに払った一太刀。曲者(くせもの)は血煙を立てて倒れました。「むう、これじゃ。極意じゃ」。一刀流の開祖、伊藤一刀斎(いとう いっとうさい)が無想剣をつかんだ瞬間だと伝えられています。
無想剣の妙諦
「今宵こそ満願じゃ」
一刀斎は何事かを予期するもののように、姿勢を正すとふたたび祈願三昧(ざんまい)に入りました。そのころはもう海内無双(かいだいむそう:国じゅうに並ぶ者がない)の達人としてとどろいていた彼にも、一刀流の流儀を一貫する法則、すなわち極意をまだ発見できないという、人知れぬ悩みがあったのです。こうして鶴岡八幡宮に参籠(さんろう)したのも、その加護を期待したからこそでしたが、いっこうに効験は現れそうにありませんでした。一刀斎は今さらながら、自分が他に頼っていることのすでに不覚であったことに気づき、心はかえって水のように淡々と、何ものにもとらわれなくなってきました。そしてそのまま静かに神前から退こうとしたのです。
そのときです。不意に、遺恨か物盗りか、背後に迫る殺気がありました。一刀斎は体を横に開くと、紫電一閃、抜き打ちに横に払いました。すうっと霞を斬るほどの手応え。曲者は血煙を立てて、どうと倒れました。
「むう、これじゃ。極意じゃ」
とっさの間に何の工夫もなく横に払った剣でしたが、一刀斎にはうなずけるものがありました。そして一刀斎は、ここに無想剣の妙諦(みょうてい:すぐれた真理)を感得したのです。一刀斎の口伝をその没後に高弟の古藤田俊定(ことうだ としさだ)が筆記したものに、「内に邪を生ぜざれば業よく正し」あるいは「必勝は構えに非ず事理の正しきにあり」とあるように、身心一如(しんしんいちにょ:体と心が一つになること)、一心一刀の秘奥を悟ったのでした。一刀斎の剣道史における赫々(かくかく)たる功績は、このように心の要素を剣技に採り入れたところにあります。

天性の武技
一刀斎は、足利将軍の時代に伊豆伊東の近在に生まれました。通称は弥五郎です。
幼少から野人のように山野をかけめぐり、短い着物にぼうぼうの髪、里人が彼を島鬼とあだ名したので、自らも鬼夜叉(おにやしゃ)と号し、十四歳のころにはすでに近所に並ぶ者のない手練(てだれ)でした。好んで三島神社の木の下を寝所として、しばらく付近を徘徊(はいかい)していましたが、ある日、一人の放浪の武芸者が村に来て剣法を教えたことがあります。血気の弥五郎はさっそくこれに試合を申しこみました。武芸者は木剣を取って教えようとしましたが、さんざんの敗北を喫して、夜逃げをしてしまったのです。
三島神社の神官はこれを見て感嘆し、弥太郎ならぬ弥五郎をひざもとに招いて、その志を問いました。弥五郎は率直に、「兵法を学んで身を立てようと思いまする」と、かねてからの抱負を申し述べます。神官はわが意を得たりとばかり、さっそく路銀を与え、かつ神社に奉納されていた名刀一文字を餞別(せんべつ)として与えました。有名な甕割(かめわり)の剣とはこれです。のちに一刀斎がこの刀で賊を追いつめ、賊が小盾に取った大甕もろともに真っ二つに斬って捨てたところから、この名が起こったといいます。
弥五郎は北条氏の治下にあった鎌倉に赴き、中条流の達人・鐘巻自斎(かねまき じさい)について学びましたが、持ち前の天分と熱心さとで、またたく間に同輩をしのぎ、師の自斎に立ち向かっても三本中二本は必ず勝てるようになりました。自斎もこの速やかな上達ぶりに舌を巻き、たずねました。
「もはやなんじには、とうてい勝てるとも見えぬ。したが、いかにしてその神技を得たのじゃ」
「されば。先生が拙者を打とうとなさる心はすなわち虚にして、拙者の防ごうとするのは人間の本性にして実でござる。実をもって虚を打つ、これ勝ちを得るゆえんではござるまいか」
自斎は大いに感動し、蘊蓄(うんちく)の秘伝をことごとく彼に授けました。弥五郎はこれより一刀斎景久(かげひさ)と名乗り、諸国修行に出ます。初め西国を志し、ついで東国に行き、国内に足跡を残さないところはないほどで、主な試合は三十三度、そのうち真剣勝負は七度に及びましたが、一度も不覚を取りませんでした。彼を慕って師弟の約を乞う者は千人を超えたといいます。こうしてふたたび鎌倉に帰り、ここに一刀流を創始しました。一刀斎が八幡宮に参籠して剣法の秘奥をきわめたのは、このときです。

