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大久保利通の生涯|維新三傑の雄!冷徹なる決断で近代日本を切り拓いた大政治家

大久保利通の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「僕は不承知じゃ」

「朝鮮はわれに無礼を加えた。千載の汚辱は討って濯がなければならない」。西郷隆盛が眼を怒らして叫ぶと、満座は冷や汗を流して息をのむばかりでした。その静寂を破ってそう言い切り、おもむろに立って縁側に出て、静かに歩きはじめた男がいました。幼いころから同じ川のほとりで遊んだ、ともに刺し違えて死のうとまでした友に、公のために毅然と立ち向かった人。大久保利通(おおくぼ としみち)の生涯です。

 

俊傑育つ甲突川のほとり

薩南鹿児島の西を流れる甲突川のほとり、西海の雄藩島津氏譜代の武士たちが軒をつらねて住む加治屋町に、石を投げ、木に登り、泣き笑いしつつ遊ぶ子どもたちがいました。その幼童のなかに、ひときわ異彩を放ち、「変物」のあだ名を与えられていた二人の子どもこそ、後年維新回天の宏業に参じ、ともに偉名をはせた西郷隆盛、大久保利通の二童でした。利通は文政十三年(1830年)八月、代々薩摩藩に士格として仕えていた大久保次右衛門の子に生まれ、幼名を正助、のちに一蔵と称しました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「天保三年(1832年)」生まれとし、通称を「市蔵」と記していますが、利通の生年は文政十三年(天保元年)八月十日、通称は一蔵です。底本末尾の「享年僅かに四十九」は文政十三年生まれでこそ合います。

 

彼の号とした甲東は、彼と同町に生まれ三歳年長であった南洲(西郷)らと戯れ遊んだ甲突川のほとりを懐かしむ心から出たものでした。やや長じるに及んで、利通は海江田信義、伊地知正治、大山綱良らとも深く交わり、当時流行の朱子学よりもむしろ好んで、精神の修行を第一義とし良知の説を宗とする陽明学の流れをくみ、『近思録』および『伝習録』を専心研鑽し、先輩伊東茂右衛門について疑義を質しなどしていました。

嘉永三年(1850年)、突如、父次右衛門は絶海の孤島喜界ヶ島に流罪せられる身となりました。それは、かの島津家の世子斉彬を廃して斉興側室の寵児久光を擁立しようとし、義に迫る硬骨忠勇の人々をあるいは切腹させ、あるいは流刑、閉門に処した「お由羅事件」にわざわいされたものでした。当時二十歳にして蔵方下代から記録所書役助に転じたばかりであった利通は、父子生き別れに加えるに、父の咎によって役御免となり、にわかに奈落の暗黒に落ちて、しみじみと人の世の辛さを味わわなければならなくなりました。この当時における悲痛惨烈な体験は深く利通の脳中にしみわたり、あらゆる場合に処して激動せず、躁進せず、常に事物の表裏を見透し、鋭い批評家たり、冷静な観察者たり、深慮周到な政治家たるの基礎を徐々に築き上げていったのです。

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経国の大活躍

嘉永四年(1851年)、利通らの運動が功を奏して島津斉興が隠退し、名君斉彬が封を継ぐと、利通は南洲らとともに重用されはじめました。ときまさに維新の風雲いよいよ急を告げるに際し、彼の経国的大手腕を振るうべき檜舞台は果然前面に展開したのです。彼は達観卓識の英才をもって公武・諸藩のあいだを往来し、寺田屋の変、生麦事件などの試練によく堪え、坂本龍馬が来て薩長連合を説くや、天下の形勢を達観して西郷とともに木戸孝允、高杉晋作らと結び、討幕の密計を立てて、維新回天の大計画へ驀進しました。慶応二年(1866年)、将軍家茂自ら大兵を率いて大坂に着陣し、長州征討の兵を動かそうとせぬ薩摩藩に使者を立ててその参軍をうながしてきたとき、藩を代表して閣老板倉勝静に面接し、さんざん相手を翻弄した末、「名もなき兵を出すことはご辞退申すほかはござらぬ」ときっぱり幕命を峻拒したのは利通でした。

 

※ 底本はこの出兵拒否を「慶応元年五月」に置いていますが、大久保が「名義なき戦」として出兵を拒んだのは慶応二年の第二次長州征討のときです。

 

また、山内容堂が薩長の鉾先を挫くべく進言した大政奉還は、徳川家を首席として新政府を組織すべしとの意を含んだものでしたが、このような俗論を断然排して、「朝威を発揚するがためには、いったんは武力を用いて幕府を討つを可とする」と岩倉卿に上書させたのは、利通が西郷、吉井、伊地知らと岩倉邸に会し、大いに論究した結果でした。この報を得た慶喜は急に二条城を去って大坂に退き、ついで鳥羽伏見の戦争となって一挙に幕府の根底は崩壊し、形勢ここに定まって、維新の変革はその完成を望みえられることとなりました。

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重責をになって起つ

維新政府における利通は、内国事務総督のもとに参与となり、版籍奉還を断行し、中央集権の基礎を固めるために鋭利な手腕を振るい、また朝廷の体裁変更、官制改革、冗員淘汰、陸海軍整備、会計民政の基礎、外国交際および教育など各般の改正を献策し、卓越せる帷幄の謀将として新政府の重責をになって活躍しました。彼は明治四年(1871年)六月、大蔵卿となり、同年十一月、岩倉大使にしたがい副使の一人として木戸、伊藤らとともに欧米視察の途に上りました。そして明治六年五月、多くの希望と抱負を抱いて帰朝してみれば、囂々と渦巻いていたのは「征韓論」でした。西郷南洲がその同志副島、板垣、江藤とともに畢生の心血を注いで一大壮図を遂げようとするのに対し、岩倉、木戸、利通らは断固としてその無謀を難じ、時機尚早を唱えて対抗し、がぜん激烈な大論戦となりました。西郷隆盛奮然として立ち、

