「私ごときは、とうてい他人に書を教える資格がありません」
伊藤博文が書を学びたいと頼みこんできたとき、明治の能書家はそう言って断りました。政務の余暇があるなら、私などより王羲之(おうぎし)の書をご覧なさい、と。巖谷一六(いわや いちろく)。詔勅の文案を書き、六朝(りくちょう)の書風を日本に広め、漢詩も雅楽も絵も何でもこなしながら、生涯「貧乏神の氏子」だった人です。
謙遜な能書家
明治年間のすぐれた書家、巖谷一六の書風は、はじめ菱湖(りょうこ)流から出たごく平穏流麗なものでしたが、ひとたび楊守敬(よう しゅけい)の書風を知るに及んで、その書体はがぜん一変してしまいました。楊守敬は清国公使館の書記官として東京に来た人ですが、この人は有名な清朝の能書家であり、金石学者としても知られていました。彼の来朝とともに、そのころ日本でも指折りの書家連中が、大方この人について書道を聞いたのです。
「忘れもしない私の父のところでも、一週間に一度か二度ずつ、その楊先生が来て、座敷の大机を囲み、しきりに運筆の稽古をしていた。そのなかには、日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)、金井錦洞、牟田口元学、西岡宜軒などという顔も見えていた。なんでも懸腕直筆(けんわんちょくひつ:肘を上げ筆をまっすぐ立てて書く筆法)ということは、そのとき楊守敬から輸入されたらしく、私たちの手習いの上にも筆の持ちようがやかましくなって、軽く筆を支え、肘を直角に張って腕の力で書けというようなことを言われたが、その当座は誰も文字の形が取れないで、ひどく苦心させられたものだ」
と、一六の一子・巖谷小波(さざなみ)は、そのころの思い出を語っています。こうして一六は楊守敬の書法にしたがって六朝の書体を会得し、勇勁飄逸(ゆうけいひょういつ:力強くて軽やか)の筆致となり、かつこれを巧みに一家の書体となして唱導しました。おそらくこれは一六の性格的な悟りであったのでしょう。一六の明治期の書体には一面に楊守敬の感化も表れていますが、そこに彼の個性味が加えられ、その筆法の上にも影響を及ぼしたのでした。
しかしあるとき、伊藤博文がやって来て、一六について書を学びたいと頼みこんだことがありました。が、一六はこの願ってもない弟子入りを断ってしまったのです。
「私ごときは、とうてい他人に書を教える資格がありません。ただ自分でぬたくって、自分だけの気分を味わっているにすぎないのです。閣下は私などにお学びになるよりも、もし政務の余暇がおありでしたら、王羲之の書をご覧になったらよかろうと存じます」
一六は、自分の独自の筆法を決して他に強いることはなかったのです。
お弟子といえば、一六の弟子のなかに二六(にろく)というのがありました。この人は信州の農家の出で、本名を北沢某といいましたが、家を弟に譲り、奉加帳(ほうがちょう:寄付を募る帳面)のようなものを持ち回って、あるところでは金をもらい、あるところでは食事にあずかり、またあるところでは「いつたりとも宿泊随意」などと紙に書いてもらって、それを旧式な絨毯(じゅうたん)製の手提げかばんに詰めこみ、それからそれへと渡り歩きました。自ら二六居士と号するくらいですから、一六の崇拝者だったのです。一六もまたこの男の飄軽(ひょうきん)さがすこぶる気に入っていました。一六は自分自身のもう一つの姿を、この二六居士の上に見いだしていたのかもしれません。また一六という号は、七曜制が採用されないころ、官吏は一と六のつく日に休んだので、一六は官吏だったところからそういう号をつけたのだといいます。

その略歴
巖谷一六は旧水口(みなくち)藩の侍医・巖谷玄通の子で、名は修(おさむ)、天保五年(1834年)二月の生まれです。幼名を弁治といいました。六歳のとき父を失い、母にしたがって京都に移りました。はじめ中沢雪城(せつじょう)に書を学び、次いで皆川西園の門に入って漢籍を修めました。十六歳のとき、医学博士三角東園の塾に入って医術を修業し、のち藩に帰って父の業を継ぎました。維新前は勤王家の一人として京都の政治界にも出入りし、大和義挙の志士・藤本鉄石、松本奎堂(けいどう)らとも交わりを結んでいます。その縁故で三条公にも接近し、明治政府建設ののちには、はじめ徴士議政官史官に任じられ、太政官内史ともなりました。内史というのは太政大臣の秘書官のような役目で、したがって当時、種々の文案を草したり辞令を書いたりしました。また詔勅の制令なども、多くは彼の筆書になったものです。以来、累進して太政官大書記官となり、明治十八年(1885年)、官制改革後は修史局監事、元老院議官、帝国制度取調委員を歴任し、錦鶏間祗候(きんけいのましこう:功労者に与えられた宮中の資格)に任じられ、貴族院勅選議員となりました。

