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足利義満の生涯|金閣寺を建てた室町幕府「最強の三代目」の偉業

足利義満の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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正平十六年(1361年)。南朝に味方する細川清氏(ほそかわ きようじ)、楠木正儀(くすのき まさのり)らの軍勢が京都に攻め込み、足利幕府の二代将軍・義詮(よしあきら)は都を捨てて近江へ逃れました。

四歳の跡取り息子は、播磨の赤松則祐(あかまつ のりすけ)の館へ落ちのびます。

やがて戦乱はしずまり、幼い少年は白旗城(しらはたじょう)から京都へ帰ることになりました。その途中、兵庫の琵琶塚(びわづか)のあたりを通りかかったときのことです。まわりの景色にすっかり見とれた少年は、お付きの者に向かって言いました。

「お前らはこの土地を担いで、京都に持って来い!」

なんと大きなことを考える子どもだろう——側近の者たちは、感嘆したそうです。

足利義満(あしかが よしみつ)。室町幕府の三代将軍にして、南北朝の合一をなしとげた人でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本は南朝を正統とする立場(南朝正統論)で書かれ、年号も南朝のものを主にしています。これは底本が刊行された当時の歴史の見方で、この記事では底本の年号をそのまま記し、必要に応じて北朝の年号と西暦を添えました。底本の「討伐」は「攻め」「平定」などに改めています。

 

宏大な気宇

 

日本の歴史をひもとく人にとって、もっとも心が痛むのは、南北二つの朝廷が対立した時代でしょう。大義名分というものが、文字の上でさえ語られなくなったのではないか——そんな心配をさせるほどの時代でした。

全国を一つにまとめる力が失われ、英雄や豪傑が各地に割拠し、ばらばらの封建社会に向かおうとしていた時代です。足利義満は、そういう時代に生まれました。祖父の尊氏が築いた権力はまだ全国を治めるまでには至らず、各地の領主たちは、隙あらば足利氏を倒そうと虎視眈々(こしたんたん)と機会をうかがっていました。足利幕府が歴史に残るかどうかは、三代目に生まれてきた義満という人物が、本当に「人物」であるかどうかにかかっていたのです。そして義満は、この難題にみごとに答えを出した人でした。

尊氏は京都に本拠を定めて天下に号令しようとしましたが、二代目の義詮の代になっても、まだ冒頭のような戦乱が起きていました。のちの徳川時代のように中央に権力を集めた封建制度とは、まるで様子が違います。幕府はできていても、その力はまだ固まっていなかったのです。

尊氏は自分の立場を正当化するために北朝を立てましたが、南北の対立は一朝一夕に消えるものではありません。当時の情勢を見渡すと、北陸には新田・脇屋の一族、近畿には楠木・和田の一族、九州には菊池の一派が、それぞれ相当の勢力を保っていました。そのうえ、今日は幕府に従っている者でも、損得しだいで明日も北朝を支持するかどうかはわからない時代です。楠木・細川の一族が京都に攻め入ったのもそのためで、将軍は居城を捨てました。それでもこれが幕府の致命傷にならなかったのは、当時の特殊な事情によるものでしょう。

冒頭の琵琶塚の逸話は、この乱の後のことです。彼に課せられた時代の使命が、四歳の義満にあの言葉を吐かせたのかもしれません。あるいは、彼がのちに成し遂げた数々の功績を知る後世の人々が、この逸話にとくに注目したのかもしれません。いずれにせよ、義満は生まれつき、宏大な気宇(きう:心の広さ、度量)を持っていました。そしてその性格が、もっとも必要とされた時代だったのです。義満があって初めて、足利幕府は天下に号令する実力を得ました。

 

※注:正平十六年(北朝の康安元年、1361年)の京都占領は、幕府の執事だった細川清氏が南朝に走り、楠木正儀らと共に京都を攻めた事件です。義満が避難した白旗城は播磨(現在の兵庫県上郡町)の赤松氏の城です。琵琶塚の逸話は『足利治乱記』などの後世の記録に見えるもので、底本もそれを承知のうえで記しています。

 

足利義満の生涯やエピソードを象徴するイラスト

賢臣の輔佐

 

この大きな器に加えて、義満には賢い家臣・細川頼之(ほそかわ よりゆき)の助けがありました。頼之が表に立って義満を支え、それと組んで裏から支えたのが、「黒衣の賢相」と呼ばれた僧・義堂周信(ぎどう しゅうしん)と絶海中津(ぜっかい ちゅうしん)です。

