明治元年(一八六八年)。新政府はまだ、生まれたばかりでした。
長崎の近くの浦上(うらかみ:現在の長崎市)で、四百数十人のキリシタンが、国禁の宗教を信じる者として捕らえられました。諸外国の公使はこぞって抗議します。外交団の意を受けたイギリス公使パークスは、この問題から直ちに太政大臣(だじょうだいじん)をはじめ新政府の役人たちが列座するなかで談判を開きました。
信仰の自由を論の切っ先とするパークスの抗議に、誰も言い返せる者がありませんでした。
これを見かねたのが、はるか末席にいた一人の判事です。彼は突然、パークスに食ってかかりました。
「信教は国内の問題であって、外国からとやかく干渉を受けるべき性質のものではない」
パークスは言いました。「彼は何者であるか。今日は相当な職権をもった者でなければ、この席で口を出すことは差し止めてもらいたい。彼は我々と談判する資格のない者だろう」
当局者が苦しい弁明をしたので、実は無資格者だったその判事は、一気にまくしたてました。当時、彼はキリスト教の問題について新しい知識をもっていましたが、その談判にはかなり無理な理屈を通したのです。そして、この問題を一挙に解決してしまいました。
彼の名は大隈重信(おおくま しげのぶ)。佐賀藩の足軽の子に生まれ、藩閥のない身で二度も内閣を率い、早稲田大学を興した、明治憲政史上の巨人です。その生涯に迫ります。
明治憲政史上の花形
明治維新の夜明けのころ、倒幕という世の中を一変させる大事業に、いちばんの手柄を立てたのは薩摩・長州・土佐の三藩でした。その勢いは盛んで、押さえようもありません。諸藩の武士はみな風向きをうかがい、天下の形勢を見つめ、あわよくば乗じようと、野心に燃えていました。
こうして藩閥の権勢が盛んな時勢に、九州の一角から躍り出て、たちまち明治の新政府に抜擢され、一方の重鎮として活躍した数名の英傑がいます。江藤新平(えとう しんぺい)、大木喬任(おおき たかとう)、副島種臣(そえじま たねおみ)、佐野常民(さの つねたみ)、そして大隈重信。なかでも大隈の存在は、政界にひときわ光を放ち、巨人としての面目を生き生きと見せていました。
この豪快で奔放な性格の自由主義的政治家は、やがて明治憲政史上の一大花形となったばかりではありません。外交の手腕で諸外国に名を知られ、教育者としては数万の人材を育て、後の世に大きな業績を残したのです。
けれども、これほどの大人物も、少年のころはいたって平凡な子だったといいます。ただ忘れてならないのは、その背後に賢い母・三井子(みいこ)がいたことです。母は彼をきわめて自由に育て、友だちが家に集まってくることも大いに歓迎して、勝手気ままにさせたといいます。重信の生涯の特色である天才的な社交性は、こうした母の感化によるところがあったのでしょう。彼が明治憲政史上の花形とうたわれ、巨人として仰がれるようになったことは、「偉人の背後に賢母あり」の言葉と切り離しては語れません。

大政奉還の熱意
嘉永三年(一八五〇年)、重信は、佐賀藩の長崎砲台警備役だった父・信保(のぶやす)を亡くしました。天保九年(一八三八年)生まれの彼が十三歳のときです。当時の彼の将来の目標は、長崎砲台の司令官になることでした。
しかし幕末の風雲は、この地にも押し寄せて、人を呼んでいました。長崎砲台の司令官を夢見る平凡な少年も、西洋の進んだ文明に触れ、日本の内外の情勢を知るにつれて、日本のために何をすべきかを考えざるを得なくなります。
佐賀藩には当時、『鍋島論語』と呼ばれる秘本がありました。「釈迦も孔子も楠(くすのき)も信玄も、鍋島に奉公したことのない人々であるから尊ぶに足りない」——その一節を見ても分かるとおりの極端な封建思想で、これが藩の政治の基準になっていたのです。
