「罪は許す」
軍法を破って敵の首を取ってきた家臣を、大将は厳しく責めました。打ちしおれた家臣が小声でつぶやいた一首の歌を聞きとがめ、いよいよ怒った大将は、しかしその歌を二、三度口のなかで繰り返すうちに、見る見る怒気を消しました。「今、とっさの間に家隆の歌を思い出した心がけは見上げたものである」。桶狭間で敗れたことばかりが語られる今川義元(いまがわ よしもと)の、もう一つの顔です。
その歴史的位置
応仁の兵火から発した中央権力の衰えと、それに伴って各地に勃興した群雄の争覇の時代、すなわちわが歴史にいう戦国時代は、新たな伝統が出発したことを意味しました。実力のあるものだけが社会に現れました。虚名や家格は通用しません。こういう時代には、布衣(ほい:無位無官の身)にして天下を睥睨(へいげい)することも可能です。すなわち、一見ささいな一事件としか見えないものが大勢を左右します。桶狭間(おけはざま)の戦いの大きな意義も、そこにありました。
見ようによっては、この戦いは地方的な豪族の争いにすぎませんでした。そして当事者であった織田信長にしろ、またその敵手の今川義元にしろ、事態のこのような重大さを自覚していたかどうかはうかがい知ることができません。それゆえ、もしもあのとき、この戦いの結果が反対になっていたならば、今川義元と織田信長とはそのどちらが覇者であったかということについて、新たな興味を呼び起こすものがあるわけです。今川義元は敗れました。そして織田信長に、天下に呼びかけるきっかけを与えたのです。当時、全国各地に多くの英雄が割拠(かっきょ)しており、彼らはそれぞれ自己勢力の拡大に余念がありませんでした。争乱のない日はなかったといっても過言ではありません。いわゆるそうした戦国時代にあって、桶狭間の一戦が天下を震撼(しんかん)させたという事実から、今川義元の偉大さを想見する可能性が生まれてくるのではないでしょうか。今日から見て、「もしもあの戦いにおいて今川義元を勝たせたならば」という仮定が、人をひきつけるのです。

武を知り文を知る
戦乱の時代に武芸に長じるのは世の常道です。しかし人間の社会は、武事一辺倒をもって全体の理解に達することはできません。文事は武事の裏打ちであり、将たるものの人間的深さをつくるものです。争乱に暇のない時代にこれに思いをいたすことは、その心がけだけでさえ十分尊敬に値することでしょう。今川義元はその顕著な例でした。
ある戦いに際して、義元は家臣の一人を斥候(せっこう:敵の様子をさぐる偵察役)に命じました。その家臣は馬を進めて偵察につきましたが、前線に出てみるとすでに戦いの火蓋は切って落とされていました。斥候は偵察が任務ですが、戦闘のなかに入ってしまったからには、そのまま引き返すことはできません。いや、戦わなかったならば自分もまた破滅に瀕するでしょう。やむなく彼は戦列のなかに入り、槍を振るって戦ったのです。戦えば勝たなければなりません。奮戦よく努めたその家臣は、首尾よく敵軍の首級を携えて大将義元のもとに帰ってきました。しかしこの家臣を見たとき、義元は家臣を責めて言いました。
「敵勢をうかがい、速やかに帰ってくるべきがお前の与えられた使命ではないか。なぜにその任務を忠実に守らなかったか。思うにお前は自分の任務を忘れて、ただ自分だけの功名にのみ心を奪われていたのであろう。軍は全体として完全に統一された意志のもとに行動するのである。戦いに臨んでは自分勝手な行動は許されない。百の首級を討ち得たとしても、自己本来の任務を忘却したならば、それは何らの功労にもならぬものなのだ。見受けるところ、お前には忠節を尽くそうとする意志はないらしい。いたずらに軍法を乱したのであるから、当然処罰されねばならぬ」
このように懇々と説いて聞かせる義元の言葉に、くだんの家臣は打ちしおれてしまいました。言々みな条理を尽くしているので、返すべき言葉もありません。しかし何とも残念に思った家臣は、そばにいた人に小さな声でつぶやきました。
刈萱の身にしむ色はなけれども見て捨て難きは露のした折れ
これを見ていた義元はいよいよ憤慨しました。家臣としての態度が不遜であり、主君の訓戒に承服しないように見えたのです。そこで義元は聞きとがめました。
「何を言うたか」
問われた侍は、おそるおそる、くだんの家臣が口ずさんだ藤原家隆(ふじわらの いえたか)の歌を伝えました。義元はこの歌を二、三度口のなかで繰り返していました。すると見る見る彼の怒気は消えたのです。
「罪は許す」
と彼は言いました。
「お前の行動が軍規に背いたことは事実であるが、今、とっさの間に家隆の歌を思い出した心がけは見上げたものである。武士はそのように、あらゆる場合に沈着剛毅(ちんちゃくごうき:落ち着いて意志が強いこと)でなければ駄目だ」
この逸話の尊さは、戦国争乱の時代を背景にしてはじめて意義を高めるものです。自己の領土の拡張と武事に明け暮れ、下克上の思想が広がっていた当時を思えば、今川義元は確かに優れた人物でした。家臣を遇すること厳にして寛、よくその条理を明らかにしたことは、当代にその例を多く見ることのできないところです。義元は常にその子氏真(うじざね)を戒めていました。
「汝は成年に達しながらいまだ童心が去らず、鶏を闘わせたり、犬を走らせたりしている。武士の本領たる文武を今日において十分身につけなかったならば、必ず滅亡するであろう」
彼は自らその範を垂れ、したがって彼の家臣もこれに心服していました。賢臣が多く、勢威が中部地方に盛んであったこともゆえなきことではありません。天文二十三年(1554年)には駿河、遠江(とおとうみ)、三河の三国を従え、この力をもって中原(ちゅうげん:天下)に乗り出そうとしたのです。はるか京都に向かい、一挙に上洛を決行しようとする情勢にありました。そこで時の将軍足利義輝に謁し、幕府を擁して天下に号令しようと思い、大兵を集めてその第一歩において相対峙したのが、織田信長の軍勢でした。

