「煙草に火をつけろ」
こめかみと頬から血を流し、卓に両肘をついたまま、老いた総理大臣はそう言いました。そしてまた言いました。「今の若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせてやる」。昭和七年(1932年)五月十五日、犬養毅(いぬかい つよし)、七十八歳。撃たれたあとまで、相手を説こうとした人です。
五月十五日
昭和七年五月十五日、総理大臣官邸の青い甍(いらか)の上には、静かな夕陽がさんさんと降り注いでいました。若葉の季節にふさわしい和やかな日の、まだ日暮れには間のある時刻です。内閣総理大臣・木堂(ぼくどう)犬養毅は、ちょうど晩食の時刻なので、うちくつろいだ気持ちで食堂の前の廊下にいました。そばには彼の息子の妻とその子どもとがかしずいて、料理の運ばれてくるのを静かに待っていました。と、このとき突然、彼らは官邸の玄関のほうにあたって、何かただならぬ音響を耳にしたのです。五時二十五分ごろでした。
この数分前、総理大臣官邸の正面玄関に、海軍将校の正服を着けた三名の男が自動車を乗りつけて、総理大臣に面会を求めました。受付の巡査が彼らに名刺を求めます。と、突如巡査の胸元に突きつけられたのは、名刺ではなく一挺の拳銃でした。同時に一人の右手が振りかざされ、轟然一発、銃声が天井に響きます。来訪者は巡査の阻止に銃声を浴びせかけながら、そのまま曲がり角の多い廊下を奥に向かって闖入(ちんにゅう)していきました。闖入者はそのとき九名になっていました。木堂が嫁と孫とにかしずかれながら耳にした物音は、これだったのです。
一人の巡査が駆けつけてきて、「総理、大変です、暴漢が闖入しました、早くお逃げなさい!」と叫びました。が、木堂は平然として答えます。
「いや、逃げない。そいつたちに会おう。会って話せば分かる」
たちまちそこへ闖入者が近づいてきました。木堂と彼らは食堂で立ったまま顔を合わせます。と、いきなり闖入者の一人が木堂に向かって拳銃の引き金を引きました。弾丸は不発でした。これを見た木堂は、右手を上げてゆっくりと上下に動かしながら、
「まあ待て。撃つのはいつでもできる。あっちに行って話を聞こう」
と言いました。そして無造作に、十二畳の日本室の客間へ彼らを案内していったのです。彼はふだん細かいことに気を配る性質で、党員や知人の家族の者などが患いでもすると人一倍気に病む男でしたが、このときも狭い食堂のことであり、女子どもにけがでもあってはと、まずそのことを憂慮したのでしょう。闖入者は護衛の巡査にふたたび拳銃を突きつけ、「話をするのだからついて来てはいかん」と言いました。このあいだに木堂は客間に入り、闖入者たちがどやどやとあとに続きます。次の刹那、「撃て!」という号令が室内に聞こえ、同時に轟然たる銃声が室内に響き渡りました。そして闖入者の一隊が駆け足でその場を去っていったのです。
木堂はそれを見送ると、卓に両肘をついたまま身動きもしませんでした。彼のこめかみと頬から、おびただしい血潮が流れ、しずくになって落ちると、卓を真っ赤に染めました。狼狽(ろうばい)して転げこんできた老女中に向かって、彼は言いました。
「煙草に火をつけろ」
そしてまた言いました。
「今の若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせてやる」
血潮にまみれながら、彼は一言の苦痛も訴えず、しかもなお静かに、自分を狙撃した相手を説こうとするのでした。

苦闘の足跡
木堂犬養毅は、安政二年(1855年)四月、岡山の漢学者・源左衛門の二男に生まれました。父が漢学者であった関係から六歳ごろから漢学の素読をはじめ、十四歳になって父を失うと、経済的な事情もあって、まもなく私塾を開きました。上京して湯島の共慣義塾に入ったのは、明治八年(1875年)、二十一歳の春です。同時に藤田茂吉の知遇を得て、その翌年には慶應義塾に転じました。
彼の負けぬ気性はすでに子どものときから現れていて、寺子屋風の塾に通う途中、いつも村の子ども相手に喧嘩をしたものですが、慶應に入ってからの彼にこういう逸話があります。塾生は彼の小柄な体を侮って、よく喧嘩を吹っかけました。しかし彼は、決心のない喧嘩はするものでないと言って応じません。だが相手がますます侮って、決心とは何か、と詰め寄ってきたとき、彼はいきなり机上のナイフを取って相手の掌にずぶりと突き刺し、「決心とはこれだ!」とうそぶいたといいます。
彼は苦学生でした。明治十年(1877年)、『郵便報知新聞』の通信員として西南の役に従軍したのも学資を得るためでしたし、戦地から帰還してからも、彼は新聞に論説を書いてその稿料を学資に当てました。しかしそうして刻苦のなかに常に首席を通し続けていた学業も、彼は卒業間際になってついに捨ててしまいました。卒業前の第二試験で、矢田績(やだ せき)という友人に一点負けたのが癪(しゃく)にさわってのことです。負けることの嫌いな彼にとっては無理からぬことだったでしょう。実際、彼は生涯を通じて負け嫌いでした。それだけに彼の生涯の歴史はまた、血みどろの苦闘で始終していたのです。個人としては貧苦と戦い、公人としては権勢と戦い、常に好んで逆境に処し、なお得意然としていたところなど、政界の特異な存在でした。
特異な存在として繁忙な政治生活に終始していながら、彼はまた一面において非常に趣味の広い男でした。刀剣の鑑定をよくし、書道に秀で、筆墨に対する知識も一家をなしていたほどです。彼はあまりにも聡明であったがために、政戦幾十年、政界に独自の地位を維持し、辛辣(しんらつ)であったがために、また多く逆境にも立たなければなりませんでした。

