「娼妓などという奴隷制度は文明の恥辱である。さっそく解放せねばいかん。娼妓のみではない、一切の人身売買的行為を禁止すべきである」
明治四年(1871年)、そう言い出した男はただちに実行に取りかかり、吉原をはじめ千住、洲崎、品川の遊女の鎖を断ち切って故郷へ帰らせ、丁稚小僧の「飼い殺し」も改めました。翌年には横浜に寄港したペルー船から二百三十余人の清国人を解放し、国際裁判で日本を勝たせます。大隈の白馬を無断で乗り回した土佐の若者、大江卓(おおえ たく)の生涯です。
遊女解放の先駆者
「娼妓などという奴隷制度は文明の恥辱である。さっそく解放せねばいかん。娼妓のみではない、一切の人身売買的行為を禁止すべきである」
と言い出すと、大江卓はさっそく実行に取りかかり、吉原をはじめとして千住、洲崎、品川など四宿の遊女の鎖を断ち切って、これをそれぞれの故郷へ帰らせてしまいました。同時に奴隷にも等しい丁稚小僧の「飼い殺し制度」を改革し、一年以上の雇用契約を厳禁するなど、大英断の大鉈を振るったのです。明治四年、嘘みたいな事実です。この人道主義的な手腕を認められて、彼は参議大隈重信のもとにいたとき、廃藩置県と同時に神奈川県参事官に返り咲きをしました。ところが彼は、その前にすでに偉いことをやっていたのです。

役人をやめさせられる
大江卓は弘化四年(1847年)、土佐に生まれました。号は天也。
維新後早々新政府に仕え、明治二年(1869年)には兵庫県知事伊藤博文のもとで同県参事官の職にありました。役人こそしていましたが、土佐藩における自由民権論の急先鋒で、ルソーの『民約論』に傾倒していたくらいですから、時々藩政を非難したりなどして、藩主山内家からは一種の危険人物として目されていました。そのうえ彼は土佐藩といっても分藩の出身で、本藩の者には終生頭が上がらないような境遇でした。しかし彼はそんなことに頓着せず、「本藩とは何だ。四民平等、自由民権」とうそぶいていました。すると藩の内部から、「藩侯を捨てて朝臣となるは古来忠義の精神にもとるものなり」という嫉妬まじりの輿論が作られ、いつしか太政官に手が回り、「このたび本藩の申し立てにより職務差し免ぜられ候こと」との辞令で馘になってしまいました。彼は大いに憤慨し、あくまで戦うというのを、伊藤博文がまあまあとなだめ、金を与えて神戸に遊ばせておきました。彼は満腔の不平を抱いて毎日楠公の墓に詣でては、その往復に付近の被差別部落に足を入れました。そして彼らの生活状態を親しく目撃し、しだいにその世界に同情と理解を深めるようになったのです。

時代の機智
まもなく上京した彼は、当時築地の梁山泊と呼ばれた大隈邸へ転がりこんで、毎夜集合する急進派の青年たちにルソーの民約説を説いていました。が、それだけでは納まらず、ある日曜日に馬丁松助なる者を抱きこみ、大隈の乗馬を引き出して浅草亀岡町の弾内記(だん ないき)の家を訪れ、大いに四民平等、自由民権を宣伝したものです。弾は学識気力のある部落の頭でしたが、役人とも見えず書生とも思えない白馬銀鞍の美男子が一つ一つ身にこたえる新思想を語るので、感心しながらもいい加減に取り合って、どうなることであろうと不安でした。だが二、三日するとまたしても馬でやって来ました。そこで試みに茶を出すと平気でおかわりをするし、酒を出せば遠慮なくがぶがぶ飲んでますます談論風発するという調子に、弾も心を許すようになりました。「おたがいにやりましょう、封建思想を破って」と、十年の知己のごとく二人は親しくなったのです。
その後大江は五、六回例の白馬を弾のもとへ乗りつけたのち、「時に、僕の伯父さんに会ってください。紹介するから一緒に来たまえ。なに、話はよく分かる人だ」と、至って気軽に梁山泊へ連れて来ました。そうして大隈の居室へ行き、「今、私の伯父さんが訪ねて来たのですが、ご馳走をしてください」と言って頼みました。酒宴がはじまると、とかく話がとんちんかんになることもありましたが、大江はそこをよろしく取りなし、平気でご馳走を食べ、ひそかに喜んでいました。それに大隈は客好きで、そのうえ相手が何を言おうと自分の意見をまくし立てて満足する人でしたし、そばには若い大隈夫人が座を斡旋したので、主客分からぬなりにも、そのときは暴露しなかったのです。

