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大内義弘の生涯|南北朝合一の立役者にして室町幕府に挑んだ西国の覇者

大内義弘の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「見苦しい、その態(ざま)は何事であるか!」

明徳二年(1391年)の大晦日、京の大宮の戦場で、味方が崩れはじめたのを見た西国の大将は、大喝一声して自ら敵将の前に躍り出ました。渡り合うこと三十余合、ついに敵の首級を挙げます。山名氏の乱を鎮め、南北朝合一の使者として吉野に向かい、九州を平らげて六か国の守護となり、そして将軍義満に挑んで堺に散った大内義弘(おおうち よしひろ)の生涯です。

 

義満配下の雄将

大内義弘は百済国琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔であると伝えられています。太子は百官を率いて周防国佐波郡多々良浜に来て、推古天皇の詔によって周防国の大内に仮の宮室を営み、はじめて着いた浜の名にちなんで多々良と姓し、数代ののちに大内と名乗ったといいます。

 

※ 琳聖太子の渡来は大内氏の家伝で、底本の『日本英雄伝』が記す「定居元年」は実在しない伝説上の年号です。また底本は大内の地を「長門国」としていますが、大内(現在の山口市大内)は周防国吉敷郡にあります。

 

その子正恒から八代、周防介盛房の孫満盛のときから、ここに武家として世に立ちました。のちに義弘が守護職の任にあたった長門国は、この当時祖先満盛が元暦の乱に功を立て、賞として賜った地です。その後三代を経た周防介弘貞に至り、文永十一年(1274年)惟康親王のとき、彼は百済の兵を招致して関東を攻略しようとしたことがあったといいます。またその後、正寿院道階入道弘世の北の方は後小松天皇の国母だったので、彼の勢力は非常なものであり、ついに石見、周防を合わせて三か国の大守となり、京都にまねて祇園、清水、北野、愛宕、叡山などをことごとく建立したといいます。義弘はそれから二十一代の子です。だが弘貞のときに百済の兵を招致したとか、弘世の北の方は後小松天皇の国母であるとかというのは『太平記』に記されている説で、歴史上に確実な証拠として残っているわけではありません。しかし義弘の代となって、彼が中国九州に威を誇っていたところの裏面には、その祖先の歴とした由緒や勢力を十分にうかがうことができるでしょう。

この義弘の代には、天下の権は足利義満の手に握られていました。当時、義満の室町幕府には、その両翼とする鎌倉管領と筑前太宰府における九州探題とがありました。しかし鎌倉に比して九州はその政治的威力がはなはだ微弱でした。そのため少弐、大友、島津などの大名に対する探題の抑制は少しもききませんでした。そこで義満は諸大名押圧の実を挙げるため、足利氏一門に文武をもって聞こえた今川貞世(了俊)をその探題として補することになりました。しかし当時九州では南朝方の栄えていた時代で、この今川貞世の九州入りは容易なことではありませんでした。しかもそれを敢行しえたのは、同地方における義弘の大きな勢力と、彼の義満に対する尽力があったからこそなのです。

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山名氏討伐の功

義弘の武将としての輝かしい門出は、明徳年間の山名氏の乱によって始まります。当時、すなわち足利義満の時代は、幕府の勢力がもっとも盛んな時期でした。だが国内を統一して幕府の基礎をこの上さらに強固なものとするには、有力な氏族の勢力をことごとく剥奪してしまわなければならない。義満はこう考えました。そしてこの政策の遂行としてまず手につけたのが、山名氏の討伐でした。山名氏は足利氏の同族中もっとも勢力があり、その所領は十一か国に及び、全国六十余州の六分の一衆と称されていました。ことに山名時氏はその威を誇り、佐々木道誉と反目して南朝に帰順し幕府に反抗しましたが、尊氏の没後は義詮と和睦してふたたび武家方に復帰していました。この時氏の嫡統を嗣いだのは第五子の時義で、時義の子に時煕、孫に氏幸がありました。この一統に対して、時氏の長男師義、その子満幸、満幸の叔父氏清らは常に不愉快な感情を抱いていました。そしてついに相謀ってこれを将軍義満に讒訴しました。義満も時義ら一統の驕慢な態度を憎み、その処分の機をねらっていた折です。氏清、満幸に命じて氏幸を討たせました。ところがその平定後、今度は氏清、満幸の権勢が強大となり、驕慢な態度を示しはじめました。ここにおいて義満は大いにそれを怒りましたが、同時に氏清らも反撃を企て、兵を挙げてまさに京都に攻め入ろうとする状態となりました。これが世にいう山名氏の乱(明徳の乱)です。