話せば分る人
木堂は非常に闘争心の強い男で、永年藩閥官僚とも闘い、反対党とも闘い、また党内の同志とさえ闘いましたが、その結果から見れば決して勝ち星を占めてはいませんでした。しかし決して負けてもいませんでした。受け身に立って断じて負けない達人で、一騎討ちでは名人の域に達していたとも言えるでしょう。そしてこの闘争心のために、彼はまた種々の誤解をも招いたでしょう。国民党の解党、革新倶楽部の組織、政友・憲政・革新の三派協調、政革合同などは、みないずれも彼がおのれを空しくして大義につく至誠の発露であったと言えます。
大正の初め、桂公が加藤高明、後藤新平、大浦兼武らとともに政党組織を発表したとき、木堂はいわゆる護憲運動の頭領として、多年の同志であった大石正巳、河野広中、武富時敏、箕浦勝人、島田三郎らの諸領袖と訣別して国民党の孤塁(こるい:孤立した砦)を死守し、血戦抗争したのでした。その彼が十年後には国民党を解消したり、政友会や憲政会と協調提携したり、また田中義一のもとに政友会と合同したりなどしたことは、たしかに世人の意表外に出た行動であったかもしれません。しかしこれらの前後相容れないような進退行動のあいだには、彼の思想識見のいちじるしい進展と、天賦の資性の美質とを認めるべきであって、いたずらに彼を非難することは的外れでしょう。
そしてまた、こういう一面を見てもうかがうことができます。木堂が総裁になったとき、政友会のある領袖が、ある人にこう言いました。
「大変なものを総裁にしてしまった。困ったものだ」
どうしてかというと、「政党というものはどうかすれば政権を奪って利権にもありつこうとするものだ。それが田中だと何でもやりそうじゃ、よかろうという。噓でもそう言われると悪い気がしまい。大いに総裁を鞭撻(べんたつ)するつもりかなんかで得意にもなれるのだが、犬養となるとそうはいかない。鞭撻どころかこちらが指導されてしまう。それで金はびた一文もなし、利権といえば口利くのも嫌いときている。これではまったく党員の浮かぶ瀬がない」と。
また政民連立、協力内閣が一部で唱えられていたころ、民政党のある人が木堂に、「安達も偉くなりましたな、何かやりだしますよ」と言いました。暗に木堂の気を引いてみるつもりだったらしい。すると木堂は、「ふん、偉いことができるか。また閔妃(びんひ)殺しでもするか」と言いました。その人も二の句が出なかったといいます。
とにかく木堂は私利私欲を持たない、この世界にまれな、ただがむしゃらに理想と信念に生きた人でした。そして彼の最大の功績は、なんといっても、民主的な憲政の確立と擁護のために戦い抜いてきたことです。

血に飾られた最期
犬養毅の閲歴を顧みると、彼は明治二十三年(1890年)に衆議院議員となり、以来毎回当選しました。明治三十一年(1898年)には憲政党内閣で文部大臣に親任され、のち明治四十三年(1910年)の立憲国民党の創立に参画して、その領袖に挙げられました。大正二年(1913年)には桂内閣に反対して憲政擁護を叫び、同十一年、国民党を解散して革新倶楽部を組織し、同十二年、第二次山本内閣で逓信大臣に親任され、同じ年の十二月に辞任。同十三年、加藤高明内閣にはまた逓信大臣となり、十四年には辞して、同時に衆議院からも身を引きました。が、ふたたび議員となり、革新倶楽部を率いて政友会に入り、同会の顧問となり、昭和四年(1929年)十月、同会の総裁となりました。そして昭和六年(1931年)、ついに内閣総理大臣となったのです。
彼の生涯が波乱をきわめてきたように、世相もまたこのころには波乱の極にありました。農村は窮乏の極に達し、都市には失業者が氾濫し、世相はますます険悪な雲行きをはらんでゆきます。この険悪な世相を、木堂はあの凶変がなかったならばいかに処していったでしょうか。政客の誰しもが一度は考えたことでしょう。だが時代の激しい流れは、彼の「話せば分る」という人格に対して残酷でした。農本主義の指導理論を奉じる青年将校らの狙撃に遭って、木堂は文字どおり歴史の一ページを血に染めて、その多難な生涯を終えました。七十八歳でした。
一点負けたのが悔しくて卒業を捨てた負けず嫌いが、五十年の政争で勝ち星を取れず、それでも負けませんでした。最後に銃口を向けた相手にさえ、話せば分かると言い続けた人。その言葉が通じなかった日から、日本の議会政治は長い冬に入ります。