隠棲
当時、鎌倉は小田原の北条氏の庇護(ひご)のもとにわずかに戦禍から免れていましたが、一歩外に出ればどこも血なまぐさい戦乱の巷(ちまた)と化していました。だから腕の立つ武芸者には、仕官を求める道はいくらでも開けていたのです。だが多年にわたる不退転の修業でようやく神韻(しんいん)を帯びてきた一刀斎は、仕官の野心も起こさず、かえって血なまぐさい世相をいとうもののようでした。
天正十六年(1588年)、彼は極意を授けて自らは隠棲(いんせい)するために房州に渡りました。そこには千をもって数える門弟のなかでも、ことに技のすぐれた二人の高弟がいました。一人は佐倉城主・千葉介の家臣で、善鬼(ぜんき)といいます。もとは淀の川船の力たくましい船頭であったといわれ、たまたま一刀斎がそこへさしかかったとき、櫂(かい)をもって手合わせを挑みましたが、櫂を振りかぶって打ち下ろしたのを巧みにかわされ、力あまって櫂を砂中に打ちこんでしまったところを反対に据えられ、はじめて自分の未熟に気づいて、乞うて一刀斎の弟子になったのです。もう一人は上総(かずさ)万喜(まんぎ)の城主・弾正少弼頼春(だんじょうのしょうひつ よりはる)の家来、神子上典膳(みこがみ てんぜん)でした。彼もまた一刀斎が上総に周遊して来た折、その宿所に押しかけて試合を申しこみました。一刀斎は笑みを含んで言いました。
「房州随一のうわさあるはなんじか。まだ若年の様子、命を奪うも大人げなし」
そしてそばにあった薪を提げて、やおら起き上がります。典膳は思わずかっとなって刀を正眼に構えて立ち向かいましたが、たちまち利き腕をたたかれ、一刀をぽろりと落としました。一刀斎はそのまま無言で奥に入ってしまいます。典膳は茫然として立ち尽くしていましたが、ややあって我に返り、わが師と頼むべきはこの人のほかにはないと悟りました。そして一刀斎のあとを追い、師弟の約を乞うたのです。
善鬼のほうが兄弟子ですが、善鬼はもともと下賤の身で心も邪であったから、一刀斎はむしろ弟弟子の典膳を後継者としたいと思っていました。一刀斎の爪先は、おのずと典膳のいる万喜城のほうに向かっていたのです。これを伝え聞いた善鬼は、すわ一大事と、一刀斎を途中で待ち受けて免許皆伝を強要しましたが、一刀斎は飄々(ひょうひょう)として聞かぬふりをしていました。
「もしそれがかないませねば、拙者も武士の端くれ、典膳と真剣の勝負をして優劣を一挙に決したいと思いまする」
善鬼は重ねて自信ありげにこう言いました。一刀斎は己をわきまえぬこの言葉に寒々となりましたが、この願いをも拒んではえこひいきの沙汰と言い広められるやもしれぬと、ここに二人を真剣で立ち合わせることにしたのです。

奥儀の伝授
下総国(しもうさのくに)葛飾郡の小金ヶ原(こがねがはら)を縫って、一刀斎は二人を従えて歩いていきました。今日こそ、いずれに極意を授けるか、自分にとってもまた弟子たちにとっても大事な日です。人家はすでに後ろに遠く、あたりは一面に穂薄(ほすすき)の海でした。一刀斎は目指した空き地に来ると、弟子たちを顧みて身支度を命じたうえで言いました。
「今さら詮議(せんぎ)に及ばぬが、勝敗は武士の習いじゃ。両人とも心おきなく闘われよ。いざ」
二人はさっと左右に立ち別れて、ぎらりぎらりと引き抜きました。にらみ合った二つの剣は、鶺鴒(せきれい)の尾のように活発に動きます。これは太刀先を凝らせないためで、一刀斎がもっぱら奨励するところでした。「えい」「おう」。殺気のこもった鋭い気合が、ときどき稲妻のように流れます。二つの体は正確な間を置いて、機械のように前後左右に移動しました。こうした状態が小半時も続きます。
敵をただ討つと思うな身を守れおのずから漏る賤が家の月
こういう一刀流の道歌にもあるように、たがいに敵の構えの破綻を待っていたのです。ただ師の絶対の命令のままに剣を抜いた典膳は、心眼をかっと見開いていささかも倦(う)むことはありませんでしたが、一方の善鬼の心に宿っていた師への反感はいつしか形に現れ、その剣先はやや乱れを示しはじめました。いらだって技をかけたのは善鬼でした。激しい火花が散って、それからしんとなりました。善鬼が倒れたのです。
「典膳、みごとじゃ」
一刀斎から晴れ晴れとした声がかかりました。典膳ははっと師の前に平伏します。
「それが無想剣じゃ。なんと、会得が参ったであろう」
「恐れ入りまする」
一刀斎はその場で極意の伝授を済ませ、甕割の剣を合わせて与えたのでした。

晩年と彼の業績
一刀斎はその後、小金ヶ原にささやかな庵を結んで、亡き善鬼のあとを手厚くとむらいました。後世に伝わった善鬼塚はそれであるといわれます。一説には、飄然とそこを立ち去り、越前敦賀に行って道場を開いたともいいます。徳川三代将軍家光のときに行われた寛永御前試合には九十余歳の高齢で忽然と現れたとありますが、年代から推せば、あながち荒唐無稽の説とも言えません。
一方の典膳は主家滅亡のため一時浪人しましたが、のち江戸に出て駿河台に道場を開き、数多くの門人を取り立てました。やがて二代将軍秀忠に召し抱えられ、禄高三百石を給されます。同時に外祖父の名字を継いで、小野次郎右衛門忠明(おの じろうえもん ただあき)と改めました。これが一刀流の幕府に採用されるようになった発端です。
忠明は師の跡を重んじて、長子の忠也(ただなり)に伊藤姓を継がせて伊藤典膳と名乗らせ、小野姓は二男の忠常に継がせました。一刀流に小野派と伊藤派の二派が生じたのはこのためです。近世、千葉周作の編み出した北辰一刀流、山岡鉄舟の創めた無刀流も、やはりこれから出た剣法であり、底本が書かれた昭和の初めには、高野佐三郎、門奈正(もんな ただし)、内藤高治の各範士など、剣道界の大家がすべてこの一刀流の流れをくんでいました。
神前で祈ることをやめた瞬間に、極意は向こうからやってきました。構えではなく、心の正しさに勝ちがある。三十三度の試合に負けなかった人が残したのは、刀の技よりも、その一言だったのかもしれません。





