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高杉晋作の生涯|「将軍の道路も何もあるものか!」奇兵隊をつくった長州の風雲児

高杉晋作の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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文久三年、江戸・上野の三枚橋です。

葬列が進んで来ました。棺を擁するのは伊藤俊輔ら。その先頭に、馬に跨がった若者がいます。

運ばれているのは、四年前に小塚原で斬られた、一人の罪人の遺骸でした。

橋を警固していた同心たちが、慌てて制止します。

「何奴じゃ、無礼者!」

——この橋は、将軍が上野の東叡山に登るためだけに架けられたものだったのです。

すると先頭の若者は、大刀をズバリと引き抜きました。

「我々は天下の志士・吉田松陰先生の御遺骸を奉じて、若林へ向かう者じゃ。将軍の道路も何もあるものか!」

そう怒鳴り返し、同心たちの度胆を抜いて、さっさとその橋を突破したといいます。

この人の名は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)。奇兵隊を創設し、二十九歳で世を去った、その波乱の生涯をたどります。

  

非妥協の一生

 

維新の志士の中で、最も性格の鮮やかな、詩人的な風格を具えた大物を求めるなら、誰しもまず高杉晋作に指を屈するでしょう。

西郷南洲が超弩級の戦闘艦であるとすれば、高杉晋作はまさに潜水艦です。前者には、山のような怒濤の間を悠然と乗り切って行く威容があるのに対し、後者には、鳥ならば隼、魚ならば飛魚のように、眼にも止まらぬ速さで人々の意表に出る気魄が感じられます。

彼の一生は、徹頭徹尾、この気魄で押し通した非妥協の一生でした。

彼の行動は外面的に見れば、奇矯(ききょう)と過激の連続でしたが、それは要するに、彼の内部に潜むこの気魄の、止むに止まれぬ発動にほかなりません。

明治維新の歴史的な舞台において、長州藩は討幕・攘夷の急先鋒でしたが、その中でもこの主張を飽くまで頑強に固持して第一線に活躍した人物が、高杉晋作です。

幕府の公武合体政策を中心として藩内に二つの党派が対立した時、その政策を支持する側に猛撃を加えて藩論を統一し、長州藩をして、次第に高まり行く討幕運動の指導部隊たらしめた者は、彼でした。

彼は自説の貫徹のためには脱藩をも辞せず、投獄をも厭わず、時には藩公の前に罷り出て諫言することすらも、敢えて恐れませんでした。

長州藩が幾度か内外の困難な情勢に際会しながらも、よくその危機を切り抜けて新しい活路を見出したのには、機を見るに敏な彼の識見と、烈々たる気魄とが大きな力となったのです。

彼は平時の英雄ではなくて、どこまでも非常時の俊傑でした。そしてこのような時代においてこそ、彼の才能は百パーセント発揮されたのです。

 

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松下村塾の双璧

 

高杉晋作は、諱(いみな)を春風(しゅんぷう)、字(あざな)を暢夫(ちょうふ)といい、春樹の嫡子として天保十年(1839年)八月二十日、長州萩城下の菊屋横町に生まれました。

桂小五郎の家とはすぐ隣り合わせであり、久坂玄瑞の家ともあまり離れていません。

久坂玄瑞と彼とはほとんど同年輩でしたから、幼少の頃から遊び友達でしたが、桂小五郎は彼より六歳も年上だったので、友達というよりは、いつも彼を兄のように慕っていました。

彼が松下村塾に入ったのは安政四年、十九歳の時です。

久坂玄瑞はこの時すでに塾に入っていて、吉田松陰から「塾中第一等の人物である」と折紙を付けられたほどの秀才でした。

そこへ高杉晋作が入塾するに及び、二人は松下村塾の双璧として並び称せられるようになります。

松陰は玄瑞の人格と深慮を愛するとともに、晋作の識見と気魄を愛し、この二人によって自分の精神と事業とを達成しようと、密かに考えました。

そこで、高杉の前では久坂を褒め、久坂の前では高杉を褒めるというやり方で、双方を等しく立派な人物に仕上げようと、一方(ひとかた)ならぬ苦心と努力を払ったのです。

安政五年七月、高杉晋作が江戸遊学の途に上ろうとする時、松陰が晋作に贈った文章には、彼を戒めるとともに、彼の将来に対する嘱望と愛情とが、細やかに表現されていました。

 