その年賦
今川義元(1519〜1560年)は駿河の人で、父氏親(うじちか)の三男です。はじめ出家して僧となっていましたが、兄氏輝(うじてる)に子どもがなかったので、そのあとを継ぐために還俗して義元と名乗り、従四位下に叙せられ、治部大輔に任じられて駿河守を兼ねました。
まず天文十一年(1542年)には隣国尾張を攻めて、織田信秀と戦いました。ついで同じく二十二年には三河に攻め入りましたが、あたかもそのとき、相模にいた北条氏康は義元の留守に乗じて攻め寄せてきました。そこで義元は彼の姻戚にあたる武田信玄を動かしてこれを防がせたのです。しかしこのように相争っていては、おたがいが自己の勢力を養うことができないのを悟り、義元、信玄、氏康の三将は相会同して同盟を締結しました。これによって義元は東方における脅威から脱却することができたのです。目指している征服の道は西方京都に通じています。この方面に道を開くためには後方に憂いを残してはなりません。これが義元の政治的折衝となったのでした。折衝は大体成功でした。武田信玄、北条氏康、今川義元は攻守のために同盟を結び、したがって自己の勢力をこれら二方面の防備のために分割する必要はなくなりました。今川義元の勢威が隆々として東海に覇を唱えたのは、この時期です。彼の計画は図に当たり、野心の勃々たることは思い見るに十分でした。
天文二十三年には、駿・遠・参の三か国にまたがる大兵を擁し、しきりに付近の勢力を糾合して、おもむろに上洛の時期をうかがっていました。そして彼の前進にあたってもっとも大きな障害となっていたのが、尾張の織田信長です。信長もまた義元を恐れざるをえませんでした。義元の機先を制して上洛しなければならないのですが、それを敢行すれば自己の根拠たる尾張を累卵(るいらん:積み重ねた卵のように崩れやすいこと)の危うきにさらさなければなりません。ともに天下を目指して相接する両雄は、一度はその雌雄を実力にかけて相争わなければならない運命にありました。幾多の政治的交渉が行われましたが、目指す目的は同じところにある二人ですから、おたがいの利害は事ごとに相反したのでしょう。弘治三年(1557年)にはついにこの交渉は破れました。今川義元は彼のもっとも信頼していた賢臣を、織田氏の策謀によって殺さなければならない羽目におちいったのです。
永禄三年(1560年)五月、今川義元は運命を賭して、織田信長に対し、大軍を率いて尾張に入ったのです。

桶狭間の戦
戦いは時の運です。幸いにして勝利しえた織田勢から見れば、敗れた今川勢はもろかったように語り伝えられているのですが、事実はその反対であったかもしれません。なぜなら織田勢のねらったところは、ただただ奇襲の方略でした。正面からの堂々たる戦略を取りえなかったところに、双方が持っていた実勢力の比は明白なのです。風雨に乗じて突入してきた織田勢に向かい、今川方は打ち破られました。天下に号令しようとした義元の野心は、そのときついえてしまったのです。
しかし大将が討たれたならば家臣は離散し、あるいはそのなかの狡猾(こうかつ)なものに至っては主君の領土を簒奪(さんだつ:うばい取ること)するのが戦国の習慣でした。けれどもここに特記すべきは、義元が死して家臣もともに亡び、義に殉じたことです。大将が討たれたと聞いた今川勢の先鋒は急いで引き返してきて織田勢と戦い、その多くが主君のあとを追って討ち死にしました。このことは、義元という人物の偉大さを実証するものです。これこそ、桶狭間において今川義元に勝たせたならば、という回想を人に持たせる根拠であり、書き換えられたであろう歴史を思わせる、桶狭間の一戦なのです。
一首の歌で怒りを収めた大将は、その日の雨のなかで首を取られました。けれども、大将が討たれたと聞いて引き返し、ともに死んだ家臣たちがいた。負けた側に残ったその事実が、この人がどういう主君だったかを、何よりも雄弁に語っています。


