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直江兼続の生涯|伊達政宗の金貨を扇に載せて突き返した「天下の直江」

直江兼続の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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慶長の頃、聚楽第(じゅらくてい:秀吉が京都に建てた屋敷)で諸大名が話していた折、独眼龍・伊達政宗が懐から新しいピカピカの金貨を取り出して、人々に見せました。金貨の珍しい時分とあって、みなあれこれと手に取って眺め、ずっと回して兼続のところまで回ってきたのです。すると彼は扇をひらいてそれを受け、ひっくり返しひっくり返し、女の子が羽根をつくようにしてそれを見ました。

陪臣(ばいしん:大名の家来、つまり家来の家来)だから遠慮しているのだろうと、変な思いやりをした政宗は、

「苦しゅうござらぬ、手にとられよ」

——構わない、手に取りなさい——と、さも優しげに言うと兼続はこう答えたのです。

「この兼続の手は、謙信公以来、采配をとって先陣を下知(げち)したる手でござれば、斯様(かよう)な卑しきものを取りて穢(けが)さんことを恐れ、かくは扇子に載せおるものでござるわい」

——この兼続の手は、謙信公以来、采配を取って先陣に命令を下してきた手ですから、このような卑しいものを手に取って汚すことを恐れて、こうして扇に載せているのですよ——。そして、ぽんと金貨を政宗の前へ投げ返しました。これにはさすがの政宗も参ってしまったといいます。

この人の名は、直江兼続(なおえ かねつぐ)。上杉謙信に見出され、景勝を支えて「天下の直江」と呼ばれ、家康に挑戦状を叩きつけて関ヶ原の東の戦いを担った上杉家の大黒柱。その生涯をたどります。

 

※注:この記事の見出しは、底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』、昭和11年刊)の小見出しにしたがって「直江山城守」の名を用いています。「山城守」は官名で、一般には直江兼続として知られます。

 

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謙信を嗤う

 

武田信玄が上杉謙信のもとへ、岡田堅桃斎(おかだ けんとうさい)を使者によこしたことがありました。謙信はかねて堅桃斎が和歌のたしなみも深いと聞いていたので、越後の名所「越の長浜」を彼に見せてやりたいと思い、連れ立って浜の見物に出ました。

彼らは春日山の城から海辺に着き、一日中、酒宴を催すなどして遊びましたが、堅桃斎はその道すがら連れてきた子どもに輪を投げさせて面白がり、また浜でも放り投げさせて面白がりました。謙信もその無邪気な遊びを手をたたいて笑いました。

ところが、のほほんと笑いながら堅桃斎は、綿密に目を凝らして、主人・信玄への土産を拾い集めていたのです。彼は子どもの投げる輪によって、城から浜までの距離、塀の長さ、堀の幅、浜の長さや高低などを詳しく測っていたのでした。

堅桃斎が甲斐へ帰ってから間もなく、信玄から謙信へ、「越の長浜の丈尺(じょうしゃく)は幾何(いくら)でござったかな」——越の長浜の長さはどれほどでしたかな——と、しらばくれた質問が来ました。謙信はさっそくその地の代官を呼んで浜の測量を命じました。

するとこれを聞いた代官の下役の一人である、すらりと背の高い、顔立ちの整った凛とした若者が、平然として言いました。

「御大将(おんたいしょう)も無駄なことをやらせるな」

と、笑ったのです。代官がそれをとがめると、

「これは多分、武田殿からの御注文でしょう。武田殿からならば、測量など無用でござる。先日来おった歌読み奴が、投輪を投げてちゃんと計って行きましたわい」

ほうと驚いた顔で、代官は謙信にこのとおり報告しました。謙信はきゅっと顎をつまんで、

「な、なるほど——」

と、堅桃斎の小細工ぶりに驚くよりも、まずその代官の下役——自分を笑ったその若者に感心し、さっそくその若者を取り立てて、樋口与惣左衛門(ひぐち よそうざえもん)の養子にし、与六兼続(よろく かねつぐ)と名乗らせて小姓(こしょう:主君のそば近くに仕える若い武士)にしました。この若者こそは、後に上杉家の大黒柱とうたわれるに至った直江山城守(やましろのかみ)兼続でした。

 

※注:この逸話は底本が伝えるもので、兼続の抜擢を語る伝承の一つです。一般には、兼続は幼い頃から景勝の小姓として仕えたとされます。

 

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天下の直江

 