彼は七歳で藩校・弘道館に入りましたが、こうした狭い封建主義の藩学に対して学制改革の運動を起こし、ついに反対派と衝突しました。首謀者として藩校を追われ、藩の経営する蘭学寮に入って、フルベッキ(オランダ出身の宣教師・教育者)について英語を学ぶ機会を得ます。これは彼の生涯にとって、まさに「不幸な幸運」でした。外国語を学ぶことで、彼の目は世界の大きな流れに向かって開かれたからです。この機会がなかったら、志望どおりの、ただの長崎砲台司令官として一生を終えていたかもしれません。
彼の胸の内には、こんな考えが熱を帯びていきました。民心の去った幕府の権力に代わって新しい政権を打ち立て、国民の文化を高めることに力を注がなければ、日本は先進諸国の帝国主義的な蚕食(さんしょく:蚕が桑の葉を食うように、端から侵されること)を受けることになるだろう、と。
彼はこれを、誰もが認めざるを得ない公論だと信じました。そこで副島種臣とともに、当時長崎に来ていた土佐藩の御用船にいた後藤象二郎(ごとう しょうじろう)に説き、その助けで脱藩します。目指すところは、将軍慶喜(よしのぶ)に直接談判して大政を奉還させることでした。
彼らは首尾よく江戸に上りましたが、捕らえられて謹慎を命じられ、すぐに国元へ送り返されます。一方、彼らの議論に賛成した土佐の後藤象二郎は、三か月遅れて京へ上り、西郷・大久保・小松ら薩摩の志士を説き、土佐藩主・山内容堂(やまうち ようどう)、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)らを動かして、慶応三年(一八六七年)、大政奉還を実現させたのです。
大隈と副島は、後藤に鳶(とび)に油揚げをさらわれた形になりました。けれども、もともと事の成ることを望んで自分の手柄を顧みない二人です。大政奉還の実をあげさせる第二段の活動に移ります。新しい政治に対する薩長の藩閥のさばりを押さえ、封建制から本当に国民を新しい時代へ解き放たなければならない、という信念からでした。彼の民権主義は、佐賀藩を新政権の中に有利に登場させようというところに芽生えていたのかもしれません。しかし当時にあっては、これもまた最も進歩的な意見だったことに変わりはないのです。

出世の端緒
薩長の二大勢力が根を張る新政権のもとで、彼の進出は決して楽ではありませんでした。しかし、彼でなければ解けない難問が新日本の前にいくつも横たわり、時代はたえず彼を求めていたのです。
明治元年、彼は佐賀藩の代表として、幕府直轄だった長崎の外国事務局に派遣されました。新政権ができると幕府の役人はいっさいの書類を消して逃げてしまい、諸外国の厳しい抗議の矢面に立たなければなりません。彼は着任三か月で、その難問を見事に解決して手腕を示しました。さらに、新任の九州鎮撫総督・沢宣嘉(さわ のぶよし)が長崎近くのキリシタン四百数十名を国禁の宗教の信徒として収監し、諸外国の抗議を受けた事件も、大胆な度胸と臨機応変の才で解決したのです。
その場面は、冒頭に記したとおりです。パークスの抗議に誰も言い返せないなかで、末席の判事だった重信が食ってかかり、「信教は国内問題である」と押し通しました。
これが出世の糸口になりました。彼は抜擢されて、たちまち新政府の参議になります。伊藤博文(いとう ひろぶみ)がまだやっと兵庫県知事だったころのことです。同時に、キリスト教問題の解決で、彼の名は諸外国にも深い印象を残しました。のちに政府が財政難に陥って外国から借金する必要に迫られたとき、パークスが大隈のために骨を折ったことでも、そのあいだの事情がうかがえます。

民権論者として
明治三年、大蔵大輔兼民部大輔(おおくらのたいふ けん みんぶのたいふ:大蔵省・民部省の次官)に任じられてから、薩長勢力の固い壁のあいだで、彼は藩閥の後ろ盾なしに天下を闊歩しました。
明治十三年、国会開設運動が起こると、彼はその最大の指導者の一人として民論を導き、当時としては本当に急進過激と思われた民主主義を唱えます。ついに明治十四年、国会開設の詔勅が下り、彼の努力は報われました。彼は立憲改進党を組織し、板垣退助(いたがき たいすけ)の自由党、福地桜痴(ふくち おうち)・丸山作楽(まるやま さくら)の立憲帝政党とともに、政党の土台を築きます。
