北国の春は、恵みの光にやわらげられていました。長いあいだ雪に閉ざされていた大地に、いっせいに草木が芽吹き始めます。岩代国梁川(やながわ:現在の福島県伊達市)の興国寺。住職・新井如禅(にょぜん)のもとに、美しい少年が弟子入りしました。女の人のいない寺でしたから、この少年の美しい顔は、まるで人形のように見えたといいます。人々はうっかり口にしました。
「なんと美しいお嬢さんだろうか!」
すると少年は、いきなり前をまくって用を足しながら、「おい、これを見ろ、これを——」と、人々の前を一人ひとり挨拶して歩いたのです。見た者はあっけにとられ、その肝の太さに驚いたということです。
新井石禅(あらい せきぜん)。のちに「おそろしき神童よ」と呼ばれ、鶴見の総持寺の貫首(かんす:一山の長)となった曹洞宗の僧の、幼い日の姿でした。
年少にして剛毅
こうして、勉強と修行の日々が始まりました。夏が来て、秋、冬が来ます。北国の冬の夜は、身も凍るほどの寒さです。それでも庫裏(くり:寺の台所)では、さっきから灯がともり、しきりに物音がしていました。昼も夜も、暑さ寒さも問わずに勉強を続ける少年・石禅です。そのとき、兄弟子の声が彼を呼びました。
「囲炉裏の鉄瓶に水を入れろ」

目上に命じられたのですから、断れません。彼は鉄瓶を持って、雪の降りしきる井戸へ出ました。水を汲んで戻ってきましたが、なにしろ十二歳の少年です。寺で使う大きな鉄瓶は、それだけでも持て余すのに、今は水がいっぱい入っています。これを囲炉裏に下がった自在鉤(じざいかぎ)にかけなければなりません。炉端にいる兄弟子は知らん顔です。もちろん負けず嫌いの少年は、助けを頼んだりしません。ぐいと持ち上げて自在鉤にかけた瞬間、なみなみと入っていた水が口からこぼれました。水は炉の燃える熱い灰の上に落ち、ごうっと灰神楽(はいかぐら:灰が舞い上がること)が立ちます。
「馬鹿野郎!」
兄弟子の怒鳴り声。はっと気づいたときには、頭を三つ四つ続けざまに殴られていました。兄弟子は火箸で彼の頭を打ち据えたのです。少年・石禅は口惜し涙を流しながら、黙っていました。自分が悪いのだから仕方がない——いったんはそうあきらめてもみました。しかし、これは理屈もなにもない、力ずくの圧制です。人が自分を磨くための寺で、理不尽な力をふるうのは間違っている。これが少年・石禅の胸に植えつけられた、最初の反省であり、信念でした。
のちに鶴見総持寺の貫首に推され、上の者からも下の者からも尊敬を一身に集めた近代の名僧・新井石禅。それは、少年時代のこうした苦しい修行が、彼の人間形成に一役買っていたからでしょう。もちろんそれは、石禅がもともと持っていた素質を磨いた、という意味においてです。

人間と人格の合致
禅宗の師家(しけ:修行僧を指導する僧)といえば、世俗を超えて枯れた味わいを持つのが本来だと世間では思われていて、近寄りがたい感じがします。ところが新井石禅は、まるで反対でした。温かく、慈愛に満ちた、人間味豊かな人格者だったのです。いくつかの逸話が、それをよく物語っています。
あるとき、石禅の寺にいた若い雲水(うんすい:修行僧)が、戒めを破って下山を命じられました。過ちはやむを得ないものだったとしても、できてしまった結果には、きちんと責任を負わなければなりません。若い雲水もそれを受け入れ、悔いる姿で、最後の別れの挨拶を願い出ました。石のように黙って坐っていた石禅の目には、その姿を見ただけで涙があふれます。石禅は、山を追われる雲水に向かって言いました。
「わしの力が足らなかったのである。お前は如来様にお詫びができるよう、みっちり精進しなさい。身体に気をつけるがよい」
そう言って、じっとその後ろ姿を見送ったということです。

ふつう、善男善女が高僧に会うときには、喜捨(きしゃ:寺への寄付)の金を包むのが習わしでした。石禅はこれを嫌い、そのために人々との交わりが妨げられないよう、気を配っていました。あるとき一人の貧しい女性が、差し出すものを何一つ持っていないことを深く恐れながら、石禅に会ったことがあります。石禅は言いました。
「正法の光は強いものだから、いつも人々の善い心を照らして、暗い影をつくることはない。お前の禅心が美しいのだから、そのうえに何を供養する必要があろう」
相手の心の内を見抜いて初めて言える言葉です。貧しい女性は、それを聞いて感激の涙にむせんだといいます。

