粟田口・青蓮院。
九歳の子どもが、得度(とくど:出家すること)を願って訪ねて来ました。
——けれども、当時の叡山の掟では、十五歳未満の得度は許されていません。
慈鎮(じちん)和尚は、そのことを言って聞かせ、断念させようとしました。
少年は、黙っています。
庭の桜が、はらはらと散っていました。
その少年——松若丸は、じっとそれを見つめていましたが、やがて筆と紙を取りよせ、さらさらと一首の歌を認(したた)めて、和尚に差し出したのです。
明日ありと 思ふ心の あだ桜
夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
——明日があると思っている、その心は、あだ桜(はかない桜)のようなもの。夜中に嵐が吹かないと、どうして言えましょうか。
いとも鮮やかな筆蹟(ひっせき)で、そう書き流してありました。
これを見た慈鎮和尚は、今更のようにその非凡の器量に舌を巻きます。
——そして、叡山の掟を破り、即日、得度の式を挙げたということです。
親鸞(しんらん)上人。のちに、浄土真宗の宗祖と仰がれる人でした。

修学時代
親鸞は幼名を松若丸といい、承安三年(1173年)四月一日、京都・日野の里に生まれました。
父は皇太后宮の大進(こうたいごうぐうのたいしん:役職名)で日野有範(ありのり)といい、母を吉光女(きっこうにょ)といいます。
彼が四歳の時、父の有範は他界したので、一家は離散の憂き目にあいました。

彼は母とともに、伯父にあたる日野範綱(のりつな)の邸(やしき)に引き取られ、ここで養育されることになります。
——ところが八歳の時、さらに母をも失うに至りました。

深く世の無常を感じて出家遁世(とんせい)の念に駆られ、ついに九歳の春、青蓮院に慈鎮和尚を訪ねて得度を願ったのが、冒頭の場面です。
こうして慈鎮和尚のもとで剃髪(ていはつ)得度し、名も範宴(はんねん)と改めた彼は、ただちに比叡山に登りました。
天台宗の僧徒(そうと)として仏道を修行することとなり、天台の三大部をはじめ、倶舎(くしゃ)、唯識(ゆいしき)、因明(いんみょう)、三論、華厳(けごん)、禅、密教などの諸宗の教義を学んだのです。
——しかしながら。
学問を積めば積むほど、修行を重ねれば重ねるほど、彼にとっては解決し難い大きな疑問が湧いて来るのでした。
それは——愛欲を離れようと焦れば焦るほど、愛欲の妄執(もうしゅう)に悩まされる。
自分ほどの凡愚(ぼんぐ:おろかで平凡)が、果たして悟りを得ることなど出来るであろうか。
そういう疑問でした。
もう一つ、親鸞にとって不満に思われたことがありました。
叡山の堕落しきった僧侶たちの振舞です。
仏道修行のために僧形を保つ身でありながら、彼らはつねに争いを事とし、殊に山門(叡山)と寺門(三井寺)との両派は、事ごとに相反目して激しく抗争していました。彼らは仏果を得んがために修行するのではなく、名聞利養(みょうもんりよう:名誉と利益)を追うことのみに終始しているのです。
こうした叡山の僧侶たちの態度に疑問を持ち、出離(しゅつり:迷いの世界を出ること)の要道を得んがために悩みに悩んだ親鸞。その疑問の解決の鍵を見出そうとして、ある時は磯長(しなが:現在の大阪府南河内郡太子町一帯)の聖徳太子の御廟に詣で、またある時は根本中堂に参籠して起請(きしょう:神仏に誓いを立てて約束の真実性を証明すること)をこめるなど、あらゆる手段を講じました。
——けれども、そうした彼の苦慮にも、何らの効果はなかったのです。

