天平勝宝六年(754年)ごろ。三十六歳の兵部少輔(ひょうぶのしょう:軍事を司る役所の次官)が、難波(なにわ:現在の大阪)で防人(さきもり)の召集にあたっていました。
防人とは、関東の庶民を強制的に召集して九州の警備にあたらせ、三年を一期として交替させた兵士のことです。海路をとって難波に勢揃いし、ふたたび船で遥かな筑紫(つくし:現在の福岡県)へ向かうその道のりの困難は、言葉に尽くせないものでした。
その召集の役人は、妻子や親族から引き離されて行く人々の心に、無限の同情を注ぎました。そして彼らが詠んだ歌を、少しも改めず、削りもせずに、一つの歌集に収めたのです。
大伴家持(おおとも の やかもち)。『万葉集』の編纂者とされ、柿本人麻呂と並び称される、名門大伴氏に生まれた歌人でした。
万葉集と家持
『万葉集』がいつ、誰の手で編まれたのかは、まだ定説がありません。しかし天平勝宝年間(749〜757年)に大伴家持の手でまとめられたのだろう、という説が最も有力です。
なぜでしょうか。第一に、『万葉集』全二十巻のうち、二巻を除くすべての巻に家持の歌があること。第二に、巻十七以下が家持の日記のような歌集になっていること。第三に、一族の歌が多く採られていること。第四に、「防人の歌」を集めたのが家持であること。そして最後に、彼の地位がその仕事にふさわしいこと、などです。
新しい発見がない限り、日本最古の偉大な芸術の集大成である『万葉集』の編纂者という輝かしい名誉は、当然、家持のものです。
ただ、もし新しい発見でその名誉がほかへ移ったとしても、歌聖・柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ)と並び称される大芸術家としての彼の値打ちは、少しも変わりません。作品が多いから、というだけではないのです。人麻呂と家持の二人は、『万葉集』の芸術的な価値そのものを論じるうえで、ほとんど決定的な役割を持っている。そう言っても言い過ぎではないからです。

恵まれた環境
家持は養老二年(718年)、大納言・大伴旅人(おおとも の たびと)の子として奈良に生まれました(生年には諸説があります)。
三歳のとき——養老四年(720年)三月——父の旅人が征隼人持節大将軍(せいはやとじせつだいしょうぐん:隼人を討つために派遣された将軍)として西国に下り、その直後に母を失います。さらに天平三年(731年)、十四歳のころには父も亡くしました。
彼を親しく育てたのは、叔母の坂上郎女(さかのうえ の いらつめ)でした。この叔母は『万葉集』にすぐれた歌を残した芸術家です。父の旅人も武将でありながらすぐれた歌人でしたから、家持は生まれ持った芸術の才を、叔母のもとで十分に伸ばされたと思われます。
時代は「咲く花の匂うがごとき」天平文化の絶頂でした。宮廷に仕える人々にとって和歌は教養の大半を占め、春は梅、秋は紅葉を冠に挿して遊び楽しんだ時代です。文才のある者にはその才能を存分に発揮させる社会でした。大芸術家を育てるには、これ以上ない恵まれた環境だったと言わなければなりません。
さらに、彼ときわめて近い関係にある歌人も少なくありませんでした。幼いころ、父とともに大宰府にいたときには、情熱の歌人・山上憶良(やまのうえ の おくら)が国守としてその地にいました。名高い「あをによし奈良の都」の作者で、大宰府の次官だった小野老(おの の おゆ)や、観世音寺の別当・満誓沙弥(まんぜい しゃみ)もいます。こうした歌人たちは、しばしば旅人の邸に集まって雅やかな宴を開いたのです。
老いた憶良の真剣で情熱的な歌風は旅人にも影響していますが、少年の家持には、ことのほか強い感化を与えました。たとえば家持の若いころの次の歌と憶良の歌を比べてみれば、模倣であることがすぐに分かります。
丈夫(ますらお)は 名をし立つべし 後の代に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(家持)
士(おのこ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして(憶良)
二人のあいだの事情は、これだけでも十分にうかがえるでしょう。

家持の公生涯
大伴家は、その祖を天忍日命(あめのおしひのみこと)にさかのぼり、金村(かなむら)・狭手彦(さでひこ)らの武将を出した、代々武をもって朝廷に仕える名門でした。家持も大納言・旅人の跡を継いで、主にその方面の職に就きます。しかし彼の時代は国の内も外もきわめて静かで、自分で戦場を駆け回る必要はありませんでした。たびたび各地の国守として派遣されましたが、それはいわば辺境への遊学の旅のようなものでした。たとえば天平十八年(746年)、二十八歳のころに越中(えっちゅう:現在の富山県)の国守として任地にあったときなど、その館はまるで歌の会のためにあるかのようだったのです。
とはいえ、延暦四年(785年)に六十七歳で亡くなるまでの公の生涯は、必ずしも平穏ではありませんでした。ちょうど藤原氏が勢いを伸ばしていた時期にあたっていたからです。文治派の力は強大になり、武門の大伴家はしばしば圧倒されがちでした。彼は権門どうしの争いに悩まされ、一方の首領として勢力争いの渦に引き込まれがちだったのです。もし大芸術家としての栄誉がなく、英明な帝の愛顧がなかったなら、彼は一人の朝敵として葬り去られていたかもしれません。
延暦元年(782年)正月、氷上川継(ひかみ の かわつぐ)を帝位に就けようとする陰謀が発覚しました。家持は東宮大夫兼左中弁の要職を免じられ、都の外へ追放されます。しかし四か月後には罪を許され、元の職に戻ることができました。

