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奕堂禅師(諸嶽奕堂)の生涯|明治仏教界の三傑と呼ばれた曹洞宗の巨人

奕堂禅師の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「この位のものが担えないで、どうして仏祖の大法を担うことができようぞ」

三人前の薪を一荷にして、いちばんの怠け者の雲水を相棒に呼び、たちまちへたばった相手を、身の丈六尺の老師はそう叱咤しました。廃仏毀釈の嵐のなかで曹洞宗を支え、総持寺の独住第一代となった諸嶽奕堂(もろたけ えきどう)。喝と痛棒で知られたこの人は、二万の末寺を抱える管長になってからも、分からぬ一語を問うために三度、他宗の僧を訪ねた人でした。

 

明治仏教界の三傑

明治の初年といえばいわゆる廃仏毀釈の行われた時期で、日本仏教の命脈もここに断たれるのではないかと憂えられたものでした。だがこの受難期に決然と起って仏法の旗を進めた名僧傑僧も少なくありませんでした。そのなかでも福田行誡(ぎょうかい)、新居日薩(あらい にっさつ)、諸嶽奕堂の三師は、明治仏教界の三傑と称されました。奕堂禅師というと、まずその禅風の峻烈であったことが思い出されます。その禅風はいつも孤危険峻とか瞋拳熱喝(しんけんねっかつ)とか形容されているのですが、その辛辣なことは大変なもので、たちまちにして熱喝が飛び、たちまちにして痛棒が下り、その熱喝痛棒のために気を失った者も少なくなかったといいます。だから当時曹洞の門にあって道を求める者はこぞって奕堂の会下(えか:師のもと)に参じたものですが、その辛辣な禅風には閉口して、たちまち退却するものも多かったのです。しかしよく奕堂の熱喝に耐え、その痛棒によって陶冶(とうや)された者は、みな立派な禅僧になることができました。そのなかには森田悟由、西有穆山(にしあり ぼくさん)、日置黙仙、新井石禅など、明治から大正にかけての仏教界における第一流の人物もあり、そのほか人材雲のごとく、近世曹洞宗の人物の大半はこの奕堂の会下において打ち出されたといわれています。

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仏法を担う力

禅宗では作務(さむ)といって、雲水たちが自分で掃除をしたり、薪炭を運んだり、炊事をしたりすることになっていますが、あるとき奕堂は、三人前の薪を一荷にして、いちばん怠け者の雲水を呼んで自分の相棒を命じました。ところが奕堂という人は身の丈六尺を超える偉丈夫で、四斗俵の二つくらいは両手に軽々とさげるほどの力を持っていたのですが、相棒を命じられた雲水は元来の怠け者と来ているので、とても三人前の荷を担える力はなく、たちまちへたばってしまいました。すると奕堂は声を励まして、「この位のものが担えないで、どうして仏祖の大法を担うことができようぞ」と、いましめ励ましたといいます。

だが奕堂自身の幼いころは、どちらかというと凡庸な少年で、体もいたって虚弱で、眼の玉だけがくりくりと光っていたといいます。その凡庸児が心にも体にも一世を風靡するほどの大禅師となったについては、並々ならぬ修行が重ねられたものでした。奕堂は文化二年(1805年)正月元旦、尾張の士族平尾甚右衛門の三男として生まれました。諸嶽という珍しい姓は、明治になってから総持寺の山号たる諸嶽山にちなんで自ら選んだものです。七歳のとき父を失い、八歳で寺に入りましたが、十四歳のときさらに母にも死別して、はじめて正式に得度受戒をしました。

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安居の病

それからの修行ぶりは峻厳をきわめたものでした。十七歳のとき、三河の正盛院で行われた冬の安居(あんご:一定期間寺にこもって修行すること)に参加しましたが、奕堂はそこで病気になりました。

「自分の寺に帰って、ゆっくり養生をするがよかろう」

同じ安居に参じている雲水たちが、みな心配してそう言ってくれました。だが奕堂はいっこうに帰ろうと言いません。

「そのままでは心配だ。寺に帰って、医者に見てもらいなさい」

師匠の暁林和尚も奕堂の病気を伝え聞いて、何度となく帰寺を勧めてきました。それに病気はしだいに重くなるばかりでした。だが奕堂は、

「叢林(そうりん:修行道場)にあって死するということは、昔の聖者もそれを理想としていた。願わくは、私も骸骨をこの聖浄の地に埋めたいものである」

と言って、どうしても安居の席を去ろうとしませんでした。

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鎌の払子、鍬の錫杖

奕堂は四十三歳にしてはじめて一寺の住職となりました。住職となって寺に入ることを晋山(しんざん)といいますが、この晋山の顛末には心ゆかしい一片の佳話がまつわっています。そのころ奕堂は京都のずっと奥のほうの大悲山というところにこもって、俗塵を離れて修行を積んでいたのですが、以前、風外和尚のもとで一緒に修行したことのある蔵雲という和尚が、「あれほどの人物を山中に隠しておくのは惜しいものである。ぜひとも世間に出て、摂化利生(せっけりしょう:人々を教え導き救うこと)をやってもらわねばならぬ」というので、熱望のあまり、自分が住職をしている山城の大宅寺という寺をぜひとも奕堂に譲りたいと申し出たのです。奕堂はこれまでにもずいぶんと立派な寺への招請を受けたことがあったのをみな辞退していたのですが、自分の寺を明け渡したいという蔵雲和尚の誠意にはついに動かされ、大悲山を下って大宅寺の住持となることを決心しました。それを聞いた蔵雲和尚の喜びは大変なもので、さっそく自分が真っ先に弟子入りをしてしまいました。