吉水入室
親鸞が叡山に登ってから、すでに二十年の歳月が流れました。
その間、彼は文字どおり血みどろの修学苦行をつづけたのです。
しかし彼の目的とする、「迷いと苦しみから脱け出る道」はついに発見出来ませんでした。
彼はかくて二十九歳の正月、ついに最後の手段として、京都の六角堂に百日の参籠を始めます。
——けれども、満願の日になっても何らの霊験(れいげん:神仏に祈願したとき、その願いにこたえて表れる不思議な効きめ)もありませんでした。
今は絶望のどん底に喘ぐ親鸞です。
彼は力なく六角堂を出て、五条の橋に歩みを運びました。
その時ちょうど、この橋を通りかかったのは——
かつて叡山で教えを受けたことのある、安居院(あぐい)の聖覚(せいかく)法印でした。
聖覚は憔悴(しょうすい)した親鸞の姿に不審を抱き、その訳を尋ねます。
彼は、その求道的な悩みを偽ることなく、聖覚に訴えたのでした。
聖覚は親鸞の苦衷(くちゅう)を聞き終わると、こう言います。
「私もかつて、そうした悩みを抱いたことがある。
しかし今は恩師・法然上人のお導きによって易行他力(いぎょうたりき)の法門に帰依し、念仏の生活を続けている。
ちょうどこれから法然上人の庵室を訪ねるところだが、あなたも同道されては如何でしょう」
と親切に、親鸞を誘ったのです。
かくて彼は聖覚に伴われて吉水の禅房(現在の知恩院内)に到り、法然上人の浄土教を聞くに及んで、長年にわたり深く悩み続けていた心の疑問は、まるで氷が解けるように一気に解消したのです。
彼は、ここに法然の弟子となります。
時に建仁元年(1201年)、親鸞、二十九歳でした。
この年、範宴の号を改めて綽空(しゃっくう)と名乗ることになったのです。
かくて吉水の教団に身を投じた親鸞は、承元の法難(じょうげんのほうなん)によって流刑に処せられるまでの約六年間、もっぱら法然を師として浄土門を学びました。
法然上人からの信頼は非常に厚く、元久二年、彼の三十三歳の時には、法然の代表的な著述である『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写を許されただけでなく、法然の肖像画を描き写すことさえ許されたほどでした。

配流
ちょうどその頃のことです。
民衆に開かれた教団である法然上人の吉水教団が、日増しに勢いを増していくにつれて、南都北嶺(なんとほくれい:奈良の諸寺と比叡山)の僧たちは、これを快く思わず、あらゆる手立てを使って弾圧・禁止しようと狙っていました。
元久元年には叡山から「専修念仏の禁止」を求める訴状が出され、翌二年には奈良の興福寺から念仏を激しく非難する奏状(そうじょう:朝廷への告発状)が提出されるほどで、彼らは「法然は仏教の怨敵(おんてき)なり」とまで叫んで、迫害の手を差しのべて来たのです。
その時たまたま、法然の弟子である住蓮(じゅうれん)・安楽の二僧が、官女・松虫、鈴虫の二人を落飾(らくしょく:髪を落として出家させること)させた事件が持ち上がります。
——この事件は、既存の仏教勢力による念仏弾圧に、さらに拍車をかけるものでした。
かくてついに承元元年の春、朝廷から念仏禁止の命が出され、法然上人の教団は解体へと追い込まれることになりました。住蓮や安楽ら数名の僧は死罪となり、法然上人や親鸞聖人らも罪人として遠くへ流されるという、苛酷な運命をたどることとなったのです。
法然は土佐に、親鸞は越後国府(現在の新潟県上越市)に流されます。
時に建永二年三月、親鸞三十五歳の時のことでした。
かくて恩師に別れ、故郷を追われた親鸞は、流人(るにん)として、雪深い北越の地に起居(ききょ)することとなったのです。
この北越の流謫(るたく:流されること)こそは、まこと親鸞にとっては、この上なき修練の道場でした。彼の魂はこの流謫に遇って、ますます磨き出されます。
彼の宗教はここにおいて、いよいよその光りを増して行くことになったのでした。彼はこの時、自ら次のように名乗りました。
「僧に非ず俗に非ず、この故に禿(とく:髪を剃った者)の字を以て姓となす」
それ以来、愚禿(ぐとく)親鸞、または愚禿善信と号して、自ら進んで在俗の生活を続けたのでした。

