「今日はようござんすよ」
初日から五日目の朝、ようやくその一言を聞いた役者は、のちに「あんなうれしいことは、生涯に二度とあるまい」と人に語りました。四日間、客の人気がどれほど高まっても「まだいけない」と首を振り続けたのは、作者の河竹新七(かわたけ しんしち:のちの黙阿弥)。役者の名は、市川左団次(いちかわ さだんじ)。江戸で「大根」と呼ばれた男です。
大根役者
元治元年(1864年)、二十三歳の市川小米(こよね)は、師匠であり座頭(ざがしら)である四代目市川小団次(こだんじ)の養子となって左団次と改名し、大坂から江戸の中村座に迎えられました。けれども、せっかく中村座の奥役(おくやく:劇場の経営にあたる役)に見込まれて江戸に来たのに、見物は彼の男ぶりの立派さに喝采するだけで、上方なまりがひどく芸が未熟なのには「大根」呼ばわりをするのでした。しかも翌々年の慶応二年(1866年)、一座が守田座に移って興行中に、養父の小団次が病に倒れ、五月八日についに亡くなります。急に保護者を失った左団次は、それきり劇場を休まざるをえませんでした。
気性の勝った養母は、舞台へ出れば「大根、大根」と言われる養子のふがいなさにすっかり愛想をつかし、芝居関係の人に会わせる顔もないというので、柳島(やなぎしま)の植木屋の奥を借りて、左団次を連れて引きこもってしまいました。そして、もうどんなことがあっても東京の舞台を二度と踏んではなりませぬ、お前は離縁して大坂へ帰します、と左団次に言うのでした。
ある日訪ねてきたのは、小団次の存命中に親しく交わっていた河竹新七です。左団次離縁のうわさを伝え聞いてひどく心を痛め、養母を説得に来たのでした。
「まあ、私に三年のあいだお預けください。きっと役者にしてみせます」
河竹は、無理にも養母を納得させずにはおきませんでした。左団次を預かった河竹は考えました。彼はこれまで容姿の美しいところから主に二枚目ばかり演じて、しかも失敗続きだった。今後は敵役(かたきやく)に転じさせたらどうだろう、と。そして市村座の正月興行『傾城草履打』に牛島主税(うしじま ちから)を演らせたのです。慶応三年(1867年)、二十六歳のときでした。
けれども河竹の深い考えにもかかわらず、左団次の芸は依然として上達が見えません。年号が明治と改まった年の八月、『葛の葉』で彼にふられた与勘平の役から一座のなかで悶着が起きました。興行主の河原崎権之助が彼の不評にたまりかねて、五代目菊五郎に替えたいと言い出したのです。あくまでも左団次をかばう河竹は、自分の作品であるだけに、がんとして承知しません。とうとう左団次を連れて市村座を退き、守田座の座主・勘弥(かんや)に交渉して、翌明治二年(1869年)正月から守田座へ出勤するようになったのです。
これほどまでに自分のために尽くしてくれる河竹の恩義を思えば、自分の芸道の精進はまだまだいい加減なものだと、左団次は強く発奮しました。朝食に粥(かゆ)をすするだけで、劇場ではいっさい食を断ち、終演後は男衆とともに柳島まで歩いて帰り、夜食をすませると妙見さまへはだし参りをして、芸の上達のために心身をきたえました。それでもまだだめでした。三月の『敷島物語』で源四郎をつとめて、上方なまりが抜けきらないところから、敷島役の田之助とお爪役の仲蔵からは小言を食う。家に帰ると、養父の名を辱めるものだと叱られて、一言も答えることができないのでした。けれども、やがてその努力の効き目はしだいに現れてきました。『湖水渡り』の宅間玄蕃、『弁天小僧』の南郷力丸などは、これまでにない好評を得ることができたのです。

名優の人格
河竹が左団次を引き取ってから、ちょうど三年たっていました。河竹は、今こそ油の乗りかかった左団次を大きく飛躍させる絶好の機会だと思いました。そして書き下ろしたのが、明治三年(1870年)三月の『慶安太平記(けいあんたいへいき)』です。一座の訥升(とっしょう)には金井の浪宅、芝翫(しかん)には有馬の温泉と、それぞれの持ち場を書きましたが、左団次の鞠ヶ瀬秋夜(まりがせ あきや)が四幕目の江戸城の堀端で水の深さを測る場面が、なんといっても全編の中心でした。訥升や仲蔵から役の苦情が出ましたが、河竹は心に期するところがあって、がんとして受けつけません。そしてひそかに左団次を呼んで、「今度もし不評ならば、ともに劇場を退かねばならぬ」と励ましたのです。
どうして努力を惜しんでいられるでしょう。左団次も寝食を忘れて苦心を重ね、あげくはお岩稲荷に祈願をこめるほどでした。ついに初日が開きました。はたして、秋夜は圧倒的な評判です。左団次はうれしさのあまりその夜はおちおち眠ることもできず、翌早朝、河竹を訪ねて批評を請いました。すると河竹は静かに首を振ったのです。「まだいけない」。ほめられるとばかり思っていた左団次は、むっとしました。けれども、ねんごろに説く河竹の言葉に耳を傾けているうちに、彼は自分の至らなさを恥じなければなりませんでした。二日目の翌朝も、三日目の翌朝も、客の人気はますます高まるのに、河竹はあいかわらずだめを出すのです。左団次はそのたびに、新たな工夫に心身を燃やしました。やっと五日目になって、河竹は言いました。
「今日はようござんすよ」
そのときの左団次の喜び。のちに彼は、
「あんなうれしいことは、二度と生涯にあるまい」
