明治三年(1870年)、仙台の獄舎から、一人の老人が七十歳にして自由の身となりました。
翌年、東京に移り住んだ彼のもとへ、陸軍軍医官の石川良信(いしかわ りょうしん)が、朝廷の内々の意を含んで出仕を求めに来ました。老人は固く辞して言いました。
「亡国の遺臣、何の面目あって朝廷に仕えることができようか」
そして文雅風流に老後を送ったのです。
大槻磐渓(おおつき ばんけい)。蘭学者・大槻玄沢の子に生まれ、漢学者として身を立てながら西洋砲術を修め、攘夷の声が渦巻く時代に敢然と開国を唱え、そして戊辰戦争で仙台藩の建白書を起草して獄につながれた人でした。
頼山陽と磐渓
磐渓の父は、蘭学を最初に日本に伝えた恩人として、青木昆陽(あおき こんよう)・前野蘭化(まえの らんか:前野良沢)と並んで名高い大槻磐水(ばんすい:玄沢)です。その著書『蘭学階梯(らんがくかいてい)』は、当時、蘭学を学ぶ者にとってなくてはならない、唯一無二の手引書でした。
磐水は陸中国西磐井郡一関(現在の岩手県一関市)の生まれで、仙台の分家である田村家という三万石の大名の医者でした。二十二歳で江戸に出て杉田玄白の門に入り、蘭学は前野蘭化について学びます。その後、仙台本藩の医者となって江戸定詰(じょうづめ:江戸屋敷に常駐する勤め)となり、藩邸の外に住んで開業することを許されていました。
磐水には二男四女があり、長男は玄幹(げんかん:磐里と号す)、磐渓は六番目の子でした。享和元年(1801年)、今の京橋区木挽町(こびきちょう:現在の東京都中央区銀座の一部)に生まれます。幼名は六次郎。六番目だからこの名をつけたのだそうです。十五歳で元服して平次郎と改めましたが、実名は清崇(きよたか)でした。のちに陸中国磐渓(現在の岩手県一関市の厳美渓の一帯)の山水の美しさを愛して、磐渓と号します。
父の磐水は仙台藩の医者という役目があり、一生を蘭学の研究に捧げるわけにはいきませんでした。そこで六男坊の磐渓に自分の仕事を完成させようと、大きな望みをかけ、費用を惜しまずに勉強させたのです。磐渓もまた幼いころからたいへん賢く、父が日ごろから自慢にするほどでした。五、六歳のころ、下女に負ぶわれて町を通ると、商店の看板の字をすぐ覚えてきて、たびたび障子や行灯に落書きをしては、家の者を驚かせたそうです。
幕府の儒者・林大学頭(はやし だいがくのかみ:林述斎)の門人となったのは十六歳のときでした。翌年、諸藩の武士が入る昌平黌(しょうへいこう:幕府の学問所)の諸生寮に入り、前後十年、二十六歳まで塾で勉強に励みます。
こうして漢学の素養が十分にできたところで、二十七歳のとき、いよいよ長年の望みをかなえようと長崎へ遊学の旅に出ました。途中、京都に滞在中の頼山陽(らい さんよう)を訪ねます。そのころ山陽は『日本外史』を著し、その文名で一代を圧する大文学者でしたから、門前はいつも訪問客で市をなすありさまでした。そこへ名もない一学生が訪ねて行ったのですから、ろくに相手にもされません。ところが、彼が預けていった『催詩楼記(さいしろうき)』を読んで、山陽はその才に驚きました。二度目の訪問のときには、前とは打って変わって下にも置かない歓待ぶりです。先客を追い返し、さっそく彼を山紫水明の料亭に案内して、酒を酌み交わしながら文学を論じました。
このとき山陽が磐渓に贈った漢詩があります。雨の窓辺でほろ酔いのまま、君の袋には珠玉の詩が満ちている、『催詩楼記』を読み終えて、ともに酔い、文を細やかに論じよう——という趣旨のものです。山陽が若い磐渓を昔からの知人のように迎え、文学を論じて大いに喜んでいる様子が浮かびます。
