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青木昆陽の生涯|「甘藷先生」と呼ばれサツマイモで人々を飢饉から救った蘭学者

『青木昆陽』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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江戸時代の中ごろ、死罪をまぬがれた重い罪人は、島流しにされました。

ところが、流された先は漁業が中心の、農産物の乏しい島々です。土地の風土に慣れていない流人(るにん:島流しにされた人)たちは、海のものや木の実ばかりを与えられて、たちまち体をこわしました。飢えて死ぬ者、病で死ぬ者が後を絶ちません。

死罪はまぬがれたはずなのに、結果として死罪より重い罰になっている——。

この痛ましい現実が、一人の学者の胸を打ちました。何とかして、天から与えられた寿命をまっとうさせてやりたい。流人たちの食べ物を、どうすれば確保できるのか。彼は救う方法を考え続けました。

そして目をつけたのが、やせた土地でも育つ一本の芋、甘藷(かんしょ)——のちに「薩摩芋」と呼ばれるサツマイモです。

この学者の名は青木昆陽(あおき こんよう)。
「甘藷先生」と呼ばれ、蘭学の道を切りひらいた人でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本には「支那」など当時の呼び方があり、この記事では現在の言い方に改めました。底本が記す甘藷伝来の年や人名には現在の理解と異なる箇所があり、それぞれ※注で断っています。

 

慈愛の発露

 

青木昆陽は、二つの顔をもつ人でした。

一つは、蘭学(らんがく:オランダ語を通して西洋の学問を学ぶこと)の先駆者としての顔。もう一つは、古い文書や記録を集めて幕府に残した、地道な学者としての顔です。どちらも大きな功績で、今日にまで役立っています。

けれども、今の私たちがよく知っている青木昆陽は、そうした学者としての姿よりも、むしろ「困っている人を助けた人」としての姿でしょう。「甘藷先生」と言えば、子どもでも知っている。それほど彼は、甘藷を広めることに力を注ぎました。

なぜ、それほどまでに広めようとしたのか。

一つのきっかけは、冒頭に書いた流人の食べ物の問題だと言われています。しかし、それだけではありません。もっと根本にあったのは、当時の農村のひどい貧しさに、黙っていられなかった彼の心でした。

享保十七年(1732年)、中国地方から西の地方が、虫の害による大凶作に見舞われました。西南の街道筋の村々は、飢えに瀕(ひん)します。農業の技術はまだ幼く、年貢の取り立ては厳しく、そこに天災が重なって、農民の暮らしはますます追いつめられていきました。寛延三年(1750年)には、農民が集団で押しかけて訴えることを禁じる布令を出さなければならないほど、事態は深刻でした。

昆陽は、こうした農村を救う手立てを考えました。そのなかで、米の代わりになる食べ物として甘藷に目をつけたのでしょう。

 

※注:享保十七年の飢饉は「享保の大飢饉」と呼ばれ、ウンカなどの虫害と長雨によって西日本一帯が凶作になりました。底本の「蝗(いなご)」は当時の呼び方で、実際の害虫はウンカ類とされています。

 

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救済の策として

 

甘藷のふるさとは、南アメリカです。

日本には、元禄の初めごろ、琉球の儀間親雲上(ぎま ぺーちん:儀間真常)が中国の福建地方から琉球に持ち帰った、と底本は記しています。その後、元禄十一年(1698年)に琉球の王が薩摩藩の種子島久基(たねがしま ひさもと)に贈り、久基が熱心に増やした結果、数年のうちに九州南部一帯に広まったといいます。

ただし、伝来にはいろいろな説があります。宝永二年(1705年)に薩摩の前田利右衛門(まえだ りえもん)が禁を破って琉球から持ち帰ったという説。慶長十四年(1609年)に島津氏が琉球を攻めたとき、すでに持ち込んでいたという説。ポルトガル人が運んだという説。

いずれにせよ、甘藷は九州から四国、中国地方へと伝わり、凶作のときには米の代わりとして大いに役立ちました。宝暦(1751年〜)以来、各地でどんどん広まっていったのです。