兼続は永禄三年(1560年)、足利十三代将軍・義輝の頃、越後南魚沼郡上田(今の新潟県南魚沼市)に生まれました。文武両道に通じ、弁舌さわやかで才知と気迫に富み、肝がすわって豪快で何ものにも縛られないという、誠にまれに見る傑物(けつぶつ)でした。それゆえ名将・謙信に重く用いられ、謙信の死後はまた景勝の信任を受け、天正九年(1581年)、重臣・直江与兵衛信綱(なおえ よへえ のぶつな)が春日山城の中で刺されると、彼は命令によって直江家を継ぎ、一躍して重臣の列に連なりました。ついで天正十一年には山城守と改め、翌年、従五位下(じゅごいのげ:朝廷の位の一つ)に叙(じょ)せられました。

 

※注:兼続は樋口兼豊の子で、上田長尾家(景勝の実家)の家臣の家に生まれました。信綱の未亡人・お船と結婚して直江家を継いだのです。

 

兼続は陪臣とはいえ、貫禄はあり、器量はあり、その上、景勝が会津百三十一万八千石に封じられた際は、米沢城に堂々三十二万石を領していたのですから、どちらから見ても、ちっぽけな小大名などとは桁が違っていました。秀吉なども早くから兼続の人物を認めていて、あの小田原攻めの時には特に彼を呼び出して攻め方の意見を求め、太刀や季節の衣服を与えたりして、

「陪臣にて、天下を上下しかねまじきは、直江山城守である」

——家来の家来の身で、天下を動かしかねないのは直江山城守である——とほめたたえました。秀吉が奥州の伊達と関東の徳川とを抑える策として会津に景勝を据えたのは、秀吉の兼続に対する信頼が大いに力になったといわれています。

 

※注:景勝の会津移封は慶長三年(1598年)で、一般には百二十万石、兼続の米沢は三十万石とされます。

 

また、かつて大阪城内で諸大名が集まって雑談していた時、家康が、

「もし仮に西国の諸大名が大挙して攻め上って来るとして、その大軍をこの城に拠ってよく支え得る者は、大臣小臣陪臣の中に誰がおろうかの」

——もし仮に西国の大名たちが大勢で攻め上ってくるとして、その大軍をこの城に立てこもってよく支えられる者は、大名から家来の家来まで、誰がいるだろうか——と言うと、福島正則が、

「某の思うところでは、まず直江山城守——」

とすぐに答えました。

「わしもそう思う」

と家康はうなずきました。兼続が単に上杉家を背負って立つ兼続ではなく、文字どおり押しも押されもしない「天下の直江」であったことは、天下の上も下もみな認めるところでした。したがって彼の前には、常に見識を誇る大大名でさえも一歩を譲りました。冒頭の政宗の金貨の一件も、そうした彼の面目を伝えるものです。

しかし兼続は、自分を頼むあまりむやみに傍若無人にふるまう人物であったかというと、決してそうではなく、一面では非常に謙虚で、尽くすべき場合には厚く礼を尽くしました。
慶長四年(1599年)、景勝に従って会津に帰ろうとした時、彼は大学者・藤原惺窩(ふじわら せいか)に会おうとして三度までその屋敷を訪れました。が、惺窩は不在だと言って会いませんでした。けれども三度目に行った時、今度お出でくださるならば会おうと言いました。次の日、また彼は出かけていきました。するとその日は本当の留守でした。彼は悲しげに、

「一度お目通りをしたいと願ったが、最早是非もないこと」

と、その日出発して会津に向かいました。一足違いに帰宅した惺窩は駕籠を飛ばして後を追い、大津の宿で追いつきました。兼続はたいそう喜び、深くその厚意に礼を言った後、

「この一事だけお教え願いとう存じます。それ、絶を継ぎ傾(けい)を扶く——ということは、今の時に当たって行うべきものでございましょうか、ただしは行うべからざるものでございましょうか」

——この一つのことだけお教え願いたく存じます。滅びかけた家を継ぎ、傾いた者を助けるということは、今の時に行うべきものでしょうか、それとも行ってはならないものでしょうか——。惺窩はじっと目を閉じていましたが、

「事の急なるは、かえって破れの基」

——事を急ぐのは、かえって破れのもとだ——と答えました。兼続はうなずいて頭を下げ、丁重に深い感謝の気持ちを表しました。

 

※注:藤原惺窩は近世儒学の祖とされる学者で、林羅山の師です。「絶を継ぎ傾を扶く」は、滅びかけた家を継ぎ、傾いた者を助けるという儒学の言葉で、秀吉亡き後の豊臣家をどう扱うべきかを暗に問うたものと読めます。兼続は学問を好み、米沢に禅林文庫を設け、宋版の『史記』などを集めたことでも知られます。

 

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武門の意地・家康に挑む

 