磐渓はまもなく京都を辞し、大坂から和歌山へ向かいました。そこで、父・磐水が大病だという飛脚を受け取ります。取るものも取りあえず江戸へ引き返しましたが、父はすでにこの世の人ではありませんでした。

砲術稽古人
父の死は、ただちに彼の蘭学の研究に大きな支障をもたらしました。これまで父が面倒を見てくれていたように、兄の磐里に一切の面倒を見てもらうわけにはいかなかったからです。そこで林大学頭の口添えで、長崎奉行・本多佐渡守の近習という形をとって長崎へ赴きました。しかし長崎奉行は一年ごとに交代する決まりです。長崎にいられたのは、わずか一年でした。
一年の長崎遊学から帰り、引き続き本多の家中で儒学を講じていましたが、天保三年(1832年)十月、仙台本藩の大番組に召し出され、ただちに江戸住まいの「学問稽古人」を命じられます。
これまで彼は、父の志を継いであくまで蘭学者になるつもりでいました。しかし学問稽古人を命じられた以上、儒者の本業である四書五経の研究をしなければなりません。ついにそれまでの方針を変え、漢学者として身を立てることになったのです。三十二歳のときでした。
けれども、蘭学の勉強は思い切ったものの、西洋文明への燃えるような憧れは消えませんでした。長崎滞在中に高島秋帆(たかしま しゅうはん)と親しくなっていたことから、西洋の砲術を学ぼうと決めます。大塚某(おおつか ぼう)の門に入り、嘉永二年(1849年)には藩命で砲術稽古人を命じられ、江川太郎左衛門(えがわ たろうざえもん:英龍)について西洋砲術を研究しました。
本職は儒者です。しかし彼には持論がありました。西洋の進んだ文明を日本のあらゆる方面に取り入れなければ、とうてい外国と戦うことはできない。だからこそ、率先して西洋式砲術の研究に身を投じたのです。
安政元年(1854年)正月十五日、アメリカの軍艦がふたたび来航しました。磐渓は藩命で、その様子を見届けることになります。しかし藩士の身分では、幕府の応接所へ入れません。そこで一計を案じました。幕府の通詞(つうじ:通訳)森山栄之助(もりやま えいのすけ)の草履取りに化けて場内に入り込み、重要な役目を果たしたのです。
この森山という男はなかなかの才人でした。天保の初めごろ——彼が十二、三歳のとき——幕府がアメリカの漂流民を長崎に送り、オランダ船に託して本国へ帰したことがあります。漂流民が長崎にいたあいだ、森山は毎日その場所へ遊びに行って英語を覚えたのです。そういう人物でしたから、アメリカ船が来航したとき、応接の通訳として長崎から呼び出されたのでした。
ところが江戸へ来て身分の高い人々と交わってみると、自分の無学がいかにも恥ずかしくなり、大いに発奮して磐渓の門に入りました。ある日、磐渓が森山にオランダ語について何か尋ねたことがあります。すると彼は突然開き直って言いました。「漢学はあなたを先生として教えを受けているが、蘭学のほうなら私が師匠である。弟子入りをしてから御質問にあずかりたい」
磐渓はそれはもっともだと考えました。翌日さっそく麻裃(あさがみしも)を着け、束脩(そくしゅう:入門の謝礼)を携えて森山の住まいを訪れ、師弟の約束を結んでから、オランダ語の疑問をただしたのです。森山は「さすがは大槻先生である。真の大学者でなければ真似のできない態度である」と、ひどく感服したそうです。こういう心服があったからこそ、磐渓に横浜の応接所へ出入りする便宜を与えたのでしょう。

開国論者
磐渓が仙台へ帰ったのは、文久二年(1862年)、六十二歳のときでした。この年、幕府が大きな改革を行い、大名の家族をことごとく領国へ帰らせたので、仙台藩でも奥方をはじめ、江戸に家族を持つ藩士を残らず国住まいにしたのです。
