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梅謙次郎の生涯|日本民法の基礎を築いた「立法・育英の貢献者」

梅謙次郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「知らずや、封建鎖国の陋習(ろうしゅう:古くさい悪い習慣)、立憲国に適せざるを」

「民法出でて忠孝亡ぶ」と叫ぶ延期派に、断行派の参謀長はそう斬り返しました。明治二十五年(1892年)、日本で最初の民法をめぐって保守と自由の二つの潮流が激しくぶつかった「民法典論争」です。そのとき三十三歳。松江の貧しい藩医の子で、夜店を見ながら学校に通った苦学生、梅謙次郎(うめ けんじろう)でした。

 

立法・育英の貢献者

明治の立法事業は、いうまでもなく日本の立憲政治の基礎です。梅謙次郎は、憲法と旧刑法とが起草された当時はまだ若年であったため、それに関与するところはありませんでしたが、明治二十三年(1890年)に欧州から帰朝して以来、彼が立法事業に尽くした貢献は偉大なものでした。当時、民法典の草案が元老院を通過してその公布を見、施行期日が二十六年一月と決定したとき、果然、法曹界の一角から猛然と反対論が巻き起こり、いわゆる民法延期派と施行断行派とのあいだに激しい火花を散らすこととなりました。戦いはまず各種の雑誌、新聞を通じて行われ、ついに二十五年における議会の大合戦となりました。「民法出でて忠孝亡ぶ」。延期派がこの名文句を大上段に振りかぶると、断行派は「知らずや封建鎖国の陋習、立憲国に適せざるを」と斬り返して、ここに保守と自由の二大潮流は、開化日本の時代相を反映させて激しい渦を巻き起こしたのです。このとき三十三歳の梅謙次郎は、実に断行派の参謀長でした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「三十一歳」としていますが、万延元年生まれの梅は明治二十五年には数え三十三歳です。

 

以来、彼は幾多の要職を兼ね、国家のために全身を委ねるに至りましたが、そのあいだにおける彼の育英事業もまた、立法に尽くした貢献とともに大きなものでした。欧州から帰朝と同時に法科大学教授に任じられましたが、死に至るまで、彼は育英のために努力を惜しみませんでした。

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苦学の門出

梅謙次郎は万延元年(1860年)六月、出雲の松江で生まれました。家は代々蘭方医で、父の董(ただす)のとき松江藩の藩医となっていました。兄が一人あって錦之丞といい、謙次郎とは二つ違いでした。この兄は明治十二年に東大医科を出てドイツに留学し、十六年に帰朝、十九年、二十九歳で病没しています。謙次郎は祖父の道竹について五歳から句読を受け、幼時すでに立派な詩を作りました。

吟杖尋花去 郊村路不迷 喈喈黄鳥囀 遊立春堤

これはその七歳のときの作です。この年、藩儒沢野修輔の門に入って漢籍を学び、十歳で藩校修道館に入り、十二歳のとき藩主の前で『日本外史』を講じて人々を驚かせました。十三歳で洋学校に転じ、フランス人アレクサンドルらについて洋学を学びましたが、そのうち小学校令が発布されて、その結果、皮肉にも改めて小学校へ入学させられました。しかし十五歳のとき、頭の進んでいた彼は受け持ち教師と大衝突をやり、退学理由書をたたきつけて、さっさと退学してしまいました。それから上京して東京外国語学校に入ってようやく青雲の志に燃えましたが、同時に一家は、定法どおりの士族の商売でたちまち貧窮のどん底に落ち、夜店商いで口を糊する始末となりました。以来、謙次郎は昼は学校に通い、夜は夜店を見るという苦学少年となり、学友から嘲られて奥歯をかみしめる日が続きました。しかも父の董は当時のいわゆる「豪放不羈」なる語で形容される天性の楽天家で、小金があれば安酒に親しみ、二児の秀才をたのみに、少しも貧苦を苦としませんでした。しかしこの父は楽天家であったればこそ、貧苦のなかでよく二児に学業を続けさせえたのでもありました。こういうなかで育った謙次郎は、また無類の親孝行でした。賢母の淳子が病に倒れたのはこの窮迫のなかでしたが、彼は窮迫のなかで死んでいった母を思うと残念で堪らず、就寝前に母の戒名を唱えること、一生を通じて変わりませんでした。

明治十三年(1880年)、首席をもって外国語学校を卒業し、ただちに司法省法学校に入りました。司法省法学校、のちに大学南校と合一して帝大の前身となったこの学校は、存在期間は短かったけれども、幾多の往年の自由主義的な人材を輩出した記念すべき学堂でした。白面年少の謙次郎はここで十分に鍛えられました。同時に、生来恵まれた異常な記憶力と勉強力とをもって、しばしば教師アッペールに舌を巻かせました。彼が司法省法学校を卒業したのは明治十七年です。入学以来首席を占めてその学力を認められていた彼は、病気のため卒業試験を受けなかったにもかかわらず、卒業のときも首席に認定されました。当時の同窓には、河村譲三郎、秋月左都夫、古賀廉造、松室致、末広厳石などがあります。