ところが不幸にも、いわゆる「明治十四年の政変」が起こり、彼は薩長勢力によって政府を追われました。しばらく野に下った彼は、小野梓(おの あずさ)らとともに早稲田大学の前身である東京専門学校を開き、藩閥の外で人材の教育に尽くし、また政党の事実上の首領として活躍します。
伯爵を授けられた明治二十年の翌年、彼は条約改正の難局で失脚した外務大臣・井上馨(いのうえ かおる)の後を継いで政府に戻り、新日本最大の懸案であったこの難問を解こうとしました。新条約はできる限り対等なものでしたが、一部に司法権の独立に触れる条項があります。これに憤った玄洋社(げんようしゃ)の一幹部が彼を待ち伏せし、爆弾を投げました。彼は片脚を失ったばかりでなく、このたびもまた藩閥勢力によって失脚を余儀なくされたのです。
「大隈のあるところ、必ず政界に波瀾を生ず」と言われたのも、もっともでした。彼は薩長勢力のなかにそびえる、偉大な異分子だったからです。
明治二十九年、松隈(しょうわい)内閣の外務大臣として農商務大臣を兼ね、さらに三十一年、隈板(わいはん)内閣を組織することに成功しました。政党内閣の最初のものです。しかし若手の政党員たちの猟官運動(りょうかんうんどう:官職の奪い合い)の犠牲となり、三か月あまりで崩れました。その後は在野の政党の連合を図って憲政本党を組織しましたが、内部に藩閥へ通じる者があり、明治四十一年、本党を見捨てて政界からの隠退を声明します。
以後、彼はもっぱら日本の文化を高めるために、自ら社会教育家と称して貢献し、天才的な外交の才を発揮して諸外国との親善に尽くしました。彼の存在そのものが、日本の国際的な地位を高めたと言えるほどです。『開国五十年史』の名著はこの静かな歳月のうちに成りました。早稲田大学と文明協会の経営の土台を固めたのも、「あるんである」という有名な、特色のある雄弁で各地を遊説したのも、この時期です。
大正三年(一九一四年)、大命はふたたび大隈に下りました。七十七歳の高齢をいとわず内閣の首班として立ち、海軍の廓清(かくせい:不正を取り除くこと)、宮内省の改革、国防の充実、財政整理などの根本政策を着々と実行します。ヨーロッパで大戦が始まると、日英同盟のよしみによって青島(チンタオ)出兵を断行するなど、多難な政局に手腕を振るいました。これが政界での最後の活躍でした。
大正五年、内閣を解いて野に下った彼は、「大風呂敷」と呼ばれるほど話が湧き出るような談論に明け暮れ、明るい晩年を送りました。明治政界の巨星・伊藤博文の先輩格として、板垣退助と並び称されるべき自由主義的政治家として、さらに教育者として、彼はまさに在野の一巨人として生涯を貫いたのです。
この豪快な巨人は、百二十五歳まで生きてみせるとよく豪語していました。しかし大正十一年(一九二二年)一月十日、惜しくも病で亡くなります。享年八十三。長崎砲台司令官を夢見た平凡な佐賀藩の足軽の子は、従一位大勲位侯爵として、小石川の護国寺(現在の東京都文京区)に、賢母三井子とともに永遠の眠りについています。
一度も洋行したことがないのに海外の事情によく通じ、たいへんな博識で、頭も気概も青年のように若々しかった。この気概こそが彼を大きくした——そう言っても言い過ぎではありません。ともあれ彼は、どの面から見ても一代の巨人であり、偉人と称えざるを得ない、明治大正にかけての大人物でした。
足軽の子が、藩閥の後ろ盾なしに参議となり、追われ、爆弾で脚を失い、それでも二度首相になりました。けれども底本が最後に置いたのは、官位でも勲章でもなく、母と並んだ墓でした。友人が家に集まるのを喜んで勝手気ままにさせた母。その家で育った社交性が、公使に食ってかかる度胸にも、学校を作る情熱にもなったのだとすれば、この巨人の生涯は一人の母から始まっていたのかもしれません。大隈重信。「あるんである」と語り続けた、明治の大風呂敷でした。