※ この文章は「送高杉暢夫叙(そうたかすぎちょうふじょ)」といい、安政五年七月十八日に書かれました。暢夫は晋作の字(あざな)です。松陰はこの中で「玄瑞の才は之を気に基づけ、而して暢夫の識は之を気に発す。二人にして相得たれば、吾いずくんぞ憾みあらんや」(久坂玄瑞の才は気迫に根ざし、晋作の見識は気迫から発する。この二人が互いを得るなら、私に何の心残りがあろうか)と書き、さらに「其の精識なるに至りては、則ち余の及ぶ所に非ざるなり」(その見識の精密さでは、私の及ぶところではない)と晋作を評しました。そして結びに近いところで、こう念を押しています。「暢夫よ暢夫。天下固より才多し。然れども唯一の玄瑞、失ふべからず」(暢夫よ、暢夫。天下に才ある者はいくらでもいる。だが、ただ一人の玄瑞を失ってはならない)。玄瑞は半年先に江戸へ出ていました。見識を最大級に讃えながら、一人で突き進むことだけは戒めている。底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』、昭和11年刊)が「戒めると共に嘱望と愛情」と評したのは、この二面性のことです。

 

 

一代の先覚者・吉田松陰から、それほどその将来を嘱望され、深い愛情を注がれたのを見れば、彼が年少の頃からいかに非凡な人物であったかが解るでしょう。

高杉晋作の尊王攘夷論は、その師・松陰から受け継いだものでした。

吉田松陰は、その識見の高さをもって天下に鳴り響いていた当時の開国論者・佐久間象山に啓蒙されて、日本が遅かれ早かれ開国の策に出なければならぬことを悟っていました。

けれどもそれには、もはや日本の政治を指導する力を失った幕府を打ち倒し、それに代わるより強力な政府の手によって、この政策を実行することが何よりも必要だと考えたのです。

そして尊王攘夷は、徳川幕府に対立する一大勢力を結成するための、当面のスローガンでした。

 

※注:攘夷を唱えながら、その内実は開国に備えるものであった——という見方です。底本は、松陰から高杉へ受け継がれたものをこう捉えています。

 

晋作はその後、上海に渡り、外国の新しい事情に通じるとともに、松陰の考えの正しさをますます深く信じ、いかなる困難を排除しても松陰の遺業の達成のために戦おうと決心しました。

 

※注:文久二年(1862年)のことです。アヘン戦争ののちの上海で、彼は外国人の奴隷のように働く人々を目にし、日記に強い危機感を書き残しています。

 

アメリカの軍艦が浦賀に来たのを機会に渡航を企てて失敗し、野山の獄に送られ、いったん釈放されて、謹慎の傍ら松下村塾を再興して全国の志士と密かに気脈を通じていた松陰。

その松陰が再び幕府の忌諱(きい:タブー)に触れ、江戸伝馬町の獄で斬罪に処せられたのは、安政六年十月二十七日のことでした。

その後、松陰の墓は幕府の圧迫を受けて、墓碑をすら立てることが出来ません。

ところが、尊王攘夷がようやく世論を支配し、京都の朝廷から、いわゆる安政の大獄で断罪に処せられた志士の罪名削除の令が出ます。

松陰の恩義を深く感じ、その遺業達成の意志に燃えていた晋作が発起人となり、松陰をはじめ、小林民部権大輔、頼三樹三郎の三人の志士の遺骸を、罪人などと同じ地域に置くに忍びないとして、小塚原から移し、爽やかな地である世田ヶ谷若林に改葬しました。

そして起きたのが、冒頭にご紹介した三枚橋での一幕です。

これは彼でなければ出来ない芸当であるとともに、自己の主義の貫徹と、恩師への報恩のためには、将軍の権威をも恐れぬ彼の非妥協性の現れでした。

 

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奇兵隊の編制

 

公武合体論は、朝廷と幕府との間に姻戚の関係を結ぶことによって各藩の討幕論を抑えようとする、幕府の懐柔政策の一つでした。

土佐藩主・山内容堂などはこの周旋に最も奔走した一人ですが、薩摩の島津久光や長州藩主・毛利敬親なども、藩内の保守論者に引きずられてこの論に傾く傾向がありました。

そこで高杉晋作は京都に上り、世嗣(せいし:跡継ぎ)・元徳(もとのり)公を通じて公武合体論の不可を説き、長州藩としては飽くまで討幕に邁進すべきことを主張します。

けれどもついにこの主張は容れられなかったので、彼は頭を剃り落として坊主姿となり、西行の向こうを張って「東行(とうぎょう)」と号しました。

その時の歌が、これです。

西へ行く 人を慕ひて 東行く 我が心をば 神や知るらん

彼はそれからしばらく京都に留まり、日夜、同志の間を奔走しましたが、事は志と喰い違って来たので、文久三年五月、郷里の萩に帰り、護国山下に隠れて機会の来るのを待ちました。

一方において幕府は、国内の攘夷論に圧(お)され、文久三年五月十日を期して攘夷を実行すべしという勅命を、仕方なく引き受けます。

けれども期限が来てもその実行を怠ったので、ついに馬関(下関)の要塞を固めていた長州藩の兵士たちが、六月一日に馬関沖で英艦を、同月五日に米艦を砲撃して、攘夷の火蓋を切りました。