では、昆陽の功績は何だったのでしょうか。

それは、育てやすい甘藷の価値をはっきりと見抜き、幕府を動かして全国に広めさせたこと。そして何より、それまで甘藷のなかった関東地方に持ち込んだことです。

まず昆陽は、種藷(たねいも)を薩摩から取り寄せ、小石川薬園(現在の東京・小石川植物園)で育ててみました。結果は、見事な成功でした。この経験をもとに書いたのが『蕃藷考(ばんしょこう)』という甘藷栽培の本で、これがやがて全国の農村の道しるべになります。

幕府も、動きました。享保十七年の虫害による凶作、そして十六万九千九百人あまりが餓死したという翌十八年の大飢饉——こうした惨事を目の当たりにして、幕府は甘藷への関心を深めます。「栽培を奨励する」程度では手ぬるいと気づき、その年には、江戸の町の空き地に藷床(いもどこ:苗を育てる床)を作れというお達しを出して、半ば強制的に栽培させました。元文二年(1737年)、昆陽は幕府の試作場から種藷千八百個をもらい受け、各地に分け与えています。

ところで、甘藷の呼び名は地方によって違います。関東では薩摩芋、薩摩では琉球芋、琉球では唐芋(からいも)。中国南部から入って、南から北へ広まった道すじが、名前を追うだけでわかります。面白いのは、関東に広まっても「関東芋」とは呼ばれなかったことです。昆陽の献策がすぐ実行に移されて全国に行きわたったため、新しい名前が生まれる暇がなかったのでしょう。それに、昆陽が薩摩から取り寄せたという事実そのものが、「薩摩芋」の名を定着させたに違いありません。つまり「薩摩芋」という言葉は、それ自体が甘藷先生の功績を記念しているのです。

甘藷は、米にくらべて栽培が簡単で、病気や虫にも強い。米が不作の年でも、甘藷は比較的無事です。米がとれなくても甘藷がとれれば、飢えはある程度しのげる。このことで、古今どれだけの命が救われたことでしょう。昆陽の徳は全国をうるおした、と言わなければなりません。

 

※注:底本は儀間親雲上が福建から持ち帰ったとしていますが、現在の定説では、甘藷を中国から持ち帰ったのは野国総管(のぐに そうかん)で、儀間真常はその苗を譲り受けて琉球に広めた人です。年代も、底本の「元禄の初期」ではなく慶長十年(1605年)ごろです。原本を確かめたところ、底本にそのまま印刷されていました。

 

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蘭学の先駆者

 

西洋のものごとを研究する学問は、八代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころから、しだいに盛んになりました。吉宗が青木昆陽らにオランダ語の学習を命じたことが、西洋の文化を日本に取り入れる始まりだとされています。

大槻玄沢(おおつき げんたく)の説によれば、蘭学の道は新井白石(あらい はくせき)が最初の一歩を踏み出し、青木昆陽が中興の立役者となり、杉田玄白(すぎた げんぱく)に至っていよいよ栄えた、といいます。吉宗より前の時代は、国を閉ざして外国を退ける考えが強く、西洋の学問に手をつけることなど、とても考えられなかったのです。

昆陽は、薬になる動植物を研究する学者・野呂元丈(のろ げんじょう)と一緒に、オランダ語を学びはじめました。相手は、幕府に挨拶するため江戸へやって来るカピタン(オランダ商館長)です。しかしカピタンが江戸にいる日数は限られています。昆陽の学びたい気持ちは、とても満たされませんでした。しかも西洋の文化は、日ごとに進んでいる。そう思うと、向学心に燃える昆陽は、昼も夜も焦りにさいなまれました。

そこで彼は、幕府に願い出て、長崎に留学させてもらいます。それまで頑固だった幕府がすぐに許したのは、吉宗が彼を信頼していたからです。

長崎にいる間、彼はオランダ語をおよそ八百語おぼえ、文法や発音、言葉の意味をひととおり理解したといいます。その努力が並大抵でなかったことは言うまでもありません。こうして苦労を重ねた末に、彼は『和蘭文字略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』『和蘭文訳』『昆陽漫録』などの本を書きました。これこそが、蘭学が起こる源になったのです。