足利幕府の地位を名実ともに固めるには、ばらばらの大名たちを精神的に屈服させ、その領地の力を削り取ることが必要でした。その政策の第一歩が、山名氏を攻めたことです。

山名氏は、全国の六分の一にあたる領地を持つ、もっとも強力な大名でした。義満の時代になると、この一族が内輪もめを起こします。山名時義(ときよし)は時氏(ときうじ)の五男でありながら家を継ぎ、さらに家督を子の時煕(ときひろ)と孫の氏幸(うじゆき)に譲りました。これを面白く思わなかったのが、時氏の長男・師義(もろよし)の系統です。師義の子・満幸(みつゆき)は叔父の氏清(うじきよ)と語らって、幕府に訴え出ました。機会があれば山名氏の力を削ごうと考えていた幕府は、満幸と氏清に当主の氏幸を討たせます。一族の内輪もめを利用して滅ぼしていく——これは、幕府が座ったまま力を広げる方法でした。

九州探題に起用した今川了俊(いまがわ りょうしゅん)と、その後ろ盾だった大内義弘(おおうち よしひろ)の滅亡も、この政策の延長です。当時の九州には少弐(しょうに)・大友・島津といった大名がいて、それぞれ強い力を持っていました。幕府はこれらを監視し統率するため、今川了俊を九州探題として送り込みます。了俊は西国の豪族・大内氏を後ろ盾に、誠意をもってその任にあたり、大きな実績を上げました。

ところが大内義弘は、自分が野心の的にしていた九州を、了俊がいるかぎり自由にできないと見て、幕府に讒言(ざんげん:人をおとしいれる悪口)します。了俊は呼び戻されました。しかし時がたつにつれて了俊の誠意は認められ、逆に大内義弘の反心がはっきりしてきます。大内氏はもともと西国の豪族で、明徳年間の山名氏攻めに功があり、のちに述べる南北朝の合一でも中心的な役を果たしました。しかも明(みん)との貿易で巨利を得て勢いが盛んになり、それがついに幕府に警戒されて、応永年間に滅ぼされたのです。

こうして義満は、賢臣たちの献策を用い、また自分自身の聡明さによって、分権的な封建時代の上に足利幕府の基礎を据えました。永和四年(南朝の天授四年、1378年)、幕府を京都の室町に置き、これより室町幕府の権勢は日本全土を統べるにいたります。

 

※注:山名氏の内紛から幕府が山名氏清・満幸を討った戦いは明徳の乱(明徳二年、1391年)、大内義弘が滅んだのは応永の乱(応永六年、1399年)です。底本はどちらも「討伐」と記していますが、この記事では呼び方を改めました。底本の「氏〓」はOCRで一字が読めず、原本で氏清と確かめました。今川了俊の解任は応永二年(1395年)で、その背景には大内義弘の讒言だけでなく、了俊の勢力が大きくなり過ぎたことへの幕府の警戒があったとされます。

 

 

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南北朝の合体

 

北朝を立てた足利氏がしだいに力を広げ、もはや誰にも動かせない天下の権力を名実ともに備えたのに対し、南朝は日に日に衰えを嘆く有様でした。歴史の大きな流れは、どうしようもありません。

義満の時代になると、南朝最後の支持者であった楠木正儀も、大勢のおもむくところ、両朝を一つにするのがいちばんだと考えるようになりました。二つの朝廷が並び立つ矛盾は、当時の識者がみな痛感していたことでしょう。というのも、南北の和睦の話は機会あるごとに持ち上がっているのです。正平六年、十二年、二十一年、二十二年、二十三年——記録に残っているだけでもこれだけあります。しかし、なかなかまとまりませんでした。南朝はあくまで公家が政治を行う体制を求め、足利幕府は武家中心の政治を譲らなかったからです。

それでも時の流れは止められません。元中九年(北朝の明徳三年、1392年)、幕府は大内義弘に和睦を申し入れさせ、後亀山(ごかめやま)天皇はこれを受け入れて、両統迭立(りょうとうてつりつ:二つの皇統がかわるがわる皇位につくこと)を約束したうえで京都へ還幸されました。南北二つの朝廷がこの国に並び立ってから、五十年あまりがたっていました。その年の十月二十八日、後亀山天皇は吉野を出発。閏十月二日に西嵯峨野の大覚寺に入り、五日には三種の神器が土御門東洞院(つちみかど ひがしのとういん)の内裏に渡されたのです。

南北朝の合一は、当時の情勢ではやむを得ないものでした。しかし、双方には面目の問題が残っていました。だから義満のこの合一の工作については、国全体を考えたうえでの、彼の譲り合いの精神を認めてやらなければならないでしょう。乱世のあとを受けて、下の者が上の者を倒す「下剋上」の考えがしだいに芽生えはじめていた時代です。この統一は、皇室をめぐる考えの分裂を食い止めました。もちろん、足利氏の室町幕府をいっそう強固にしたことは言うまでもありません。南北朝の合一を成し遂げて、足利幕府はその全盛を誇り、天下の大名は幕府の威力の前にひれ伏したのです。この偉業を成し遂げた人こそ、足利義満でした。後世に残る室町文化は、すべて義満の文化だと言っても言い過ぎではないでしょう。