慶長三年(1598年)八月、英雄・秀吉がこの世を去ると、天下の実権は表に出ないままに徳川家康の手に移っていきました。翌四年八月、伏見を辞して会津に帰った上杉景勝は、浪人を召し抱え、神指原(こうざしはら)の築城に着手し、人夫八万を働かせて日夜完成を急ぎ、諸城を修理し、道路を改修し、橋を新設しました。すると、「景勝謀叛の兆あり」という噂が慶長五年正月頃から上方でうわさされはじめました。それに便乗して、かねて上杉家に対し不快の念を抱いていた越後の堀秀治(ほり ひではる)が、あることないこと並べ立てて、上杉の行いを家康に悪く言い立てました。

思うところのある家康は、自ら景勝に当たることを避けて、兼続と知り合いである相国寺の塔頭(たっちゅう:大きな寺の中の小寺)・豊光寺の承兌(しょうたい)に兼続宛ての書状を書かせ、やんわりと妙に遠回しに反省を促してきました。謀反の評判がしきりであるから、一日も早く景勝が京に上って疑いを解くのがよろしかろう、というのでした。

これに対し兼続は、返事の書状を送りました。その趣旨は——何をばかなことを言うか。越後の五十五万石から会津の百三十一万石に領地を移されれば、家来を召し抱えるのも当たり前だし、新たに入った領地にいろいろな改良を施すのは領主として当然のことである。こちらに何ら裏切りの心がないのだから、京に上って申し開きなどはかえっておかしい。景勝を謀反呼ばわりする前に、陰口をたたいた堀の方をなぜもっと調べないのか。そんな片手落ちのやり方で謀反謀反と言うなら、いくらでも勝手に言ったがよろしかろう——という、痛烈な皮肉に多分の挑戦的な口調を込めて、攻めてくるならいつでも来いという調子のものでした。

 

※注:これが世にいう「直江状」です。この書状の真偽については古くから議論があり、後世の創作や改変を含むとする説も有力です。底本はその内容を自由に言い換えており、この記事でもその趣旨で訳しました。

 

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もちろん、それは兼続一人の意見ではなく、上杉景勝の思いでもありました。一つには堀に対する不快さからでもあり、二つには自分と同じく豊臣家の五大老の一人でありながら、豊臣家の政治を一人で切り盛りして傍若無人にふるまう家康に対する意地でした。また、弓矢に生きる上杉家の、誇り高い武門の意地でした。

「たとえ全土を焼野原と化するとも、家康の軍を引き受けて華々しい血戦を交えよう」

慶長五年(1600年)三月十三日、謙信の二十二回忌を名目として若松城に集まった上杉家の諸将は、謙信の霊前において固く互いに血の誓いを交わしました。

するといよいよ会津攻めを決意した家康は、その六月十六日、浅野、福島、黒田、池田、細川、加藤、藤堂らの諸勢を率いて大阪を出発し、関東に下ってきました。七月二十四日、家康は下野国小山(しもつけのくに おやま:今の栃木県小山市)に到着しました。徳川の軍を迎えた上杉勢は、満々たる士気をみなぎらせて、正面切って堂々と応戦する構えでした。この時、兵一万を率いた直江兼続は下野の高原に陣を敷きました。ちょうどこの時、石田三成が関西で兵を挙げたという知らせが飛び込んできました。家康は軍を返して関ヶ原へ急行しました。この戦いにおいて上杉と石田との間に前もって東西で呼応する密約があったともいい、あるいは無かったともいいますが、結果的に見て、連絡を取り合ったような具合になりました。彼らは東と西で死力を尽くして戦いました。
が、無念! この運命をかけた一戦は敗れました。

 

※注:これが「小山評定」で、家康が会津攻めを中止して西へ向かった経緯は、徳川家康、藤堂高虎、黒田長政、加藤嘉明などの記事に書かれています。上杉勢はこの後、家康の背後を追わず、最上・伊達と戦いました(慶長出羽合戦)。兼続が指揮した長谷堂城の攻防は、関ヶ原の敗報を受けての撤退戦の見事さで知られます。

 

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上杉家は一挙に三十万石に領地を減らされ、兼続は五万石に落ちました。しかもその五万石を、彼は同僚の将や兵、身分の低い者たちに分け与え、自分の取り分としては五千石しか取りませんでした。慶長・元和の大阪の陣に出陣した後、彼はゆったりと風流の中で余生を送っていましたが、ついに元和五年(1619年)十二月十九日、六十歳で亡くなりました。

 

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※注:減封後の米沢では、兼続は家臣を一人も解雇せず、新田開発や城下町の整備、殖産に力を尽くしました。米沢藩の財政難はその後も続き、後に上杉鷹山の改革を生むことになります。兼続の兜の前立て「愛」の字は、愛染明王または愛宕権現に由来するとされ、平成二十一年(2009年)の大河ドラマ『天地人』で広く知られるようになりました。

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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