六朝の書風
一六といえば単に明治時代の書家とのみ思われていますが、彼は単純な書家ではありませんでした。漢詩漢文においてもまた大家の一人たるを失わなかったのです。もとよりそれは、詩文の専門家のように作詩の技巧に長じていたわけではありませんが、いわゆる、筆を下せばただちに章を成すの趣がありました。画は安田老山に学び、花卉(かき)山水をよくしました。元来彼は多芸多能の人でした。書家であり、文人であり、詩家であったほか、各種の雅曲、俗曲、一通りは何でもできました。ことに雅楽はほとんど専門家の域に達していました。この点から言えば彼は風流通人の肌合いを持ち、その性格も磊落闊達(らいらくかったつ)で、かつきわめて飄逸でもありました。前記のように三条公の知遇を得るとともに、木戸公などにもすこぶる愛されました。伊藤博文ともまた親しかったのです。それは三条といい、木戸といい、伊藤といい、いずれも文雅を愛好する人々でしたから、したがって彼らのあいだに一六のような能書で、しかも交わりをよくする士が重んじられたのでした。
この点から見ても、彼の書風が当時の書道界にどのようなショックを与えたかが想像されるでしょう。険勁飄逸の妙腕、すなわち六朝の書体によるその洒脱(しゃだつ)の風韻は、当時何人もこれに及ばなかったといいます。顕官諸公ばかりでなく、彼の書風を愛し、それを慕う者の多かったこともまた当然でしょう。一六は木戸の政治上の機密にも参画しました。当時、長州出身の政治家は大抵木戸を首領としてその指揮を仰いだものですが、独り井上は木戸との仲が円満にいかず、しばしば衝突することがありました。一六は木戸と井上との気まずい間柄をよく知っているから、井上が参議に任じられるときなど、木戸に向かってその不可なゆえんを力説し、反対したことがあったそうです。彼のように書家としての地位にいて、しかも政治上の問題にまで口を出しえた人も少ないでしょう。
一六は太政官に奉職していた明治初年ごろから、すでに二百円の月給を取っていました。一六の嗣子・巖谷小波の語るところによれば、「この月給ならそのころの日記で見ても、物価のまだ非常に安かった時代だから、大いに残らなければならないはずだった。実際その当時は、同僚間で申し合わせて月給の一割を銀行に預金したものだが、その預けてあった銀行がのちにとうとう破産をして、何年かの貯金はそのまま煙になってしまった」のだそうです。多芸多能であった一六が半面、はなはだ財産を殖やす道にうとかったことを知るに足るでしょう。そんなわけで、相当の金が入ったに似合わず、始終金には苦しんでいました。他人の借金の連帯保証を引き受け、それがたたって、生涯根絶やしにできない「貧乏神の氏子(貧乏から抜け出せない人)」になったのでした。これも小波の話ですが、小波が十七、八歳のころ、時々差し押さえにおびやかされたり、整理問題で頭を悩ましたりしました。そのために夫人は一時神経衰弱にかかりかけ、はた目にも気の毒なほどやつれていたといいます。小波が廃嫡別居ということになったのも、実はこの負債のためであったといいます。

病中遺作
巖谷一六は明治三十八年(1905年)七月、東京麹町区元園町の自宅において病没しました。享年七十一と底本は記しています。
生前、病があらたまるや、勲位各一級を進められ、従三位勲二等に叙せられました。彼は病床にあって、次のような一詩を作って主治医に贈っています。一読して彼の心境をうかがうことができるのでそれを引用しますが、ことにこの詩には、彼のひょうきんなところがよく出ています。原文は漢文ですが、底本が原文の用語をなるべくそのままにして書き伸ばしたものを、さらに読みやすくして掲げます。
「一六老人、昨春以来、持病に悩まされ、脚は歩むことができず、腰は伸ばすことができず、足の悪いすっぽんのようなことおよそ一年半、病中に一篇を作ってその実を記すという。歳は乙巳(きのとみ)夏六月にあり。記して主治医多納先生に呈し、感謝する。七十二老人一六居士。
これ歳は甲辰(きのえたつ)、新暦をひらく。世上の騒動まさに始まらんとするとき。日露の談判ついにととのわず、陸海の砲弾の開くこと遅からず。連戦連勝の快報至り、提灯行列、花火が催される。知らず、居士は何の因果ぞ。ただ覚えるのは、病重くして老衰を加えることのみ。胃部の痙攣はしだいにはなはだしく、日々刺しこむこと錐(きり)を立てるのに似ている。先生の注射薬を借りるのでなければ、このときの苦痛は持ちこたえがたい。飲食はしだいに欠乏に赴き、いささか乳汁にたよってわが飢えをしのぐ。そうではあっても、杖による運動と、字を作り書を書くことには差し支えがない。あるいは倅(せがれ)どもを集めて謡曲を歌い、あるいは友達を招いてざる碁を囲む。暖簾(のれん)や看板はもとより引き受ける。また屏風、また墓碑。近ごろはそれもまた怠けがちになり、扇面や短冊ははなはだ大儀。ことさら両耳の遠いことを嘆くべきか。他人の言葉の意味を聞き分けられない。器械はそばにあっても間に合わず、一条の黒い管はいたずらに離すことがない。身体の疲労はたとえようもなく、手足はやせ衰えて糸より細い。老妻の看護はますます熟練し、酒蒸しも芥子(からし)の泥も、時機を誤らない。時々、小便をもよおしたかどうかと問う。あたかも芝居茶屋の女中のようである。(中略)居士はここにおいて大いに満足し、無益に愚痴を並べない。医者はみな言う、今しばらく待て、拙者どももまたわが匙(さじ)を休めようとしている、そのうち世界の人気も定まり、講和談判もよろしきに帰すであろう、わが帝国もまたこれ万々歳、居士の病気もまた癒やすことができよう、と。これを聞いて居士は喜びきわまりなく、高唱して言う。南無多納先生、わがためにはすなわちこれ瑠璃光如来、生きた薬師である、と」
手足が糸より細くなっても、暖簾も看板も屏風も墓碑も引き受け、主治医を「生きた薬師」と詠んで笑わせる。伊藤博文の弟子入りを断った謙遜な書家の最後の一篇は、こういう軽やかなものでした。飄逸とは、この人の生き方そのものだったのです。



