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伊東祐亨の生涯|黄海海戦で連合艦隊を勝利に導いた日本海軍の父

伊東祐亨の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「おう、どなたじゃな」

日露戦争のさなか、ある代議士が威儀を正して元帥の邸を訪ね、裾をからげて前庭を掃除している老人に案内を乞いました。振り返った静かな老人の顔を見て、代議士は思わず声を上げます。「はっ、これは閣下!」。召使いと見たその老人こそ、軍令部長として日露海戦の枢機(すうき:重要なかなめ)を握る伊東祐亨(いとう すけゆき)でした。

 

清国北洋艦隊全滅

「敵艦現る」

先鋒の旗艦・吉野の檣頭(しょうとう:マストの先)高く掲げられた信号。ときに明治二十七年(1894年)九月十七日午前十時十分です。豊島(ほうとう)沖の一戦と威海衛(いかいえい)の一撃があって以来三十余日、むらむらと湧く雄心を抑えつつ敵を探索して大孤山(たいこざん)のほうへ回ってきたわが連合艦隊は、はからずもここに敵艦隊に出会い、黄海大海戦の幕を切って落としました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は黄海海戦の日付を「明治二十六年九月十七日」としていますが、明治二十七年(1894年)九月十七日のことです。

 

第一遊撃隊の旗艦・吉野には坪井少将が司令官として乗り、吉野、高千穂、秋津洲を率いて最先鋒となり、本隊の旗艦・松島には伊東祐亨司令長官が座乗して、千代田、橋立、比叡、扶桑、厳島を一隊とし、小砲艦赤城と武装御用船西京丸とを従えていました。戦闘ラッパは洋々たる大海上に鳴り渡ります。各艦の艦橋上には艦長ならびに副長が上り、各兵員はことごとくその持ち場に立ち、一糸乱れず、号令一下を待っていました。艦隊は全速力で敵艦に迫ってゆきます。望み見れば、中央に定遠(ていえん)、鎮遠(ちんえん)、左翼には経遠、致遠、広甲、済遠、右翼には来遠、靖遠、超勇、揚威、合わせて十隻が梯陣(ていじん:斜めに並んだ陣形)をなして進み来り、後ろより続くものは平遠、広丙など五隻に水雷艇六隻。北洋艦隊の精鋭でした。

両軍の距離は六千メートルに迫ります。一団の白雲が敵艦定遠から吐かれ、まず三十センチの巨弾を送ってきました。が、わが艦隊は悠々として四千五百、四千と近づき、やがて「撃ち方始め」のラッパとともに、満艦轟然(ごうぜん)と震動し、巨弾は風をついて一時に叫びました。本隊は第一遊撃隊の後方に続き、各艦一斉に敵を撃ちます。戦いは刻々に激烈を加え、砲声は天を揺るがし、硝煙は大海上をおおいました。わが忠勇な将士は協力一致してよく戦い、ことに連合艦隊司令長官・伊東中将は常に正確に作戦し、神色自若(しんしょくじじゃく:落ち着いて顔色も変えない)、沈勇果断をもって全軍の士気を鼓舞し、ついにこの乾坤一擲(けんこんいってき:運命をかけた一戦)の大海戦に大勝を得るに至ったのです。

ついで旅順口を占領し、威海衛を攻撃して、完全に清国海軍を全滅させた伊東司令長官は、日本国内はもちろん諸外国人のあいだでも、海軍武将中の鬼神と讃仰(さんぎょう)されるところとなりました。まことに元帥・議定官・海軍大将・従一位勲一等功一級・伯爵伊東祐亨は、西郷従道と樺山資紀の建設した日本の新海軍をはじめて活用して偉勲を立てた、海軍の代表的な偉傑でした。

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海へ

鹿児島城下の武家屋敷、清水町に、伊東祐典(すけのり)を父として、天保十四年(1843年)五月十二日に産声を上げた祐亨は、論語の素読を学び、経書を修め、相撲、槍、撃剣などの稽古に励み、兄弟にまじって米をつき、庭を掃き、あるいは竿と魚籠(びく)とをさげて士族屋敷のそばを流れる稲荷川へ釣りに出かけたりしながら、十四、五歳のころには早くも海への志を抱いていました。

ときしも文久三年(1863年)、かの生麦事件(薩摩藩の士が文久二年八月二十一日、武州生麦村でイギリス人を斬った事件)の後始末をつけようとして、イギリス艦七隻が鹿児島湾頭に姿を現し、下手人の処刑と償金とを要求しました。

 

※ イギリス艦隊が鹿児島湾に来たのは文久三年六月二十七日(西暦1863年8月11日)です。底本は「二月十九日」としています。

 

当時、青春の血気が満身にあふれていた祐亨は、かの西瓜(すいか)船討ち入り策の一員として、大山巌、西郷従道ら数十名とともに数艘の小舟に乗り、西瓜売りに身をやつして懐に白刃をのんで、イギリス艦への斬りこみを決行しようとしました。この奇策の失敗は、彼に欧式の艦船と兵器の精鋭さに目を向けさせ、それらの艦船の操縦、武器の用法を習得することの急務を悟らせました。新しい事実に打たれて迷いの霧の開けた大山、黒田らとともに江戸留学のかなわなかった祐亨は、藩の英学校に入って勉学に努め、ついで神戸の勝海舟の塾に入って、専心航海術を学びました。その塾長は坂本龍馬です。が、この塾は、いたずらに過激な徒をあおるというかどで幕府の忌諱(きい)にふれ、海舟の東帰とともに瓦解(がかい)の運命に遭ったのでした。