けれども武器の貧弱と兵士の訓練の未熟さのために、長州藩は大敗し、国内は一大混乱に陥ります。

そしてこの時局を収拾するために護国院の幽居から召し出され、馬関防御係に命じられたのが、高杉晋作でした。

彼は時こそ来れりとばかりに勇躍し、藩公の前に召し出されるや、こう建議(けんぎ:自分の意見や要望を、役所や上位の機関・人物に対して申し述べること)します。

——これまで太平の夢を貪り、柔弱に流れて来た門閥の士族の子弟は、もとより頼むに足らぬ。

今後は貴賤の階級を問わず、たとい百姓・町人といえども胆力あり体力ある壮丁(そうてい:成人男性)を募り、これを精選して充分の訓練を与え、隊伍を編制するならば、初めて海外の強敵に当たり得るのである。

この建議に基づいて新たに編制されたのが、すなわち有名な長州の奇兵隊であり、彼は推されてこの隊長となりました。

後年、幕府の膨大な長州征討軍を悩まし、散々に敗北の憂(う)き目を嘗(な)めさせたものは、この奇兵隊です。

日本の近代陸軍の基礎となった奇兵隊を組織した高杉晋作の功績は、我が国の軍事制度改革において、決して無視できない価値のあるものでしょう。

 

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牢獄から講和使節に

 

藩は馬関の防備を完全にするために、高杉晋作の建議に基づき、奇兵隊のほかに先鋒隊を派遣しました。

ところがこの奇兵隊と先鋒隊との間に紛争が起こり、紛争の責任者が切腹を命ぜられるとともに、高杉晋作もその責を引いて隊長の職を退きます。

その後、政府の用談役となり、さらに藩の奥番頭となって周布政之助を助けました。

しかるに京都の情勢は攘夷派に利あらず、長州藩は朝敵の汚名を受けます。

この汚名をそそごうとして禁門の変が起こり、久坂・福原、その他幾多の将士が戦死しました。

来島又兵衛が京都における君側の奸臣(くんそくのかんしん:君主の身近に仕えながら私利私欲のために君主を惑わし、国や組織に害をなす悪臣)を除こうと上京しようとしたのを、高杉晋作は留めましたが不成功に終わり、ついに彼自身も上京した廉(かど)で野山の獄に入れられ、やがて自宅の座敷牢に繋がれて、外部との面会を一切禁止される身となります。

ところが、英・米・仏・蘭の四国連合艦隊が連なって馬関に迫り、長州軍が連戦連敗を重ねている真っ只中のこと。

元治元年七月、故国の急を聞いてロンドンから慌しく帰って来た伊藤俊輔と井上聞多が当局者に面会し、外国の情勢を説いて、直ちに講和を結ぶように建議しました。

そして、この講和の重大使命を果たす者は高杉晋作を措いて外にない、と主張したのです。

藩公も二人の熱烈な主張に動かされ、高杉晋作は、禁囚の身から一躍、講和使節に選ばれました。

彼は講和使節に選ばれると、自らを藩の家老の首座に見立て、鎧直垂(よろいひたたれ)を着用し、仮に名を宍戸刑馬(ししど ぎょうぶ)と、いかにも家老らしく改めます。

副使には渡辺内蔵太、杉徳輔らを従え、堂々と英国の旗艦に乗り込みました。

 

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当時、世間ではその応接ぶりの幼稚さについていろいろと悪口を言いましたが、臨機応変な彼の手によって講和の談判は案外にすらすらと進捗(しんちょく)します。

これを機会に、英国と長州藩との間に固い密約が結ばれ、討幕運動のためのより強固な基礎が出来上がりました。

その後、幕府の長州征伐を中心として、藩論は二つに分かれます。

藩内における急進派の先鋒たる高杉晋作は、俗論党に狙われて筑前に逃れ、九州の諸藩の一大連合のために日夜、活動を怠りませんでした。

 

※注:底本はここを短く記していますが、この直後の元治元年十二月、高杉は下関の功山寺で、わずか八十余人とともに挙兵します。数の上では絶望的な一挙でしたが、諸隊が次々に呼応して藩の実権を握り返し、長州は再び討幕へ舵を切りました。彼の生涯で最も大きな転回点です。

 

けれども馬関で喀血して以来、再び起つことが出来ず、一代の風雲児・高杉晋作も、明治維新の暁光(ぎょうこう)を見ずして、慶応三年(1867年)四月十四日、二十九歳の若さで歿しました。

明治二十四年四月、正四位を贈られています。

 

※注:病床で詠んだと伝えられるのが「おもしろきこともなき世をおもしろく」の句です。下の句「すみなすものは心なりけり」は、看病にあたっていた野村望東尼が継いだとも言われます。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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