PR

大井憲太郎の生涯|大阪事件を主導し労働運動の先駆けとなった自由民権運動の闘士

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

「諸君、何とも済まん。二人で酒を酌み交わしとったので」

党内の対立を調停する人物として、いちばん仲の悪い星亨を推されたとき、彼はちょっと苦い顔をしましたが、黙って一人で迎えに出ていきました。いつまでたっても帰らず、取っ組み合いでもしたかと案じていた一同の前に、河岸の屋根船から二人そろって上機嫌で現れたのです。自由民権の論客、大阪事件の巨頭、労働運動の先駆者。熱血漢で、部下に甘く、自分を抑えることを知っていた大井憲太郎(おおい けんたろう)の生涯です。

 

自由民権の筆陣

明治維新が成就して、国民はみな新興の意気に燃えていました。折からフランスにはパリ・コミューンの変革があり、この報道は早くも『新聞雑誌』紙上に発表されて、海外の新思想に培われた人々を激しく刺激しました。それ以前から起こっていた自由民権運動も、その影響を受けないではいませんでした。明治七年(1874年)一月、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎、由利公正らは民撰議院開設の建白書を提出しました。世論は喧々囂々たる有様となりました。そのとき馬城台次郎(ばじょう だいじろう)のペンネームで、尚早派の巨頭加藤弘之と渡り合い、これをみごとに駁撃した同志があります。その名声は一時に揚がりました。すなわち覆面の大井憲太郎で、当時、陸軍裁判所翻訳官でした。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

出世の階梯

彼は天保十四年(1843年)、大分県に生まれました。静かな馬城山の山かげの高並村で、姓も高並という豪農の子で、最初大輔と名づけられていました。幼いころから漢学が好きで非常な俊才でしたが、日田の広瀬淡窓の塾で漢籍を学び、長崎に出てフランス学を修め、上京して箕作麟祥(みつくり りんしょう)にフランス語の教えを受けました。これが一方で立身の基礎となり、他方で自由思想の血液となったのです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「長崎に出てフランス学を修め、上京して広瀬淡窓の門に漢籍を学び」と書いていますが、淡窓は豊後日田の人で安政三年(1856年)に没しており、上京して学べる相手ではありません。通説では日田の咸宜園で漢学を学んだのち、長崎、東京と進んでいます。

 

その高並がなぜ大井となったかといえば、次のような話があります。上京の途次、長崎時代の同窓生大井卜新(ぼくしん)の大阪の家に身を寄せた際、並々ならぬ大井の親愛と侠気にいたく感激し、兄弟の盃をすると同時に、自分も大井姓を名乗ることにしたからだといいます。さて彼が就職したのは開成所(開成学校)で、舎密学(せいみがく:化学)の講師でした。明治六年、三十一歳のときです。江藤新平はその凡ならざる人物を発見し、陸軍裁判所に入れてフランスの兵式に関する翻訳などをやらせました。故郷の山の名を借りた馬城台次郎の名が喧伝されたのはその翌年、大井は長官桐野利秋に愛され、まだ官途が開けていました。八年には元老院の書記官となり、ここで欧米の制度調査に貢献するところが少なくありませんでした。しかし恩人の江藤は征韓論のことから廟堂を去ったのみならず、佐賀の乱に敗れて刑死し、桐野もまた鹿児島の乱に世を去り、いよいよ役人生活がいやになったので、明治十二年、彼は野に下りました。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

活躍はじまる

その後、彼は東京曙新聞の記者となって自由主義のために健筆を振るい、また代言人(だいげんにん:今の弁護士)となって東京組合代言人の副議長に推されました。そして板垣退助を総理とする自由党の組織ができると、常議員兼顧問として枢機に参与することになりました。すると、ここに明治十五年(1882年)、鬼県令として人民に恐れられていた三島通庸が福島県令となり、莫大な土木工事の予算を計上して県会と大衝突を引き起こしました。時の県会議長は自由主義の指導者河野広中です。三島は官憲の力をもって遮二無二押し切ろうとする。農民や士族はその重税の負担に堪えかね、県会はそれら民衆の圧力によって反抗する。この形勢はついに自由党員と警官隊の対立騒擾となりました。河野広中など民家の屋上から味方を指揮して戦うような事態となり、二千余名検挙されました。が、それだけでは重く罰する方法がありませんでした。折しも押収された自由党員の誓約書の一項目が国事犯にふれたという理由をつけられ、河野以下が起訴されてしまったのです。

 

※ 底本は「河野以下五十余名起訴」としていますが、福島事件で国事犯として起訴されたのは河野広中ら六名です。

 

これを見た大井は敢然起って同志の弁護を引き受け、法廷に演説会に熱弁を振るって大いに闘争しました。この事件は彼の地位にますます重要さを加えたのです。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