こうして越後の地に止まること五年。
建暦元年には、師の法然上人とほぼ同時に流罪を許され、京へ戻ろうとしました。けれども、たまたま法然が亡くなったという報せを耳にします。これにより親鸞は京都へ戻るのを取りやめ、むしろ、
「都から遠く離れた田舎へ赴き、素朴な農民や人々に教えを広めることこそ、自分の長年の願いである」
と、建暦二年、四十歳の年に越後を出発して関東に向かい、常陸国(現在の茨城県)の稲田に落ち着くこととなったのです。
それから、六十歳を過ぎて京都へ帰るまでの二十年余りをこの地で過ごし、ひたすら庶民への布教と救いに力を注ぎました。浄土真宗成立の根本聖典ともいうべき『教行信証文類』が書かれたのも、この関東滞在中のことです。それは元仁元年、親鸞五十二歳の時の著述でした。
親鸞は浄土真宗の宗祖ですが、彼自身には「新しい宗派を開く」という意図はまったくなかったため、明確な開宗の年月日というものは存在しません。そこで後世においては、この『教行信証文類』撰述の時をもって、真宗開創の年月としているのです。
こうして六十歳を迎えた年、親鸞は住み慣れた常陸の地を離れ、京都へ戻る途につきました。
九十歳で入滅するまで京都にあって、もっぱら執筆、著述に専念します。
浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃の三帖和讃をはじめとして、浄土文類聚鈔、愚禿鈔などを撰述したのでした。
そしてついに弘長二年(1262年)十一月二十八日——
実弟である尋有(じんう)僧都の住む善法院において、眠るが如く往生したのです。

肉食妻帯の断行
親鸞を語る場合に、どうしても忘れることの出来ないのは、肉食妻帯(肉を食べ、家族を持つこと)の断行です。
これは庶民の暮らしの中での救いを説いた法然の浄土教の流れを汲む者としては、むしろ当然のことでした。けれども当時、剃髪した僧が妻を持つことは、許すべからざる破戒(はかい:戒律を破ること)とされていたのです。
が、彼は固い決意をもってこれを実践しました。
すなわち越後に流罪に処せられた時、彼はこの地方の三善為教(みよしためのり)の娘である恵信尼(えしんに)と結婚し、建暦元年三月三日には息子の信蓮房(しんれんぼう)が生まれます。
親鸞三十九歳、恵信尼三十歳の時のことでした。
親鸞のこの結婚には異説があり、京都在住時代にすでに別に妻があり、その先妻との間に生まれたのが、後に勘当せざるを得なかった善鸞(ぜんらん)だと言われます。もし京都時代に先妻があったとしても、その妻が九条関白・兼実公の娘だというのは、完全な創作、虚構の説です。
ただ、親鸞のこの結婚は、決して欲望を肯定したり謳歌したりしたものではありませんでした。むしろ彼は、どうしても消し去ることのできない自らの人間的な煩悩や欲望の深さを深く感じ取り、悲しみと痛みに満ちた心で深く懺悔(ざんげ)していたのです。彼は、次のように述べています。
「悲しいかな愚禿釈の鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを楽しまず、真証の証に近づくことを喜ばず、愧(は)づべし、いたむべし」
(情けないことに、愚かな私(親鸞)は、欲望の深い海に沈み、名誉や利益を求める迷いの山で道を見失っている。救われることが決まった身でありながらそれを喜べず、まことの悟りに近づくことも素直に喜べない。なんと恥ずかしく、嘆かわしいことだろうか)
しかしながら、親鸞のこうした態度、および教義は、結局、仏教の大衆化ということに結びついていました。愚かな自分、人間を一方的に否定して切り捨てるのではなく、親鸞自らがその愚かな人間と同じ目線まで降りていき、仏の教えを誰もが実践しやすく、分かりやすいものにしようと試みたのです。
——この試みは、日本の仏教にとって決して無駄ではありませんでした。
明治維新の「廃仏毀釈」という宗教的苦難の時代において、もっとも早く社会での教化や福祉・教育事業に着手し、どこよりも早く勢力を回復させたのは、まさに親鸞の教えを汲む浄土真宗でした。
そこにこそ、親鸞という人物の真の偉大さがあったと言わざるを得ません。
——九歳の春、散る桜を見つめて歌を詠んだ少年は、八十年という歳月を生き抜き、ついにここまでの境地へとたどり着いたのでした。