封建思想を打破させる
さて数日たってから、彼は大隈夫妻に向かい、
「先日伯父と申してご紹介したのは、実は部落の頭の弾内記です。今後は従来の陋習を破り、あの人々と我々のあいだの障壁を除いて、我々友人として、また親類として交際しなければなりません。奥さんには感服しました。弾の盃を快く受けてくださいました。これが文明開化、四民平等と申すものです」
大隈はびっくりし、夫人は苦い顔をしたといいます。大隈参議は大江を民部卿大木喬任へ紹介し、弾を民部省大佑三等出仕に任じ、部落の調査に着手させました。何より賤称から撤廃しなければならないと、次の民部卿井上馨の時代に、太政官第六十一号布告として明治四年(1871年)八月二十八日、賤称廃止令(いわゆる解放令)が発布されたのです。これに勢いづいて、大江は遊女および丁稚制度の解放に乗り出したのですが、彼の功績はまことに大きなものがあります。ちなみにその銀鞍白馬は、ナポレオン三世が徳川将軍に贈ったという由緒ある名馬で、彼はそれを承知で引っぱり出したらしく、愉快な話でもあります。

マリア・ルス号事件
彼は神奈川県参事官になると、今度は破天荒な事件に手を染めました。明治五年(1872年)六月、南米ペルーの商船マリア・ルス号が、マカオの奴隷市場で、二百三十余名の南中国で誘拐された人々を、白紙捺印の契約書と引きかえに積みこみ、横浜港へ寄りました。航海中は犬猫の待遇を受け、停泊中といえども上陸禁止なのです。やがてペルーのゴム園やコーヒー園へ送られるのですが、あまりの虐待に一人の清国人が船員にその不法を詰ると、船長や事務員がよってたかって殴り、頭髪半分と眉毛半分を剃り落とし、一室に監禁してしまいました。その男が隙をねらって海中に飛びこみ、海岸通りから這い上がり、巡回中の横浜警察邏卒部長に救いを求めました。前後して、付近に停泊のイギリス軍艦の艦長も自身県庁に出頭し、「夜になるとマリア・ルス号の船室に清国人の悲鳴が起こる」と注意しました。
「奴隷売買」「奴隷虐待」の言葉を聞いては、かねて自由と正義を主張していた大江参事官が黙っているわけはありません。しかもこの事件が外務省に聞こえると、外務卿副島種臣は「人権のためしっかりやってください。この件だけは貴公に専権を委ねる」と大江に指令しました。そこで彼は勇躍決心してマリア・ルス号の船長を自身訊問しました。ところが「ペルーは日本の条約国でないから、関係ないことでしょう」と奴隷解放の勧告にいっこうに応じません。それ以上は裁判の形式をとるほかありませんが、権令陸奥宗光以下司法官連は、この上深入りするのは危険だといってちゅうちょするのでした。彼はやきもきしました。そのとき副島が陸奥を大蔵省へ転任させたので、あとを継いで権令になった大江は、もう船長の言い草などは相手にしません。急遽二百三十余名の清国人を全部県庁に召喚し、海軍士官をマリア・ルス号に派遣して事実の調査を進め、お手盛りで臨時裁判長を拝命し、一瀉千里に奴隷解放を宣告しようとすると、横浜税関の翻訳官星亨が現れ、あわてて遮ったのです。すなわち、慶応二年に締結した条約第四条で、条約未済国人民に対する事件は各国領事立ち会いの上これを処分すべしとなっている。貴公が裁判長になって二、三の日本人を立ち会わせて勝手に宣告したって、外国人を束縛する効力はない、というのです。
大江はそこでいちおう閉口しましたが、そんならと、昼夜兼行で『神奈川県庁吟味目安並見込書』なるものを作成し、各国領事に交付して賛否の回答を徴しました。が、なにしろ一夜漬けの杜撰きわまるもので、領事連は意味をくみ取るのに骨を折りました。結局賛成したのはイギリスだけで、アメリカ、オランダの二領事が中立、あと四か国は反対でした。だが臨時裁判長の大江は、各国領事を陪席判事と見なしていないので、賛否のいかんに関せず、「各国領事立ち会いの上」宣告し、副島外務卿に報告、陛下の御裁可を奏請して、ばたばたと二百三十余名の奴隷を解放してしまいました。船長は切歯して帰国しましたが、ペルー政府は大立腹、ただちに損害賠償談判の全権大使を差し向けました。しかし日本政府が頭からはねつけたので、問題はロシア皇帝アレクサンドル二世の仲裁裁判に持ちこまれました。この簡単な事件の審理に三か年を経て、明治八年(1875年)、日本の勝利となったのです。
このため清国の喜びは大変なもので、「マリア・ルス船客解放事件感謝特命全権大使」という長い名前の使者を派し、わが政府に懇篤な謝意を表しました。また横浜在留の清国人一統は大々的に醵金し、それをもって金時計その他みごとな記念品を大江に寄贈したといいます。その後の彼には華々しい活躍はなかったようであるが、今日遊廓制度は逆戻りとなり、世界の植民地にはいまだ奴隷のあとを絶たない事実を思うと、六十年前の彼の仕事は真に偉大であったといわなければならない、と底本は結んでいます。大正十年(1921年)九月十二日、七十五歳で没しました。
本藩に馘にされた若者は、大隈の白馬で部落の頭を訪ね、その人を「伯父」と偽って参議の酒席に連れこみました。そして遊女を帰し、丁稚を解き、外国船の奴隷を解放して国際裁判に勝った。嘘みたいな事実ばかりの数年間です。人権という言葉がまだ日本語になりきっていないころに、それを体ひとつで実行した人がいました。