義満は兵を住吉の浦に構えてこれに対峙しました。ときに明徳二年(1391年)十二月。満幸は兵五百余を率いて谷の堂に陣を敷き、氏清の兵一万余は淀に至り、氏清の兄氏冬は二千の兵を指揮して下鳥羽に屯しました。そして同月晦日、氏清軍の先鋒山名上総介義数、小林修理亮らは軍備を整えて大宮に至りました。このときこの敵の先鋒に当たったのは義弘でしたが、彼の力戦は功を奏してたちまち敵を窮地に走らせ、見る見る小林修理亮に肉薄していきました。だが小林もまた豪の者、自ら勇奮して義弘の軍に躍りこんできました。と、事態は一変して義弘の軍が今度は見る見る敗走しはじめました。これを見た義弘は歯ぎしりしながら、大喝一声、味方の兵を叱咤しました。

「見苦しい、その態は何事であるか!」

同時にいきなり敵将の前に躍り出ていきました。そして死力を振るって渡り合い挑み合うこと三十余合、ついに小林修理亮の首級を挙げました。ここにおいて山名の軍はますます度を失いましたが、満幸の先鋒、氏清の二陣三陣は鯨波を上げて勢いを盛り返し、雪崩のごとくに押し寄せてきました。しかしそれも束の間で、義弘、畠山基国らの奮戦によってまもなく山名氏の乱は平定されたのです。その翌明徳三年(1392年)、義弘は功によって氏清の旧領和泉、紀伊両国の守護職となりました。

 

※ 底本は山名氏の乱を「明徳八年十二月」としていますが、明徳は五年までしかなく、乱は明徳二年(1391年)十二月のことです。また底本は味方の将を「畠山持国」、のちの応永の乱の寄せ手を「京極持高」と記していますが、それぞれ畠山基国、京極高詮が正しい名です。

 

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南北朝の合体

大内義弘を語るには、足利義満の政治的意図を述べなければならないと同時に、この時代に行われた南北両朝の合体とその経緯を見逃すことはできません。南北朝が両立し、そして合一を見るに至るまでの期間は、実に五十余年の長い歳月でした。この両朝が対立した当時は、足利氏がしだいにその勢力を拡大しつつあった時代です。したがって足利氏の擁立するところであった北朝の隆盛に反し、久しいあいだには南朝のために万丈の気を吐いた人々の志気はしだいに衰えを見せ、ただ逆境のなかにその不遇をかこつのみに至ったのです。だが当時、識者のあいだにこの現象が問題ともならず痛感されなかったわけではありません。それは正平年間にたびたび両朝のあいだに和睦が議されていることによって明らかでしょう。ただ南朝は後醍醐天皇の御意志によって大義名分論から公家一統の政体を主張され、これに対して足利氏は武家委任の政体を主張し続けたため、その御和睦は容易に見ることができなかったのです。しかもこのあいだにあって足利幕府の内部では抗争が絶えず、足利一族や将士のあいだに勢力が対立し、不平を抱く者はしばしば南朝に帰順し、微力ながらも幕府と抗争し続けました。ところが義満の時代になって幕府の国内統一が完成し、内訌も自然にやむと、それに伴う時世の流れがあり、ここに両朝御和睦の気運はしだいにはっきりと醸されてきたのです。ここにおいて義満は両朝の和議を提唱し、明徳三年十月、大内義弘は命じられて吉野に向かいました。このときの合一に関する義弘の具体的な働きについては史上に詳らかな記録が残っていませんが、こうした歴史上の大事業を完成するにあたって斡旋のために尽力した彼の業績は、その具体的記録の存在のいかんにかかわらず、これを偉業とすべきでしょう。