当時、長崎の出島や幕府には、外国人との交渉にあたる通詞(つうじ:通訳官)がいました。当然、彼らは立派なオランダ語の使い手でなければなりません。ところが——今から考えると矛盾した話ですが——彼らは、西洋の言葉を話すことは仕事として許されていても、外国の文字を読むことは禁じられていたのです。

昆陽が休暇をもらって長崎に遊学したのは延享元年(1744年)のことです。彼はそこで、この矛盾に苦しむ通詞たちの不平を聞きました。もっともな不平です。昆陽は幕府に対して、この弊害を取り除くよう働きかけました。その結果、翌年には、主だった通詞三人だけではありましたが、初めてオランダ語の文書を読む特別な許しが与えられたのです。

しかし、この三人以外は、あいかわらず西洋の文字から目隠しをされたままでした。キリスト教を「邪宗」として、その侵入を極端に恐れていたからです。それにしても幕府の神経のとがり方は、度を越していました。本の中に横文字を入れたというだけの理由で、絶版を命じられた例さえあります。

そんな厳しい禁制のなかで、どうして蘭学が起こったのか。それは、時代が求めたからです。この求めは、大きな波のうねりのように次から次へと押し寄せてきて、幕府の力でも押し戻すことはできませんでした。この流れの中心で動いていた見識ある人々を、俗に「豪傑」と呼びました。昆陽は、その豪傑の中の豪傑だったのです。蘭学を志す者は、昆陽に近づけば道が開けた。彼は蘭学にとって、まさに大恩人と言えます。

 

※注:底本は「延享元年に長崎に遊学」としていますが、昆陽が吉宗の命でオランダ語の学習を始めたのは元文五年(1740年)ごろで、長崎行きの年については資料によって違いがあります。野呂元丈の『阿蘭陀本草和解(おらんだほんぞうわげ)』は西洋の本草書を訳したもので、日本で最初の西洋博物学の翻訳とされます。

 

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晩年の業績

 

昆陽というのは号で、名は敦書(あつのり)、字(あざな)は原甫(げんぽ)、通称を文蔵といいました。元禄十一年(1698年)の生まれです。父は近江の商人で佃屋半右衛門といいましたが、一説には伊勢の人とも、江戸日本橋の魚屋だったともいいます。

昆陽は京都の伊藤東涯(いとう とうがい)に学び、幕府に仕えました。はじめは身分の低い、仕官もしていない学者にすぎません。けれども彼には、たゆまない向学心と、天才のひらめきがありました。その彼を見出したのが、「大岡政談」で知られる名奉行・大岡忠相(おおおか ただすけ)です。忠相の推薦で、昆陽は幕府の書庫の本を読むことを許されました。これはほとんど前例のない、破格の名誉でした。昆陽の喜びは天にも昇るようで、思う存分、勉強に打ち込むことができたのです。

延享元年(1744年)、昆陽は紅葉山(もみじやま:江戸城内の幕府の文庫)の御書物御用になりました。同四年には評定所の儒者、明和四年(1767年)には書物奉行へと出世します。書物を管理する仕事は、まさに彼のはまり役でした。熱心な彼はたびたび地方へ出かけ、神社や寺はもちろん、さびれた村の旧家まで訪ね歩いては、埋もれていた貴重な記録を探し出し、幕府の書庫に収めました。昆陽だからこそできた仕事でしょう。目立たない仕事でしたが、のちの歴史研究に役立った価値は小さくありません。

明和六年(1769年)十月十二日、七十二歳で亡くなりました。墓は目黒不動の裏手(現在の東京都目黒区)の龍泉寺にあり、「甘藷先生の墓」と刻まれています。明治四十一年(1908年)十一月、正四位を贈られました。

 

※注:底本は延享元年の役職を「紅葉山大番」と記していますが、一般には御書物御用(紅葉山文庫の書物を扱う役)とされます。伊藤東涯は古義学派の儒者・伊藤仁斎の子で、京都の古義堂を継いだ人です。享年七十二は数え年。

 

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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