「父は斬罪だが、子は獄門だ。お前こそは、本当に父に勝る子だ!」
安政六年(1859年)八月二十七日、評定所の白洲で斬罪を言い渡された父は、同じ場所で獄門を言い渡された息子をにっこりと顧みて、そう褒めました。水戸藩の京都留守居役、鵜飼吉左衛門(うかい きちざえもん)と、その子幸吉。朝廷から水戸藩への密勅を江戸へ運び、安政の大獄で父子ともに命を落とした人たちです。
斉昭と吉左衛門
鵜飼吉左衛門知信(とものぶ)は、字(あざな)を子熊と称し、拙斎と号しました。新左衛門真熙の第二子で、尾張国中島村に生まれましたが、同族の水戸藩士・鵜飼幸吉知益の養子となって、天保四年(1833年)に家督を継ぎ、小十人組に列しました。そしてまもなく京都の水戸藩邸留守居役手添となって、京都に移り住みます。このとき水戸烈公(斉昭)の二人の姉が左大臣鷹司政通、右大臣二条斉信の夫人となって輿入れしていたので、彼は両邸に出入りする身となり、奥向きの用務に仕えました。ついで馬廻役となり、留守居役に抜擢されます。
そのときちょうど、国元では一大騒動が持ち上がっていました。斉昭が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行して、軍備の必要上、釣鐘、半鐘、濡れ仏、そのほか鋳物の仏具に至るまで片っ端から没収して、大砲鋳造の用に供したのです。それが領内の寺院の反対と民心の激昂を買い、内に結城寅寿一派の陰謀などがあって、ついに甲辰(こうしん:弘化元年)の国難が起こり、斉昭は駒込の別邸に幽閉される身となりました。彼は早くから尊攘の志が厚く、幕府のためには一大敵国でした。そのため斉昭反対の火の手が江戸に起こり、しきりに悪評を放つ者があって、「水戸公は謀反の企てをしている」などと領内の軍備を誇大に宣伝しておとしいれ、斉昭に幽閉の命が下るとともに、その左右の藤田東湖、戸田忠敬、山辺兵庫らの尊王派の忠臣はことごとく斥けられてしまいました。
京都にあってこの報を得た吉左衛門は大いに驚き、請願書を参議橋本実麗(さねあきら)に呈し、朝廷の力を乞うて斉昭の冤罪を解き、幕府に復活させようとして公卿のあいだを奔走しました。すると江戸藩邸の結城一派は彼の策動を知って江戸へ召喚し、職を剥いで水戸へ下しました。嘉永六年(1853年)、結城らの陰謀派が失脚して藩政がふたたび斉昭派の手に回復するにしたがい、吉左衛門も旧職に復して京都に移ります。このとき斉昭は彼の尊王の志の深いことを知って、いろいろと内意を含めるところがありました。彼も早くから勤王の志に燃え、斉昭に心服するところが多かったのです。かつて彼は京都に在任中、楠公(なんこう:楠木正成)の遺跡をたずねて旧記遺聞の類を集め、これを斉昭に送ったこともありました。また山陵の荒廃を嘆いて平塚瓢斎(ひょうさい)とともに多年にわたってその所在を探索し、のちに瓢斎が『山陵考』と題して一冊の著書を公にしましたが、もちろんこれも斉昭に贈って参考に供しました。このように斉昭と吉左衛門の関係は古く、かつ彼が再度京都に在任するようになってからは、斉昭の手足となって公卿朝臣のあいだを往来して、京都と水戸の連絡にあたりました。嘉永年間に外国軍艦が摂津沖に渡来して京阪が騒いだとき、勤王派の志士が十津川(とつかわ)の郷士を糾合してこれを撃ち払おうとしましたが、この企てに参加して大いに画策につとめたのも吉左衛門でした。彼は平生から和歌をよくし、その歌はほとんど尊王の大義にちなんで詠んだものが多いのです。
ふかみどり栄えあるいろをそへてけり高根に千代をしめす松が根(松添栄色)
湊川名に立花の薫りにて枕もぬるる袖のあかつき(湊川楠公墓前にて)

密勅の降下