大阪事件の巨頭

越えて十七年、秩父騒動といわれた百姓一揆には、大井はその無謀を諫止しようとしたくらいでしたが、十八年の事件には自ら巨頭として投獄されました。そのころ日本内地において藩閥政府の弾圧のため志を伸ばすのに絶望した自由民権の士は、かねてまた朝鮮の開化党(独立派)の志士が窮迫しているのに同情し、彼らを助けてまず朝鮮に革命を起こし、清国から実質的に独立させ、その成功の余勢を駆って日本内地に大改革の機運を作ろうと企てたのです。決死隊を募り、爆弾を密造し、あらゆる方法で資金調達に努力しましたが、当然これは当局の探知するところとなりました。一味徒党五十余人、その巨魁が大井でした。大阪で裁判されたので大阪事件といわれるのです。やがて彼は明治二十二年(1889年)二月十一日、憲法発布の大赦にあって出獄しました。大臣参議を非難しただけで国賊扱いを受けた時代から戦い抜いてきた十数年を顧み、彼も感慨深いものがあったことでしょう。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

自己を抑える心

彼の性格については、熱血漢だけに感情的なところがあり、ともすると狭量だという非難がありますが、必ずしもそうとばかりは言えないようです。明治十五年、板垣の洋行のとき、大石正巳一派は反対し、大井一派が板垣を支持して、それを機会として党内に重大な内訌(ないこう:内輪もめ)をかもしたことがあります。なにしろ当時大井の勢力というものは、ただに関東においてばかりでなく、総理板垣の次位で、党内を圧する観を呈していました。大石派と一堂に対峙した彼は部下五十名の優勢をそろえ、しだいに議論が殺気立ってきました。するとこれを憂えた群馬自由党の宮部襄(みやべ のぼる)が、こう党内が二派に分かれて揉めているのははなはだ遺憾だから、誰か調停者を立てるが人選を任せてくれるか、と諮りました。大石も大井もそれを承認したのです。そこで宮部は、大井ともっとも仲の悪い星亨を推薦しました。大井はちょっと苦い顔をしましたが、宮部の言葉に服した。すると今度は、これから君が行って連れて来てくれ、と言われた。大井は黙って一人出ていきました。あとに残った人々は、よく出かけたね、などと戯談まじりに語り合っていましたが、さあ、いつまでたっても帰ってきません。あまり帰りが遅いので、やっぱり取っ組み合いでもやったかと思っていると、大井の顔が河岸の屋根船から見えました。続いて星も中から出てきたのです。

「諸君、何とも済まん。二人で酒を酌み交わしとったので」

と上機嫌に言いました。それで一同、安心すると同時に、自己を抑えた大井の心持ちに感服したそうです。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

部下への愛情

彼はまた、部下を実にかわいがりました。「母から無心をされて来たのですが」と言われると、偽りだと思っても財布をはたいて与える。「一ぱい飲みたいのですが」。これにも都合してやる。さらに遊廓から付き馬を引っぱってくる者があっても、叱りもせずにこにこ払ってやる。手元にないときは羽織でも袴でも質に入れて用立てる。したがって部下はよくなつき、彼のために粉骨砕身することを惜しみませんでした。しかしそれだけに、始終金の算段に苦しみました。板垣の洋行中、党本部を引き受けた彼が機関新聞の経営を理財に長けた星に任せざるをえなかったのは、その弱点ですが、人間としてはより多く親しめる徳がありました。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

労働運動の先駆者

出獄後の彼は自由党内でも左翼急進派を代表していたため、板垣とはしだいに意見が合わないようになり、明治二十三年(1890年)の国会開設とともに脱党し、明治二十五年、別個に東洋自由党を組織したのです。

「財政を整理し、国家経済の許す限度にしたがい、民力の休養、ことに貧民・労働者の保護をなすこと」

綱領中に右の文字があります。当時として多分に無産者的な色彩を帯びていたもので、これを基礎にふたたび活躍し、二十七年、大阪府選出の代議士に当選しました。のち三十一年、憲政党の常議員になりましたが、同じ年の同党の分裂とともに政界を去り、大阪に大日本労働協会を設立し、ふたたび飛躍を試みました。往年の新思想家として、自由民権の第一線に立った闘士として、さらにまたわが国労働運動のさきがけをなした一人として、その功績は永く残るでしょう。大正十一年(1922年)十月十五日、歳八十にして世を去りました。底本の当時まで知られていた彼の訳著には、『自由略論』(明治二十年、大阪の獄中で書いた序文が付いています)、『仏国民選議員選挙法』(蓑田直と共訳)、『仏国民選議員規則』『仏蘭西邑法』などがあります。

 

※ 底本は東洋自由党の結成を国会開設の「翌年」、憲政党の常議員を「三十年」としていますが、東洋自由党の結成は明治二十五年十一月、憲政党の結成と分裂はともに明治三十一年のことです。

 

福島の農民を法廷で弁護し、朝鮮の革命を企てて牢に入り、出てからは貧民と労働者の保護を綱領に掲げた人。部下に甘く、金に困り、仲の悪い相手と屋根船で酒を飲んで帰ってきた。理屈より先に人を愛した民権家の八十年は、日本の労働運動の最初の一ページでもあります。

大井憲太郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

大隈重信の生涯|明治憲政史上の花形・早稲田大学の創設者
明治・大正にかけて内閣総理大臣を二度務め、波瀾万丈の生涯を送った大隈重信。早稲田大学の創設者としても知られる彼の豪快な素顔と数々の偉業を分かりやすく解説します。

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

タイトルとURLをコピーしました