と人に語ったといいます。その後、秋夜は正史どおり丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)と改められて、左団次の家の芸となりました。このときから彼の腕前は内外に認められ、やがて先輩の九蔵が市村座を退いたあとの座に据わってからは、彼の名は日ましに高まるばかりでした。
左団次といえば、今の人はまずその実父である先代を思い出すのがふつうです。それほどこの名は先代から劇界に重きをなしたのですが、正確にいえば、ここに語っている左団次は四代目であり、したがって今の人は五代目にあたります。けれども三代と四代とは、直接の師弟関係も血のつながりもありません。小団次の養子になって継いだ名です。
左団次は、大坂の島之内の芝居の床主(とこぬし:芝居茶屋の主人)、中村某の次男として天保十三年(1842年)十月二十八日に生まれました。幼名を辰蔵といい、兄の米蔵とともに座摩(ざま)や稲荷の子供芝居に出ていましたが、嘉永四年(1851年)、十歳のときに父が死んでからは、母と弟とともに兄に養われました。安政元年(1854年)、兄とともに小団次の門に入って小米と改名し、文久二年(1862年)には升若と名乗って旅へ出、大坂に帰ってからは座摩の子供芝居に出ていました。そこへたまたま江戸の中村座の奥役が有望な若手俳優を求めて大坂に来て、兄の米蔵に東行をすすめましたが、家の事情でまとまらず、ちょうど用談の席へ出た小米の容貌風采に目をつけて、江戸へ出ることをすすめたのでした。
彼は若いころ白塗りの二枚目役ばかりやっていましたが、素質を見るに鋭い河竹の注意で敵役に転じてから、しだいに好評を博すようになったのだといわれています。端麗な容姿と明快な声の調子、派手でしかもいやみのない芸風。当時のいわゆる芝居通のなかには、団十郎ほどの深みも菊五郎ほどのこまかさもないといって喜ばない者もいましたが、時代物では団十郎のわき役、世話物では菊五郎のわき役というふうに演じているうちに、彼の大衆的な人気は日ましに高まりました。明治の中ごろになって、ついに彼の名は団・菊・左と並び称されるまでになりましたが、明治三十六年(1903年)二月と九月に菊五郎と団十郎が相次いで亡くなってからは、劇界の人気を一身に背負って、『大盃』『籠釣瓶(かごつるべ)』などの新作を得意として出しました。
人格が高く立派だったことも、彼の人気を大きくした原因でした。初めて彼のために脚本を書いて劇作家になった松居松葉(まつい しょうよう:のちの松翁)は、彼を評して、「その謹厳で品行方正な点、不撓の精神に富む点、義侠心の豊かな点などにおいて、まさしく梨園(りえん:歌舞伎の世界)の紳士と呼ばれるに恥じない」と語っています。無名時代の自分を引き立ててくれた河竹黙阿弥と守田勘弥の恩義をいつまでも忘れず、いろいろな逸話を残していることは、人のよく知るところです。その一つにこんな話があります。明治二十二年(1889年)に福地桜痴(ふくち おうち)が千葉勝五郎と組んで歌舞伎座を建てたとき、団十郎・菊五郎には歌舞伎座出勤の迎えが行きましたが、左団次は落ち目の勘弥のために新富座の犠牲になる覚悟をかたくし、何度訪ねられても、はねつけて会おうともしなかったといいます。

劇場経営上の革新
けれどもやがて、勘弥の商人根性に憤慨して、左団次は新富座から離れました。明治二十五年(1892年)十一月、猿若町(さるわかちょう)に移っていた市村座が焼失しました。左団次は初興行のときからそこの座頭となり、翌二十六年、市村座は下谷二長町(したや にちょうまち)に移転します。それが明治座です。彼は十一月から多年の宿願である劇場の経営を企て、三十六年までの十年間、明治座を守って、東京では決してほかの舞台を踏みませんでした。そのあいだ、竹柴其水(たけしば きすい)の新作を矢つぎばやに上演したのです。
明治三十六年になって、経営の困難から金主(きんしゅ:出資者)ともめ事が生じ、一時明治座を退きましたが、翌三十七年、それが解決すると同時にふたたびもどって、劇場経営の大改革を断行しました。何百年の伝統と因習に凝り固まっている経営のやり方だからこそ歌舞伎は年々衰えるのだ、この点では新興の川上音二郎一座を見習わなければならない、というので、切符制度、初日前日の舞台稽古、仕切場(しきりば:客席の事務所)を椅子とテーブルに改める、小道具その他のむだな費用を省く、などの新しい制度を断行したのです。この点でも、彼は先覚者の一人といえるでしょう。
けれども、せっかくの明治座の立て直しにもかかわらず、彼は同じ年の二月、『敵国降伏』の舞台を最後に胃がんで倒れ、しばらく赤十字病院で療養していましたが、八月七日、ついに新富町の自宅で亡くなりました。六十三歳でした。雅名を高島屋莚升(たかしまや えんしょう)と号しました。明治座という大劇場の座主と座頭を兼ねていながら、決して権力をほしいままにしなかったという点でも知られ、その点での逸話もたくさんあります。実の子の小米にも決して好い役をさせず、名題(なだい:幹部俳優)になるまでは三階の大部屋で下回り同様に待遇しました。この小米が莚升と改名し、父の死後に左団次の名を継いで、昭和の初めに現役の名優であったことは、知る人が多いでしょう。