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剣光花に落つ

六甲の連峰に黒々と抱かれた神戸の街は、前面を洗う瀬戸の海の波も静かに、空に照るおぼろ月の光に包まれながら、夢こまやかに眠っていました。ここはこの街の花街、とある妓楼の奥まった一間、活気あふれる一座はまさに宴たけなわです。

「おい、権八!」

呼ばれた眉目秀麗の若武者は伊東祐亨でした。膝によりかかった色白くあでやかな目元の芸妓の手を、しなやかに払いのけるまねをします。

「何だ」

「あんまり見せつけるなよ」

「あらまあ、いやな方、たまの逢瀬をそう嫉(ねた)まないでさ」

芸妓はちらりとあでやかな流し目を投げて伊東に寄り添い、笑ってそっと彼の口元を友禅の長襦袢(ながじゅばん)の袖でぬぐってやります。酒と歌と剣舞。維新の風雲をのもうとする志士たちの覇気満ちた酒宴に、夜も豊かに更けようとしていました。と、突如、漆黒の闇を切り裂いて閃(ひらめ)く朱房の十手。

「御用、御用だ!」

「なにを、小癪(こしゃく)な、徳川の犬どもめ!」

大喝一声、同志とともに水も滴る長刀の鞘を払いざま、雨戸を蹴破って庭に飛び出した伊東祐亨は、腕の限り渡り合い、たちまち一方に血路を開いてその場をのがれ、その足で一気に江戸に飛びました。

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大成

灯台もと暗い江戸に出たのちの彼は、広く天下の志士と交わりを結んで尊王攘夷の熱気を吐き、勉励して江川塾に砲術を修業しました。慶応三年(1867年)十二月、幕府の海軍力と薩摩藩のそれとが衝突した品川の海戦において、薩摩艦・胡蝶丸の砲門を開いた砲手は、彼、伊東祐亨でした。その後、彼は薩摩藩の春日丸に乗りこんで北海に転戦し、五稜郭陥落の際にも功を立てています。

明治二年(1869年)に一等士官を仰せつけられた彼は、四年、兵部省の辞令によって大尉に昇進し、九年には日進艦長として朝鮮に至り、十年の役には中佐をもって西海付近に出征、十三年には比叡艦長としてペルシャに航海し、十五年、龍驤(りゅうじょう)艦長として候補生三百名を率いて遠洋航海に出で、十八年にはイギリスに渡って建造を委嘱していた浪速、高千穂の二艦を受領し、日本人としてはじめて、西欧の果てから極東へ支障なく軍艦を回航してきました。こうして累進して明治二十五年(1892年)に海軍中将に進み、日清戦争には連合艦隊司令長官として出征し、功により子爵を授けられ、さらに三十一年には大将となり、ついで元帥府に列せられたのです。

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功成り名遂ぐ

元帥伊東祐亨は、各般の事象に対して周到綿密な注意を怠りませんでした。何事でも取って学ぶべきことがあるならば、ためらうことなくこれを受け容れて活用しました。洒脱(しゃだつ)であって真摯(しんし)、部下を愛し、よく秩序を重んじました。また自分のことは自分でやる主義の人で、身の回りのことは決して他人の手をわずらわすことなく、衣類調度品なども自分でちゃんと整頓して、夫人にすら手をかけさせませんでした。

面白いことに、彼と乃木将軍とは実によく意気投合していました。ある年の偕行社(かいこうしゃ:陸軍将校の親睦団体)で催された星桜会の席上で、風邪をいかにして退治すべきかについて大議論が出たことがあります。

「私は風邪にかかると熱い風呂に入って頭をタオルで巻く。そして熱燗(あつかん)をその湯の中であおる。すると翌日はけろりと癒(なお)るから妙だ」

と元帥が言いました。すると将軍は、

「わしは、タオルを使わないが、冷酒を飲んでから熱い湯に入ってすぐ寝る式じゃ」

と言い、二人で顔を見合わせてからから笑いました。それから元帥を熱燗、将軍を冷酒という呼び方ができたのです。

日露戦争が勃発するや、元帥は軍令部長として老躯を提げて君国のために尽くしました。戦役中、日夜部長室に引きこもって神のような策をめぐらした颯爽(さっそう)たる意気は、わが若い将兵を奮い立たせたこと、まことに偉大なものがあります。しかも、この戦役中のある日、威儀堂々として元帥を訪問したある代議士が、裾をからげて前庭を掃除している一老人に案内を乞いました。

「おう、どなたじゃな」

と振り返った静かな老人の顔。

「はっ、これは閣下!」

召使いと見たこの老人こそ、今まさに軍令部長として日露海戦の枢機を握る伊東元帥でした。しかもこのように悠々たるなかにも、寸時も国事を忘れる暇のない元帥でした。まことに、日本の新海軍の発達完成のために尽くした人傑には、勝海舟があり、榎本武揚があり、川村純義があり、また陸軍から転じて来て日本の新海軍を統一し、刷新し、実戦に適させるための種々の施策を実行した西郷従道、樺山資紀らの人々もありました。しかし素養も研究も専門的な、生え抜きの代表的な海軍軍人を求めれば、まさに伊東祐亨元帥でしょう。彼は日本海軍をよく大成し、日清の役に勝ち、日露戦争に力をいたし、真に功成り名遂げて、大正三年(1914年)一月十六日、七十三歳で薨(こう)じました。

 

※ 底本は「七十三歳」としていますが、天保十四年生まれ・大正三年没で、数え年では七十二歳にあたります。

 

西瓜売りに化けて軍艦に斬りこもうとした若者は、その軍艦の強さに目を開き、やがて自分の手で艦隊を率いて海の戦いに勝ちました。元帥になっても庭を自分で掃き、客に召使いと間違えられた人。日本の海軍を育てたのは、そういう人でした。

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