安政五年(1858年)、老中堀田正睦(まさよし)が上洛して日米条約の勅許を乞いましたが、朝廷の許可を得るには至りませんでした。そこで堀田は一策を弄し、関白九条尚忠を籠絡して、外交の処置は一切幕府に委任するように話を進めて、関白の内意を得ようとしました。吉左衛門はこれを知って大いに驚き、近衛、鷹司、三条らの公卿を説いて、
「ひとたび外交の措置を幕府に委せば、国威を失墜し、皇権の興隆する機会がなくなる。これは一大事である」
と建言して、条約の締結をあくまで阻止しました。だが、井伊大老は勅許を待たずに条約に調印し、事後一片の書面でこれを奏上したのです。
朝廷は大いにその越権を責められ、水戸斉昭父子、尾州慶勝、松平慶永らもさっそく大老に面接してその非違を糾弾しました。大老は違勅の行為を非難する三家を忌避して、これを罪に問うたのです。ここにおいて大老の暴挙を怒って、東西に尊王派が蹶起(けっき)しました。このあいだにあって吉左衛門は公卿堂上人のあいだを説き、あるいは宮家公家の臣の伊丹義人、小林民部権大輔、高橋兵部権大輔、西郷吉之助、日下部伊三次、橋本左内、梅田源次郎、頼三樹三郎らと往来して、尊攘の計画を大いに進めていました。彼ら尊王派の運動が効を奏して、八月には朝廷からついに、攘夷の勅諚(ちょくじょう:天皇の命令)が幕府と水戸の順公(慶篤)に降下したのです。すなわち、将軍を補佐して諸藩の兵を糾合し、攘夷の実行にあたることを慶篤に命じられたのでした。このとき万里小路(までのこうじ)大納言はとくに吉左衛門を召して、慶篤に伝達すべき勅諚および別勅を賜りました。もし幕府を経由して交付したら、幕府は必ず勅諚を握りつぶして慶篤に達しない恐れがあったからです。だが吉左衛門は病気中だったので、一子知明に命じて即日東上させました。
吉左衛門の子、知明は幸吉と称し、父に似て勤王の大義を奉じ、早くから勤王派の志士と往来して国事に奔走していた熱血児でした。彼は幼少のころから豪快な気性で、塾に通う途中、野犬などに吠えつかれると、近寄るのを待って脇差を抜いて一刀両断にするような粗暴な振る舞いが多く、父がそれを憂えて相国寺の僧大拙に預けて彼の教育を頼んだほどです。父が貶(おと)されて水戸に下ったとき、彼も父にしたがって帰国し、福地広延の門に入って神発流の砲術を学びました。まもなく父が旧職に復するとともに彼も小十人組に列し、京都留守居助役となります。ここにおいて彼ら父子は相携えて、京都を舞台に縦横に尊攘の活躍を続けたのでした。彼は幕吏の目をかすめるためには、加茂川に釣りをする風を装い、釣竿をかついで歩いたこともありました。また夜店商人に扮して、夜の街頭で勤王派の志士と連絡を取るようなこともありました。こういう際、彼は常に両刀を外して、無腰で平気でした。
彼は父の命を受けるや、ただちに密使となって東下しました。だがそのとき、彦根藩の客臣長野主膳(しゅぜん)が勅諚降下のことを漏れ聞いて、大老の一大事とばかりに藩中の壮士を集め、途中に知明を待ち伏せて密勅を奪おうとする風聞が立ちました。彼は旅人に扮装して東海道を行くと見せて、途中から不意に中山道へ入り、巧みに追っ手をまいてしまいました。こうして彼は無事に水戸藩邸に至り、慶篤に謁して勅諚を手渡すことに成功したのです。慶篤はただちに勅諚の趣を列藩に回達して攘夷の事を決しようとはかりましたが、井伊大老のために阻止されてしまいました。井伊はこの密勅事件を知るや大いに驚愕して、いわゆる安政の大弾圧を下すに至ったのです。

父は斬罪、子は獄門