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俊才の活舞台

学窓を離れた謙次郎は、ただちに司法省御用掛を拝して月俸五十円の身分となり、かたわら母校法学校に勤務、翌年は文部省御用掛兼東京大学法学部教員勤務を申しつけられました。十六年、兄錦之丞の帰朝とともにようやく愁眉を開いていた一家は、さらに盛春を迎えた感がありました。そしてこの年十二月、法律学研究のためフランスに留学を命じられ、翌十八年、リヨン大学の法学部に入ります。その秀才ぶりはリヨンにおいてますます光を放ちました。第一回の試験において早くも四白圏(しはっけん:試験官四人が全員優等点を与えること)と褒詞を得た彼は、続いて第二回、第三回といずれも四白圏と褒詞を重ねて、終始第一の席次を占めました。そして通常在学五年を要する学位試験の受験資格を二年半をもって許され、卒業論文の執筆にかかりました。この論文がすなわち当時有名な『和解論』で、ローマ法の淵源にさかのぼって古今の学説を論評したものです。各試験官は一致して最優等点と特別褒状を与え、法学博士の学位はただちに謙次郎に授けられました。ついで明治二十二年十一月、リヨン市は彼にヴェルメイユ賞牌を贈ってその成績を表彰し、さらにとくに市の費用をもって『和解論』を出版しました。謙次郎はこれに先んじてドイツに渡り、ベルリン大学に入学してさらに研鑽を重ねていました。

翌年、彼は帰朝して法科大学教授に任じ、和仏法律学校(のちの法政大学)の学監となり、『商法義解』第一巻を出版、翌年には農商務参事官を兼ね、法学博士の学位を授けられ、『日本売買法』を著しました。民法の延期・断行戦が火蓋を切ったのは、ちょうどこのころです。フランスの自由な空気にふれ、その自由主義学説を学び取った謙次郎は徹頭徹尾、その当時としての自由主義者であり、その先頭に立って闘ったのですが、明治二十五年、貴族院議員村田保、谷干城以下百十六名が臨時議会に提出した民法商法延期案はついに両院を通過し、断行派の敗北となりました。政府はただちに伊藤博文を総裁とし、西園寺公望を委員長とする民法商法取調委員会を設け、謙次郎もその委員となりましたが、翌二十六年に至っていよいよ法典調査会が置かれ、伊藤博文を総裁として改めて民法商法の立案起草が行われるに及び、民法商法および付属法など全般にわたる主査委員の一人として、その起草に従事することとなりました。

以来数年、彼は心身を傾倒して立法の業に携わりました。おそらく彼がもっとも生きがいを感じ、その異常な精力がもっとも効果的に光輝を放ったのは、この数年間であったでしょう。調査会開始当時の主査委員会二十回、総会百回のあいだにおいて、梅委員の発言数が三千八百五十二回に上っている事実は、彼が弁論の雄であったことを示すばかりでなく、その意気がいかに盛んであったかを物語るものでなければなりません。総則、物権、債権の三編を議了し、二十九年一月をもって帝国議会に提出され、謙次郎は政府委員としてさらに大わらわの奮戦を続けました。この民法三編の修正案はついに両院を通過し、同年四月公布、ついで親族、相続の二編も、三十一年六月の議会において、謙次郎らをもってすれば「痛嘆禁じがたき若干の修正はこうむりながら」も同じく両院を通過、同年七月をもって新民法全部は施行法その他付属法とともに施行されることとなり、わが国最初の成文民法はここに成ったのです。

 

※ 底本は親族・相続編の議会通過を「三十年六月」、施行を「同年七月」としていますが、二編の公布は明治三十一年六月二十一日、新民法全部の施行は明治三十一年七月十六日です。

 

引き続き岡野、田部両博士とともに商法典の起草に従い、三十二年三月、商法もまた公布の天日を見、同六月をもって施行されました。立法者の意志を知る名著として四十版を重ねた彼の著『民法要義』も、このあいだに続々と出版されたのです。

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晩年の偉業

なお、兄錦之丞の洋行で生じた借財を払うべく、ほとんど収入の半ばを割き、貧乏はいつまでも彼の身につきまといました。三十年、彼は第二次松方内閣(いわゆる松隈内閣)の法制局長官となり、ついで伊藤政友会内閣の文部省総務長官(今の文部次官)となりました。しかしこれらは彼の伝記の上に単なる一行を加えるにすぎません。それよりも、三十二年に和仏法律学校の校長となり、三十六年に同校が法政大学と改称するや、その最初の校長として死ぬまでその職を去らず、育英事業に尽くしたことのほうが、より多く特筆に値します。ことに三十七年以来、同大学において清国留学生の教育を開始し、汪兆銘(おう ちょうめい)をはじめ幾多の新教育を受けた俊英を、革命前夜にあった隣邦に送ったことは、彼の経歴の意義ある一ページとされてよいでしょう。梅博士の名は長いあいだ、大隈伯と並んで隣邦の人々のあいだに広く知られました。

明治三十九年(1906年)、伊藤博文が韓国の初代統監になるとともに、同国の立法事業を統轄すべく、その任に選ばれました。以来毎夏、彼が終生教鞭をとった東京帝大の夏季休暇を利用して、彼は韓国へ渡ることとなりました。そして明治四十三年(1910年)八月二十五日、韓国併合を見ることなく、辛亥革命を知ることなくして、韓国京城(けいじょう:現在のソウル)で客死しました。享年五十一でした。彼はこうしてその生涯を立法と育英の事業に捧げ尽くしたのです。死に際して従三位勲一等に叙せられました。

夜店を見ながら学校に通った少年は、リヨンで満点を取り続け、帰国して三千八百回発言し、日本で最初の民法を書き上げました。兄の借財を払い続け、貧乏と縁が切れないまま、夏休みのたびに海を渡って隣の国の法律を作り、その地で死んだ人。この国の民法の条文の裏には、そういう一生があります。

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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