こうした人間味は、鶴見女学校の開校式で語った、次の一節にもにじみ出ています。
「女子には男子に真似のできない長所があり、特色があるから、この長所・特色を大いに発揮すべきである。すなわち温順優雅ということである。つい近頃病気をして看護を受けたが、男子に身体を扱われると、先方では柔らかにするつもりであろうが、病人から見ればどうも荒々しい扱い方で、病人も命がけである。それに比べると、女の人はまことに物柔らかで気持ちがよい。病人も安心して任せていられる」
これが、天下の名僧・新井石禅師が女学生に与えた訓辞でした。その飄々(ひょうひょう)とした味わいは禅から来たものでしょう。けれども、その温かさは、石禅自身の信念と人格から出たものです。
では、石禅は禅をどう説いたのでしょうか。『仏教講演全集』の第一篇で、彼はこう言っています。世の中には、生まれつきの釈迦もいなければ、生まれつきの達磨もいない。釈迦や達磨になれたのは、みな修養の結果である。仏陀は修養の末に、時間も空間も超えた大きな精神に触れて、からりと悟りを開いた。今日でも、この大きな精神に触れることができれば、釈迦仏陀と同じ境地に達することができる。それこそが禅の妙味であって、禅とは何かといえば、とりもなおさず仏心である。仏心は言葉で述べることも、頭で計ることもできない。しかし、あえて一段下がって分けて言うなら、最上の解脱を得て、比べるもののない智慧を成し遂げ、広く大きな慈悲をあらわし、その徳は天地の働きに等しく、道は宇宙の神秘と一つになる——それが仏心なのだ、と。

時代の信念に生きる
新井石禅(1864〜1927年)は明治八年、十二歳で出家し、岩代国興国寺の新井如禅の門に入りました。こうして見ると、石禅の一生は、新しい日本ができあがっていく道のりと重なっています。一方に物質文明の世界的な飛躍があり、その陰にこのような名僧がいたことは、決してただの偶然ではないでしょう。明治八年といえば、ようやく民権の思想が芽生え始めたころです。岩代の片田舎の少年に剛毅で果断な精神が育ち、理性で時代を見ようとする神童があらわれたのも、理由のないことではありません。そのうえ日本の仏教は、長いあいだ支配する側の中で育てられ、民衆を救うという本来の使命が忘れられかけていた時代でもありました。
明治維新は、政治の仕組みだけの変革ではなく、人々の精神を変えた点でもっとも注目されなければなりません。四海平等の思想は、それまで人々の頭上に君臨していた古い考えを打ち破り、民衆は批判の自由を手にしました。これはどんな意味でも封建主義の没落であり、資本主義社会の出現を急がせるものだったのです。
この変わり目の時代に生まれた者は、二つの道の分かれ目に立っていました。古いものに囚われて反動に巻き込まれるか。それとも新しいものの中に飛び込んで、新しい時代を生きるか。宗教の面では、西欧の資本主義の国々を席巻していたキリスト教が、資本主義の勃興とともに日本の民衆の心に食い込もうとしていました。古い仏教の信徒は、その教えを抑圧の記憶と一緒に覚えている、という危うさもあります。精神の世界の揺れもまた相当に大きかったことは、多くを言うまでもないでしょう。仏教界の——とりわけ禅宗の新しい知識人であった新井石禅は、時代とともに仏教を生かし、それを資本主義の世を生きる人々の精神の糧にまで高めたのです。彼の教えは、彼の行動でした。彼の信念は、彼の人格でした。この点で、宗教家という立場は、権謀術数を仕事にする政治家よりも恵まれている、と言えるかもしれません。
石禅は自分の心の内を、こう語っています。天地は果てしなく広く、山も川もゆったりと流れ、太陽と月ははるかで、雲も虹もぼんやりと広がる——それがこの大宇宙のおおまかな景色ではないか。仰げば天は高く、万古の昔を見せる。うつむけば地ははるかに、千年の後を語る。またたく星はむなしく古今の興亡を照らし、さっと吹く風の音は人生のはかなさを嘆く。この偽りのない大自然の宇宙に向き合って、われわれはいったい何を感じるだろう。天が高いというのは高いのではなく、むしろそれは空虚なのだ、というのがいちばん的を射た達観ではないか。地が低いというのは低いのではなく、われわれが地の上に密着しているのだ、というのも同じ達観と呼べるだろう。宇宙には宇宙の法則があり、それを悟り尽くさなければならない——と。
こうした信念のもとに禅の道に励み、大正九年(1920年)、鶴見総持寺の貫首に就きました。翌年には太陽真鑑禅師の号を賜ります。その翌年、ハワイのホノルル市で別院の入仏式があったので出向き、続いて北アメリカ合衆国を説教して歩きました。こうした活躍によって石禅は、仏教界の法王とまで呼ばれる尊敬を集め、昭和二年(1927年)、六十四歳で亡くなりました。