安政五年九月十七日、老中間部下総守詮勝(まなべ あきかつ)は大老の内意を受けて西上し、大津に駐在したまま、ひそかに京都町奉行小笠原長門守を招いて、尊攘の志士を一網打尽に逮捕すべき密令を授けました。それより先、吉左衛門ら尊王の志士たちは、勅諚の趣旨が大老の手に握りつぶされたまま列藩へいっこうに回達されないので、朝廷を動かして幕府を督促させるべく奔走していました。しかし「朝命は容易に出るものではない。赤鬼(井伊)に一撃を加えるような者が出れば、時勢のしからしむるところで、綸旨(りんじ:天皇の意を受けて出す文書)あるいは下付されるに至るかもしれない」という答えを近衛の家臣から得たので、在京の志士は姦物を除く密議を練りました。吉左衛門が水戸藩の御側用人安島帯刀(あじま たてわき)という水戸尊王派の大立者に送った手紙は、このあいだの容易ならざる空気を伝えています。文中の「小輪」は小林、「赤鬼」は井伊、「林志」は綸旨、「カンボウ」は間部の隠語です。
「さて小輪云々のこと入説したるところ、いかにも六箇敷(むつかしく)、併(しかし)赤鬼の方へ一発切込み致すもの之有り候えば、直ちに林志の出ることは安きとの内諾も御座候。御勘考下さるべく度(たく)、云々」
また一通には、
「九月十六日夜、薩藩西郷吉之助参り物語は、弊藩の人数大阪表へ明日明後日のうち三百五十騎相備え、大砲(五百目)四挺引き付け置き、暴発に及び候わば早速立御手当出来仕り候。また土州も大阪まで人数差し登せ置き候はず、長州も兵庫まで人数百五十騎ばかり差し登せ置き候はずにつき、暴発仕り候えばカンボウ位は一時に沢山城(佐和山城:井伊家の居城)に押し掛け、一討ちに踏み潰し申すべく、云々」
とあって、一触即発の空気がみなぎっていたことが想像されます。だが、井伊大老のほうが一日早く機先を制したのです。十八日、吉左衛門に対して京都の町奉行所から召喚状が来ました。彼は病気だったので長男の知明が代わって出頭したところ、知明はそのまま奉行所に留置されたまま帰宅しませんでした。吉左衛門は必ず自分も召喚されることを知り、累を同盟の志士に及ぼすことを恐れて秘密の往復書類を焼き捨て、衣服を改め、後事を妻子に話して端座していると、はたして召喚状が来ました。彼は内心に決するところあり、ただちに伴われて奉行所へ出頭します。もちろん、そのまま留置されて、帰されるはずがありませんでした。これよりしだいに逮捕の手が伸びて、小林、頼、梅田ら勤王の志士が二十余名、一網打尽にされたのです。
同じ年の十二月、吉左衛門父子は江戸へ護送されました。吉左衛門を逮捕した理由は、彼が斉昭の内命を受けて一橋刑部卿を将軍の継嗣に立てようとして策謀したこと、および密勅降下に奔走したことなどでした。これではあまりに斉昭を誣(し)いること(事実を曲げて悪く言うこと)はなはだしいといって、ひたすら弁明につとめましたが、取り上げられません。彼は最初、捕らえられまいと思えば逃げ延びる隙があったのですが、それでは斉昭に疑いのかかることを恐れて、進んで縛につきました。だが彼の弁解は聞かれませんでした。それのみが彼の心がかりだったのです。安政六年(1859年)八月二十七日、評定所において斬罪の宣告を受け、処刑されるに臨んで、
「今自分は死んでも心にかかることはないが、ただ斉昭公の安危が心配である」
と言いました。係の役人が「君侯にはつつがなくご健在である」旨を答えると、彼は従容として死につきました。年六十二歳でした。同じ日、同じ評定所の白洲で、彼の長男知明も斬首梟首(きょうしゅ:さらし首)の宣告を受けました。そのとき父がにっこりと息子を顧みて、
「父は斬罪だが、子は獄門だ。お前こそは、本当に父に勝る子だ!」
と褒めました。知明は伝馬町の獄舎において処刑され、首は小塚原にさらされました。明治維新には幾多の尊い犠牲者がありますが、彼らのように父子相携えて大義のために殉じているのはまれであり、その純真と悲壮とは、今なお私たちの胸を打つものがあります。
逃げられるのに逃げず、主君に疑いがかからぬようにと縛につき、死ぬ間際まで主君の安否だけを気にかけた父。釣竿を担いで幕吏の目をくぐり、追っ手をまいて密勅を届けた子。首を並べる日に「父に勝る子だ」と笑った親子の話は、維新の八年前のことです。