 

※注:底本は楠木正儀を「南朝最後の支持者」と記していますが、正儀は正平二十四年(1369年)にいったん北朝に降り、のち南朝に戻った人で、合一の交渉の中心にいたわけではありません。両統迭立の約束は合一後に守られず、南朝の系統の皇位継承は実現しませんでした。そのため後南朝と呼ばれる動きが十五世紀まで続きます。底本の「五十余年」は、建武三年(1336年)の分裂から数えて五十六年にあたります。

 

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人臣の栄を極めた生涯

 

足利義満は正平十三年(1358年)に生まれ、応永十五年(1408年)に亡くなりました。二代将軍・義詮の子で、幼名を春王(はるおう)といいます。父のあとを継いで将軍になったとき、まだ十歳でした。

文中二年(1373年)に参議左中将、天授四年(1378年)に権大納言。弘和三年(1383年)には淳和院(じゅんないん)と奨学院(しょうがくいん)の両院の別当になりました。この別当は「源氏の長者」だけが任じられる役です。足利氏こそ武家の最高の家柄だと、天下に示したことになります。南北朝を統一したあとは将軍職を子の義持(よしもち)に譲り、義満自身は太政大臣に任じられました。臣下として太政大臣になるのは、位と栄誉の頂点です。義満の官位への欲望は、室町幕府が充実していく歩みと重なっていました。太政大臣の位を受けたという事実は、全国の統一が完成したことを意味していたのです。

翌年、彼は髪を剃って天山(てんざん)と号しました。剃髪しても政治は彼が見ていましたが、同時に金閣寺の造営を始め、同じ時代の文化の粋を惜しみなく集めます。義満はたいへん子だくさんで、義持・義嗣(よしつぐ)以外の男子——尊満、義円、法尊、義承、義隆、義昭——を門跡(もんぜき:皇族や貴族が住職を務める寺)に入れ、女子の聖久、聖紹、尊久、聖仙らを尼御所に入れました。門跡も尼御所も、多くは皇族が入る所です。彼は栄達の極みを、一門の上にまで及ぼしたのでした。

そして思うままに贅沢を尽くし、遊びにふけりました。彼ほど各地を旅して回った人も珍しく、そのたびに盛大な行列を従えて歩き、地方の人々を驚かせたといいます。旅に次ぐ道楽は、土木建築でした。永和四年(1378年)には室町に「花の御所」を、応永四年(1397年)には北山の衣笠山のふもとに別邸を、それぞれ華美をきわめて建てています。この別邸の建築費は銭およそ百万貫。底本はこれを「今日の四千万円あまり」と記していますが、その贅沢と栄華は驚くほかありません。

その贅沢を非難するのは簡単です。しかし、一国を安泰にした義満が、本人の意図はどうあれ、文化の発展に貢献した功績を見逃すことはできません。室町文化を今日に伝えるのは、彼が建てた金閣寺です。義満はここで政治を見、明との貿易を開きました。そして応永十五年、五十一歳の働き盛りで亡くなったのです。

 

※注:義満の将軍就任は貞治七年(南朝の正平二十三年、1368年)で、数え十一歳でした。剃髪は応永二年(1395年)で、法名は道義、道号が天山です。「四千万円余り」は底本刊行時の換算で、現在の価値に直すのは物差しによって大きく変わるため、そのまま記しました。金閣(舎利殿)は昭和二十五年(1950年)に放火で焼失し、昭和三十年に再建されたものが現在の建物です。義満は明の皇帝から「日本国王」に封じられて勘合貿易を始めており、これについては当時から評価が分かれています。義満は能楽の観阿弥・世阿弥父子を庇護したことでも知られますが、底本は触れていません。享年五十一は数え年です。
【その後にわかったこと】義満が北山に建てた金閣(鹿苑寺舎利殿)は、底本(昭和11年刊)の時代にはまだ義満の時代のままの建物でしたが、1950年(昭和25年)7月2日、寺の徒弟の放火によって焼け落ちました。三島由紀夫の小説『金閣寺』はこの事件を題材にしています。現在の金閣は1955年(昭和30年)に元の姿で再建されたもので、1987年には金箔を全面的に張り替えました。鹿苑寺は1994年(平成6年)、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。

 

 

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大内義弘の生涯|南北朝合一の立役者にして室町幕府に挑んだ西国の覇者
足利義満の最盛期を支え、六分の一衆・山名氏の討伐や南北朝の合一(合体)という歴史的偉業に多大な貢献を果たした西国の雄将・大内義弘。六ヶ国を領する絶頂期から一転、将軍・義満と対立して「応永の乱」を起こし、和泉の堺城に散った波乱の生涯を解説します。

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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