今日からはおぼこもじゃこのととまじりやがてなりたきおとこいっぴき
下谷上野町の間口二間の乾物屋で、鰹節と塩魚を売りはじめた十八の越後の少年は、そんな狂歌を詠みました。雑魚にまじった子どもの魚だが、やがて一匹の男になってみせる。その少年はのちに銃砲を売って維新の戦に賭け、戦争のたびに儲けて国賊と呼ばれ、五十余りの会社を興し、九十歳で南アルプスの赤石岳に登りました。大倉喜八郎(おおくら きはちろう)の生涯です。
やがてなりたき男一匹
大倉喜八郎は天保八年(1837年)九月二十四日、越後国北蒲原郡新発田に生まれています。幼名を鶴吉といいました。幼時から負けず嫌いな腕白小僧で、子ども相撲を取っても負けたことがありませんでした。ある日、父の千之助が兄弟一同に相撲を取らせて勝った者に褒美を与えましたが、彼は平素から心得ていた相撲の名手を出して、数番の相撲にことごとく打ち勝ちました。父はこのとき彼の小賢しさを賞揚して、「太閤様のように知恵のある奴じゃ」と言いました。これを伝え聞いた一郷の人々が彼のことを「小太閤」と呼ぶようになったのだそうですが、彼は相撲に限らず、何事にも知恵の回る利者だったらしいのです。彼は年少にして藩儒丹羽伯弘について漢学を修め、かたわら習字、珠算を学んでいます。記憶力がいいのと、ことに数理に秀でていたので、同輩をしのいで断然光っていたそうです。また狂歌を大極円柱に学び、そのころ詠んだ狂歌が底本の書かれた昭和の初めにも村社の奉額に残っていたそうです。十七歳にして父母に死別し、江戸に出たのが安政元年(1854年)十月、十八歳のときでした。
彼は江戸に出ると、まず商売によって身を立てようと決心し、麻布飯倉の中川という鰹節店に奉公しました。そして商売の呼吸をのみこみ、三年ののちに暇を取り、下谷上野町摩利支天横丁に二間間口のささやかな店を借りて、乾物店を開業しました。屋号を大倉屋と称し、鰹節をはじめ、伊豆の大島、三宅島あたりから来る塩魚や乾物類を売り出しました。これが後年の大実業家大倉喜八郎の出発の第一歩でした。このころ彼の詠んだ狂歌に、
今日からはおぼこもじゃこのととまじりやがてなりたきおとこいっぴき
というのがありますが、彼の意気盛んな気概のほどが知れるのです。

武器の売り込み
彼が上野に乾物店を開いて独立自活の道を立てていたとき、天下の形勢が急変して、米艦の浦賀渡来となり、天下争乱の兆しが見えはじめました。彼はこの形勢を見て取るとただちに抜け目なく、戦争になくてはならぬ銃砲火薬の商売に目をつけました。そして横浜に赴き、外国船を訪れて武器弾薬の輸入状況を調べて、神田の和泉橋通りに銃砲店を開業しました。これが彼の二十九歳のときで、屋号は前の乾物屋のときと同じく、やはり大倉屋でした。商品はオランダ人スネルと単独取引をして、すばらしい巨利を博しました。奥羽征討のときには、総督宮有栖川熾仁親王の御用達を命じられて、官軍のために輜重の用を弁じています。またそのころ、ほかの銃砲店が恐ろしがって引き受けなかった津軽藩の注文に応じて、おびただしい銃砲火薬の類を海路津軽に輸送して「男を上げた」のも彼でした。そのころは奥羽の諸藩がほとんど佐幕派に投じて津軽藩のみが勤王派でしたから、津軽藩へ武器を輸送することは危険この上もない冒険でした。また津軽藩は財政窮乏して、せっかく兵器を納入してもこれを現金で支払う余裕がないので、その代わり米で支払う約束でした。商売としてはかなり不利な条件でしたが、彼はこの注文を敢然と引き受けて、横浜から船を仕立てて、小銃二千五百挺とそれに相応する莫大な弾薬を積んで、海路をはるばると津軽藩へ輸送しました。この時分の彼にはこんな大注文に応じるだけの資力がなかったので、有り金はもちろん、家財道具の類を残らず金に換えて、オランダ商人から武器を仕入れました。彼のこのような冒険的な商売は、非常に義侠的な行為として当時世にうたわれたのです。だが、佐幕派が倒れて新しい王政復古の時代が来ることを早くも見透していた彼には、きわめて当然な仕事で、時勢を見るに敏活な彼の商略を物語る以外の何物でもありません。
果たして彼は、維新の動乱が鎮まり、明治新政府が開かれ、諸侯が版籍を奉還するや、もう当分戦争のないことを見抜いて、新しい平和時代に適応する新商売を思い立っています。平和時代の戦争、すなわち外国貿易に従事しようと決心して、彼が海外視察の旅に出たのが明治五年(1872年)でした。アメリカを振り出しに満一か年を費やしてイギリス、フランス、イタリアなどを巡遊し、各国の貿易状態を調査して帰朝しました。そして帰朝後ただちに欧米の会社組織を参考にして設立したのが、資本金十五万円の大倉組商会でした。翌年にはロンドンに支店を設けて、外国貿易の先端を切っています。彼の成功の基礎となったものは、常にこのように時勢を見るに敏感な先見の明と、大胆な商略とでした。