ところでこの大宅寺という寺は、檀家が一軒あるでなく、寺の財産が一つあるでなく、まったく大変な貧乏寺だったので、奕堂はまず鍬三挺と鎌三挺とを調えて寺にやって来ました。どうするのかと思って見ていると、まず鎌を払子(ほっす)にし、鍬を錫杖(しゃくじょう)にして、晋山の式が挙行されました。だが晋山の式が済むと、鎌と鍬とはふたたびもとの役目に帰されました。境内が切り拓かれ、大根がまかれ、麦がつくられました。夜になると師弟相対して座り、草鞋を作りながら禅話を交わし、また一枚の布団を引っぱり合って寝につきました。そうした枯淡きわまる生活のなかにも、悟境はぐんぐんと進んでいったのです。

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佐田介石を怒鳴る

明治初年には須弥山(しゅみせん)説の問題というのがあり、なかなか仏教界をにぎわしたものでした。須弥山説というのは一口に言ってしまえば仏教の世界観で、世界の中央、金輪の上に須弥山という膨大な山があり、それをめぐって七つの海七つの山があり、それで世界ができているというのです。もちろん底本の書かれた当時でも、こんな世界観を真面目になって説いたら笑われるに決まっていましたが、徳川時代の末から明治の初年にかけて、太陽中心の世界観が輸入されはじめたころには、仏教僧侶のなかにはこの須弥山説の擁護のために狂奔したものも少なくありませんでした。なかでも明治の奇僧として有名な佐田介石(さだ かいせき)は、もっとも熱心な須弥山説の論客でした。

「須弥山説が強固でなければ、三界二十五有の建立が破れてしまう。三界二十五有が破れてしまうと、仏教はことごとく虚妄に帰する。いやしくも仏法を奉じるものは、努めて須弥山説を主張しなければならぬと思う」

彼はいつもこう主張していました。そして仏教界の要路の人々を訪れては、口角泡を飛ばしてこの主張を押しつけて回りました。その佐田介石があるとき総持寺に奕堂を訪ねてきて、例によって須弥山説をやりはじめました。

「もしも須弥山説が破れるとなれば、三界二十五有の建立は破れてしまう。三界二十五有の建立が破れるとなれば、わが仏法はことごとく……」

すると奕堂はみなまで聞かないで、どえらい声で介石を怒鳴りつけました。

「この大馬鹿者。そもそも仏法なるものは、三界二十五有を粉砕して余蘊(ようん)なからしむことをこそ本旨とするのじゃ。それに貴様は、三界二十五有に固執して須弥山説を説き回っておるそうじゃが、考えてみろ」

さすがの論客佐田介石も、この言葉には愕然として一語もなく辞し去ったといいます。

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総持寺独住第一代

明治元年(1868年)、永平寺と総持寺とのあいだに争いが生じると、奕堂は起ってその調停の任にあたり、事なくこれを解決しました。そしてその功により、同三年、ついに衆に推されて総持寺独住第一代となりました。同時に勅をもって弘済慈徳禅師の号を賜り、紫衣を賜りました。こうして彼は衆望を担って総持寺に入り、管長の職につきましたが、管長になってもその学道修行のことは、さらに怠ることがありませんでした。

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奕堂と滴水

それについて、こんな逸話もあります。あるときのこと、『臨済録』を読んでいると、ふとそのなかのある言葉に対して疑問が浮かんできました。いくら考えてみても疑問が解けないので、天龍寺の由利滴水(ゆり てきすい)という臨済宗の有名な禅師のところに出かけて、その意見をたたいたのです。それも一度では了解ができず、三度出かけて三度説明を聞いて、はじめて微妙な意味を了解し、やっと疑問を解くことができたという熱心さでした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は滴水の寺を「大龍寺」としていますが、滴水宜牧は京都嵯峨の天龍寺の管長を務めた人です。

 

ところが由利滴水はあるとき高橋泥舟(でいしゅう)翁に会って、この話をしました。

「どうも、曹洞の善知識にも困ったものである。総持寺の奕堂和尚ほどのものが、臨済録に分からぬ箇所があって、わしのとこへ三べんも尋ねに来た」

すると泥舟翁は思わず手を拍って、感嘆して言ったものです。

「さすがは奕堂和尚である。二万ほども末寺のある大本山の管長でありながら、法のためには膝を屈して三度までもお前さんのところへ来たのかい。恐れ入ったものじゃわい。お前さん、このまねができますかい」

このように彼は、法の深奥をきわめるためにはいかなることも恥辱と思わず、節を屈して修道したのでしたが、明治十二年(1879年)、羽後の善宝寺(現在の山形県鶴岡市)に巡錫中、七十五歳をもって示寂しました。まさに彼は近代における偉大な禅僧でした。その遺著に『懶眠余稿』があります。

虚弱で凡庸な少年が、鎌を払子にして貧乏寺に入り、四斗俵を両手にさげる大禅師になりました。喝で人を気絶させた人が、分からぬ一語のために三度、他宗の寺の門をたたいた。怒鳴る力と頭を下げる力の両方を持っていたから、この人の会下から明治の曹洞宗が生まれたのです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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