国許に帰ると、御近習兼養賢堂(ようけんどう:仙台藩の藩校)学頭副使となり、二百石を賜りました。天保三年に学問稽古人、嘉永二年に砲術稽古人。六十二歳の白髪頭まで「学生」の肩書が取れなかったわけです。まったく珍しいことですが、とにかく仙台へ帰ると、まもなく戊辰の奥羽戦争が始まりました。
少し大げさに言えば、この戦争は磐渓が言い出したものだと言ってもよい——底本はそう記しています。彼は最初から熱心な開港論者で、攘夷や鎖国は国を誤ると考えていました。武器も文明も遅れている日本が、外国と戦って勝てるはずがない。一戦を交えて敗れるより、港を開いて外国の進んだ文化を取り入れ、大いに国力を充実させるべきだ——これが持論でした。嘉永六年(1853年)にペリーが来たときも、時流に逆らって藩主に開国を建議し、周囲をはらはらさせたほどです。
こうした意見が、時の執政・太夫(たゆう:仙台藩の家老の呼び名)但木土佐(ただき とさ)に支持され、仙台藩の大勢は開国論に傾いていました。
そこへ朝廷から徳川氏への出兵の命が下り、仙台には会津へ進軍せよとの命令が届きます。仙台藩ではいろいろ評議した末、佐幕派が勝ちを制し、朝廷に伺いの書を出すことになりました。その文章を、磐渓が主任となって起草したのです。この建白書は磐渓一代の名文といわれています。佐幕派を大いに感動させましたが、それだけに反対派から憎まれることにもなりました。
奥羽戦争のあと、奥羽諸藩の同盟は崩れました。但木土佐は免職となり、遠藤文七郎(えんどう ぶんしちろう)が太夫となって藩政を握り、新政府の軍門に謝罪の使者を出すことになります。佐幕派は敗れ、さらに函館へ落ち延びました。そのとき、ある人が但木にも函館へ落ちるよう勧めます。しかし彼は答えました。「一人の学者の説を信じてこの悲境に陥ったが、今さら返らぬことだ。これからは一身に責めを負い、お家の存立を計らねばならぬ」。そして一人動かず、ついに捕らえられて江戸の獄で死罪となりました。但木のいう「一人の学者」とは、もちろん磐渓のことです。
磐渓も捕らえられ、仙台の獄に入れられました。明治三年(1870年)にようやく謹慎を許され、七十歳で自由の身となります。翌年、東京に移って本所若宮町に住みました。陸軍軍医官の石川良信が朝廷の内命を含んで出仕を求めてきましたが、「亡国の遺臣、何の面目あって朝廷に仕えることができようか」と固く辞します。そして文雅風流の老後を送り、明治十一年(1878年)六月十三日、本郷金助町の自邸で永眠しました。七十八歳でした。
あるとき彼は、こんな漢詩を作って勝海舟(かつ かいしゅう)に示したことがあります。壁に高く掲げた父の肖像に香を焚いて拝し、父の長所を取って自分の短所を補うことで、いくらかでも亡き父に報いることができよう——という趣旨です。すると海舟は和歌を贈って答えました。「外国の文の林を枝折(しお)りせし君がいさをを皆仰ぐかな」——外国の学問という林に道しるべを付けた君の功績を、皆が仰いでいる、という意味です。
世論がこぞって攘夷・鎖国を叫んでいた時代に、敢然と立って開国論を唱えた磐渓は、勇気のある学者だったと言わなければなりません。著書は『孟子約解』『近古史談』『寧静閣詩文集』『奇文欣賞』など、数十種にのぼります。
蘭学者になるはずが漢学者となり、漢学者でありながら砲術を修め、通詞の草履取りに化けてまで黒船を見届け、攘夷の世に開国を説き、そしてその説を信じた藩の敗北を、獄中で背負った人。
「亡国の遺臣」と自らを呼んで出仕を断ったその姿には、開国を唱えた先見と、藩とともに敗れた責任とを、どちらも引き受けようとした一人の学者の誠実さが見えます。