「朝鮮はわれに無礼を加えた。千載の汚辱は、討って、濯がなければならない!」

と眼を怒らして呼号すると、満座は粛然として冷や汗を流し、じっと息をのむばかりでした。と、この静寂を破って、

「僕は不承知じゃ」

と言い切り、おもむろに立って縁側に出て、静かに歩みはじめたのは大久保利通でした。日の運命はついに決し、征韓論は決裂しました。まことに南洲の権勢を冒し、敢然と彼に対抗しえる者は、当時利通以外にはありませんでした。しかも南洲は幼少時代からの刎頸の友であり、ひとたびはともに刺し違えて死のうとしたほどの間柄です。情において忍びざるところを公のために毅然として行うその冷徹な勇気こそ利通のほかに追随を許さない偉大な点であり、またそれが多くの人の怨みを買い、数多の敵を作ったゆえんでもありました。征韓論破れてから、西郷、板垣、江藤の廟堂を去り、木戸もまた絶えず不平満々たるに至って、利通は独り天下の大舞台を背負う第一人者となり、彼の双肩にかかる責務はますます重く、かつ大となっていきました。

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我みずから行かん

明治七年(1874年)二月、江藤新平が兵を佐賀に挙げました。当時内務卿として政府の重鎮にあった利通は、身は文官であるにもかかわらず自ら請うて諸軍を督し、佐賀に赴いてこれを鎮定しました。けだし征韓論決裂から派生し来たったこの乱を、おのれの責任と認めたのでした。同じ年の四月、西郷従道が廟堂の制止を顧みず台湾出兵に進発しました。この報が政府に伝わると、みな愕然として狼狽の色を見せました。が、利通は自若として言上して言いました。

「事ここに至れば、もはや致し方がありませぬ。他日もし事が難しくなれば、その責には私が当たりましょう」

そして彼はその後始末解決のために、九月、北京へ行き、わが国の体面を保つために八方苦心して談判をまとめてきました。明治八年(1875年)、新政府の威望を高めるため維新功臣の協力を企図した大阪会議では、木戸、板垣、伊藤らとともに元老院、大審院の新設を決定し、立憲主義に一歩を進めました。また民撰議院設立の端を開くという趣旨から地方官会議を開催し、参議兼内務卿として直接その衝に当たりました。このあいだ、左大臣島津久光および参議板垣、ならびに木戸らとの意見の衝突あり、政局しきりに動揺紛糾するなかにあって、利通は独り泰然として樺太事件、朝鮮問題を処理し、さらに熊本の乱、萩の変を鎮めていました。

しかして明治十年(1877年)、西南戦争の勃発となりました。はじめ利通は私学校生徒の騒擾を耳にしましたが、西郷がそのうちにあるとは信じていませんでした。ついで西郷のいよいよ起ったことを聞くに及んで、よし、自分は自ら出かけて西郷を説いて来よう、と決心しました。ひどく焦慮していた木戸は、彼の顔を見るなり、「何をぐずぐずしてるんだ。僕はただちに出征の任に当たろう」と言いましたが、利通は静かに口を開いて、

「いや、僕はまず単身鹿児島に行って、西郷に会い、大義を説いて動乱を鎮静しよう」

だがこの説は閣僚の容れるところとならず、勅使派遣に決した折から、熊本攻囲の急電来り、ついに鎮圧のほかない有様となってしまったのでした。

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兇刃

明治十一年(1878年)五月十四日、雲低く垂れた雨もよいの午前九時ごろ、東京麹町紀尾井町にさしかかった一輛の馬車。人通りもまれな清水谷を駆けて北へ走ろうとする刹那、「天誅! 国賊!」。声もろともに辻便所の陰から躍り出た六人の壮漢、手に手に長刀を抜き放ち、馬車の前後左右から斬ってかかりました。「何者っ」と叫ぶ大喝が車中から響いたと見る間に、早や紅に大地を染める血潮。これ、島田一郎ら凶徒の手に倒れた俊傑大久保利通の最期でした。享年わずかに四十九。

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稀世の大政治家的人格

維新の三傑。それは勇断の士南洲、智仁の人木戸、それにわが智勇の俊傑大久保利通です。維新の鴻業はこの三者を待ってはじめて成就されました。しかも彼利通ほど多くの誤解と非難に遭った者は少ないものです。しかしながらそれは、天下のためならば何物をも恐れず、初心を貫徹しようとする彼の強靱な性格の致すところであり、またそれこそ彼独自の偉大さだったのです。沈毅端厳にして謹厚綿密、利欲に恬然として身を公に捧げ、現金わずかに百四十円と抵当入りの不動産と負債とを残して倒れたその日の早朝、彼はなお地方官に対して明治三十年に至るまでの施政方針を細密に説いていました。まことに彼こそは世にもまれな深謀遠慮の大政治家でした。

父を島に流され、職を奪われた二十歳の青年は、感情で動かない人間になりました。友の征韓論に「不承知」と言い、友の挙兵に「自分が説きに行く」と言い、刺された朝まで二十年先の施政方針を説いていた。残した現金は百四十円。嫌われ、恐れられ、そして死後に、この国の形を作ったのはこの人だったと分かるのです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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