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その後の九州鎮圧と応永の乱

応永四年(1397年)、少弐貞頼、菊池武朝は千葉、大村、星野、赤星らの諸将と連絡して九州に反を企てました。そして国内をことごとくこれになびかせ、その勢力はすこぶる盛んなものでした。

 

※ 底本は反乱の首謀者を「菊池貞頼、少弐忠資」とし、「大将の菊池貞頼はその場で自刃して果てた」と書いていますが、応永四年の九州の反乱は少弐貞頼と菊池武朝によるもので、菊池武朝はその後も応永十四年まで生きています。底本が名前を取り違えたものとみて改めました。

 

このとき義弘は義満の命を受けてその鎮定に西下しました。あたかも九月、彼が諸軍の将となって豊前に進んだとき、少弐の軍はこれを迎えて猛然と立ち上がりました。だが義弘はまるで無人の野を行くがごとき勢いでこれを敗走させ、日ならずして馬ヶ岳の塁に追いつめ、たちまちのあいだに赤松、牛切その他の数城を降してしまいました。その威勢たるや、草原をなびかせ渡る風のごとくであったといいます。少弐は敗れて太宰府に帰りました。義弘は兵を率いてそのまま肥後に入り、火を放ってこれを攻めました。菊池の兵もこうして実に他愛なく義弘に降りました。義弘は続いて筑前に兵を進め、ふたたび少弐を攻めましたが、これもそのたとえのごとく、まるで暴風の野にある枯れ草そのものでした。義弘の九州鎮圧はこうして実に造作もなく終わりを見るに至り、彼は十一月に京都に帰ると、その功によって筑前を与えられました。従四位、左京大夫、周防、長門、豊前、石見、和泉、紀伊の守護職です。ここに至って義弘の勢力は、まさに当たるべからざる強力なものとなったのでした。

だがこうして足利幕府のためたびたび功を建ててきた義弘も、やがて将軍義満とのあいだに弓矢をもって対峙しなければならない結果となったのです。そしてその原因は二様に解釈することができるでしょう。その勢力の強まるにつれて心に驕慢の生じた義弘が、勢いに乗じて九州に覇を唱えようとし、探題今川貞世を讒したことから、かえって義満の怒りを招致するに至ったこと。義満は北山別荘の造営にあたって義弘に土木の役を命じましたが、義弘が応じなかったため、ここに二人のあいだが疎隔するところとなり、同時に義満の態度が専制的で圧迫的であったと信じられること。ともあれ応永六年(1399年)十月、義満は九州における義弘の政敵に密書を下して義弘の追討を命じ、そして表面的には義弘に対して和泉、紀伊の守護職を解かせようとしました。義弘もさる者、彼はここに満を持して反抗の弦を放ったのです。義弘はまず、その周囲に濠をめぐらせた独立市の観ある泉州堺によって兵を挙げました。義満は斯波義将、畠山基国、細川頼元、赤松義則、京極高詮に命じてこれを四方から攻めさせましたが、この防備をきわめた堺はなかなか落ちませんでした。だがやがて北風に乗じて火を放ちながら突入したため、さすが要害堅固な堺の城も焼け落ち、義弘はここに万事の終結したことを知って、応永六年十二月二十一日、討ち死にしました。これが世に伝えられる応永の乱です。

 

※ 底本は義弘が「潔く自刃して果てた」としていますが、通説では堺の城中で畠山満家らの軍と戦って討ち死にしたとされます。

 

義弘の生年月日は不詳であり、したがって没したときの年齢は四十四とも、また四十六とも伝えられています。将軍義満と覇を争って敗れたとはいえ、室町の武将として恥ずかしからぬ戦いぶりでした。しかも彼は南北朝合体という大事業の功労者であり、その事蹟の詳細が伝わっていないのは実に遺憾です。

味方を叱って自ら敵将の首を取った人は、吉野への使者として六十年の分裂を閉じ、九州を風のように平らげ、六か国の主になりました。その人が最後に戦った相手は、仕えてきた将軍でした。堺の町を焼く北風のなかで倒れた西国の覇者の、南北朝合一の働きだけが、記録に残らなかったのです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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