家持と人麻呂
人麻呂と家持は『万葉集』の双璧です。和銅元年(708年)に亡くなった人麻呂が天平前期を代表する大芸術家だったように、家持は天平後期を代表する歌人でした。そこに、この二人のそれぞれの持ち味が見えてきます。
もともと和歌のみなもとは、遠く神武天皇や素戔嗚尊(すさのおのみこと)、さらにさかのぼって天照大神(あまてらすおおみかみ)の昔にたどることができます。しかしそれが国民的な芸術にまで高められるには、漢詩と仏教という文化の洗礼を受けなければなりませんでした。朝鮮半島や唐との交流が深かった天智天皇の時代に、上流社会ではすでに中国の文化をわが血肉として独自の芸術を生み出すようになっていました。聖武天皇の前後になると、帝と皇后がともにすぐれた芸術家であったこともあって、和歌は長足の進歩を見せます。
このとき、不世出の天才・柿本人麻呂が現れました。純朴で清らか、雄大でありながら玲瓏(れいろう:透きとおるように美しいこと)としたその作品は、一世を風靡します。彼は未発達だった和歌を、完全な芸術の座に据えたのです。伝統的な日本人の感情を失わず、後の時代の遊戯的な技巧の弊にも陥らず、国民の感情をはっきりと表現した。その写実的で健康な和歌は、農業の発達を土台とする大和朝後期から平安朝前期にかけての、文化の大きな飛躍を映したものでした——底本はそう説明しています。
上流の権力階級は、新しい文化を余すところなく享受して、百花がいっせいに開くような栄華の時代を作り出しました。大規模な寺院、金色に輝く仏像、目を奪う調度や器具。今日見てもなお驚くほどです。時に辺境の蝦夷が背くことはあっても、権門どうしの争いを除けば、国内はおおむね平穏でした。
しかし、こうした栄華を支えた経済力の担い手——農民たちがどんな状態に置かれていたかは、誰にでも想像がつくでしょう。そしてそれは必然的に時代を終わりへ押しやり、文化に一種の頽廃的な傾向を持ち込まずにはおきません。家持は、まさにそのような、花の盛りを過ぎた時代の芸術家でした。
だから彼の作品には、人麻呂のような健康さと純朴さは見られません。その代わりに、繊細さと技巧の冴えがあります。
淡海(おうみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしえ)思ほゆ(人麻呂)
夜くだちに 寝覚めて居れば 川瀬尋(と)め 心もしのに 鳴く千鳥かも(家持)
似た題材のこの二首を比べると分かるように、人麻呂は自然と渾然一体になっているのに対し、家持は自分と自然とを二つに分けています。前者がきわめて素直に自然を詠んでいるのに、後者は説明的な要素が多く、技巧的です。「心もしのに」の句にしても、前者は鳴く千鳥に引き出された自分の感情を率直に述べるために使っていますが、後者は千鳥の鳴き声の形容になっています。前の句の「川瀬尋め」に続けて読めば、まだ弊害というほどではありませんが、一種の擬人的な技巧の跡が見えるのです。家持を天平後期の大歌人として見れば、そこには『古今集』から『新古今集』へと向かう頽廃的な傾向の芽が、すでに見られます。
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯鳴くも
我が宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
こうした名歌を読めば、彼が『万葉集』を代表する歌人の一人であることに、誰もがうなずくでしょう。長歌でも短歌でも、抒情・叙事・叙景のどの分野でも、行くところ可ならざるなし、という彼の才能に至っては、『万葉集』の中で、おそらく右に出る者はいません。
防人の歌と家持
たとえ家持が『万葉集』全巻の編纂者でなかったとしても、「防人の歌」を集めた人としての名誉は、なお輝かしいものです。私たちは彼のおかげで初めて、天平文化を縁の下で支えていた庶民の暮らしの感情を、じかに知ることができるのです。
防人とは「崎守(さきもり)」の意味で、関東の庶民を強制的に召集して筑紫の警備にあたらせ、三年を一期として交替させたものです。海路で難波に集まり、ふたたび船で遥かな筑紫へ向かいます。その道中の苦しさは、言葉に絶するものでした。
家持は天平勝宝六年(754年)、三十六歳のころに兵部少輔に任じられ、自ら防人召集の役にあたりました。そして、こう歌っています。
丈夫の 靫(ゆき)取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻
海原に 霞たなびき 鶴(たづ)が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ
妻子や親族から引き離されて行く庶民の心に、無限の同情を注いだ歌です。
名門に生まれた多感な彼が、権門の犠牲となり、栄華の踏み石となって、じっと苦痛に耐えている無力な人々をどう見ていたか。それを知る手がかりはありません。けれども、圧政への深い恨みを隠さずに述べている彼らの歌を、少しも改めず、削りもせずに『万葉集』に収めているのを見ると、その現実を突きつけることで、浮ついた宮廷人に何かを知らせようとしたのではないか——そんなことさえ思われます。
これは、孔子が『詩経』の中に、北方の警備に召集されて遠くへ去った夫を思う、あの切実な「汝墳(じょふん)」の詩を収めていることを思い合わせます。天平文化が中国文化に負うところが大きいこと、人麻呂の歌に『詩経』の詩とほとんど一致するかと思われるものがあることを考えれば、この想像も、あながちこじつけとは言えないでしょう。
名門の御曹司として、雅宴の中で育った歌人。その人が生涯の終わりに近く、最も心を寄せたのは、名も知れぬ東国の兵士たちの歌でした。
それを一字も改めずに残したこと。もしかすると、それこそが『万葉集』という歌集の、最も万葉らしい一面なのかもしれません。