先見の明
戦争のたびに大倉は儲けた、といわれますが、明治七年の台湾出兵から西南の役、日清日露の両戦役にかけて、大倉の関係しなかった戦争は一度もありません。輜重、糧食、人夫の供給取り締まりなどの事業は、ほとんど大倉組の独占に帰しています。日清戦役のときなどには、例の「石の缶詰」事件などがあって出征軍人の反感を買い、国賊呼ばわりをされたものですが、大倉が維新以来戦争で大当たりを取ったことは争えない事実です。
そして戦争と中国の内乱のたびに、中国・満洲方面に彼の事業が躍進的な発展ぶりを示しています。張作霖と大倉が兄弟のような親密な間柄にあったことは周知の事実です。張作霖は彼から莫大な武器を供給されて強大な兵力を養うことができたのですし、大倉ももちろんそれによって少なからぬ利益を上げたのですから、二人の仲がよかったのは当然です。だが張作霖もさる者でしたから、二人の事業上の交渉になると虚々実々、実に端倪すべからざるものがありました。それである人が二人を評して、狐と狸の好取組だと言ったそうです。
大正二年(1913年)の春、時の外相内田康哉の主催で、財界の有力者が数名招待されたことがありました。主意は南京の革命党の仮政府から頼まれた資金三百万円の調達方でした。ところがいよいよ協議に移ってみると、一人として賛成する者がありませんでした。当時の日銀総裁高橋是清などは、「革命党に資金を貸すなんて、あまりに冒険にすぎる」と言って、真っ先に反対しました。外相もこうなると遅疑して、容易に決定を与えませんでした。このとき大倉は、
「私はこの借款は国家のために大変に利益になると思う。もし誰も賛成しないのなら、自分が一人で引き受けて見せる」
と、憤然席を蹴って立ちました。そして彼はその足で安田善次郎を訪れて、自己単独の責任で右の資金を調達し、これを孫逸仙、黄興らの革命政府に融通しました。この資金はその後二年とたたないうちに、元利ともに完全に大倉の手に返済されました。が、その金は革命政府が上海・南京間の鉄道を担保にしてイギリスから五百万円借款して、そのなかから大倉に支払ったものだと分かりました。
「だから言わないことじゃない。三百万円どころか五百万円でも六百万円でも、向こうの要求に応じて鉄道を担保に取って貸してやったら、中国の中央部に確固たる利権が確立されたんだが、みすみす損をした」
と言って、非常に残念がったそうです。もしこのとき、大倉の考えるように上海南京間の鉄道利権を中心にして革命政府の大借款が成立していたら、中国の歴史に若干の変更が行われていたかもしれません。革命政府などというと資本家は名を聞いただけでも臆病風に誘われるものですが、清朝三百年の積弊に抗して旗を挙げた革命政府に民衆の同情が集まっていることを知って、革命政府の勝利を見抜いていた彼の先見の明は、偉とすべきです。

赤石岳の踏破
彼は裸一貫から身を起こして、あらゆる事業界に乗り出しています。合名会社大倉組、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木、秋田木材、東京電灯、東京製綱、帝国ホテル、日清製油、本渓湖煤鉄公司、鴨緑江製材、大裕元紡織、蒙古華興、大日本麦酒、萍郷炭坑、帝国劇場など、五十余会社に関係しています。そしてその関係範囲は日、満、支の三か国にわたっているのですから、その精力の絶倫は驚くべきものです。彼は後年、ある人から銀行の創設を勧められたことがありますが、「銀行なぞに手は出さん。新しい事業を経営してそれを成功させるのが自分の楽しみだ。銀行は事業に金を貸して結局会社を倒してしまうようなもので、そんなことには自分は興味がない」と言って、一生涯銀行には手を出しませんでした。彼はいわゆる事業家であり、金融資本の発達していなかった明治時代に活躍した実業家に共通するところの、不撓不屈の産業資本家の一典型でした。
こういう野心満々たる事業家肌の人物であったからこそ、八十九歳という高齢にもかかわらず満蒙中国の大旅行を試みる元気があったのです。九十歳のときには、例の日本南アルプス、標高三千百二十一メートルの赤石岳を踏破して、その壮者をしのぐ勇気は一世を驚かせました。
そのとき彼は手製の椅子に後ろ向きに背負われて、ちょうど観音様が六部に背負われているような格好で幾多の難所を突破しました。だが従者の大部分は、健康な者でも危険な吊り橋を渡るときなどは足がすくんで犬が這うようにして渡ったそうですから、観音様のように背負われていてもあまり平気でもなかったでしょう。しかし彼は平気な顔をして、「ともすれば蜀の桟道しのばるる、赤石岳のたかき岨路」などと、得意の狂歌を詠みつつ登ったそうです。九十の老人とはどうしても受け取れない元気な光景です。彼は幾多の大事業を経営して巨富を築きましたが、一方で各種の社会公共事業にも財を散じています。日露戦役には率先して三百万円の公債に応じ、恩賜財団済生会には百万円の寄付をして各所に施療病院を設立しました。また大倉高等商業、大倉商業、善隣商業などの学校を経営して、育英事業にも尽くしています。大正四年(1915年)、特旨をもって華族に列し、男爵を賜り、昭和三年(1928年)四月二十二日、九十二歳で逝くや、破格の御沙汰をもって位二級を進め、従三位に陞叙されています。
鰹節屋の小僧が銃を売り、戦争で儲けて国賊と呼ばれ、革命党に金を貸し、九十歳で椅子に背負われて山に登りました。狐と狸と評されたその商いに、きれいごとはありません。けれども「やがてなりたき男一匹」と詠んだ十八の少年の意地は、九十二年のあいだ一度もしぼまなかったのです。


