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井上馨の生涯|鹿鳴館を主導した長州の熱血志士・明治の元勲

井上馨の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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文久二年(1862年)十二月十二日の夜、品川御殿山に建てられたばかりのイギリス公使館が燃え上がりました。放火役の三人のうち、火が燃え上がるまでただ一人踏みとどまり、目的を達して快哉(かいさい)を叫んだ二十八歳の若侍がいます。名を志道聞多(しじ もんた)。わずか半年後に国禁を犯してイギリスへ渡り、のちに鹿鳴館で欧化を唱える井上馨(いのうえ かおる)です。

 

志士春山花輔

幕末のころ、長州藩に春山花輔(はるやま かすけ)と称する血気の若侍がいました。彼もまた吉田松陰の感化を受けて熱烈な勤王家でしたが、同時に粗暴な攘夷論者でもありました。そして当時の志士の例にもれず、無反りの大刀を腰にたばさみ、明日をも知れぬ生命の危険を感じつつ、柳暗花明(りゅうあんかめい:花街のこと)の巷(ちまた)で国家の大事を凝議していたのです。これは志道聞多の変名で、後年の侯爵・井上馨(1835〜1915年)でした。

彼は天保六年(1835年)十一月二十八日、長州に生まれました。志道聞多は旧名で、最初の洋行の直前まで志道家に籍を入れていたからです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は生まれた場所を「長州の萩」としていますが、井上馨の生地は周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)です。

 

藩主毛利の小姓役となったのが振り出しで、次に藩の世子の小姓役に転じました。彼にはっきりと思想的な影響を与えたのは松陰ですが、同時に、勤王家として早くから京都に奔走していた兄の幾太郎の影響も大きなものでした。そして兄を通じて当時の志士たちと交わりを結び、その気節を育てられたのです。君側にあったあいだは活躍の機会は少なかったのですが、藩の情勢を知ることはくわしく、久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作らと往来して、ひそかに連絡を取ることを怠りませんでした。

果然、文久二年十一月十三日、武州金沢にいる外国公使を襲撃しようとして、高杉、久坂らと剣をたたいて江戸から神奈川に向かいました。これは失敗に帰しましたが、翌十二月十二日の品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに際しては、彼と福原乙之進および堀真五郎の三人が当夜の放火役を引き受け、しかも彼は火の燃え上がるまで一人踏みとどまり、目的を達して大いに快哉を叫んだという無茶ぶりでした。これは二十八歳のときのことです。

 

※ 底本は放火役の一人を「堀真太郎」としていますが、一般には堀真五郎と伝えられています。

 

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攘夷論者変じて開国論者

彼は文久三年(1863年)五月十二日、伊藤博文らと藩金五千両を「拐帯(かいたい:持ち逃げ)」し、横浜のイギリス商館に強く頼みこんで貨物船で上海に密航し、続いてロンドンに渡りました。強硬な攘夷派が洋行する気になったのには、一つの動機があります。その前年、長州藩で横浜のジャーディン・マセソン商会から汽船ランスフィールド号を購入し、彼および数名に乗り組みを命じましたが、機関運転の技術を知る者は外国人ばかりなのをはなはだ不快として、時の海軍奉行・勝海舟の塾から土屋平四郎と高木三郎を雇い入れました。ところが船はさっぱり動きません。ここで、ぜひとも西洋へ行って実地に研究しなければならないと感じたのです。

志道、野村、山尾の三人は、一人あたり二百両ずつの旅費を渡されましたが、藩主には親しく頼んで許しを得たものの、幕府に対しては無断の洋行ですから、脱走者としての扱いです。しかし洋行の手づるはなく旅費も心細いので、留守居役の村田蔵六(大村益次郎)に二千両の無心に行くと、村田はそれでは足りまいと、秘密に五千両、藩の預かり金を融通してくれました。拐帯というのはこれです。

夜中、石炭庫に隠れて上海に着いたとき、目のあたりに見る洋船の頻繁な出入り、軍艦の停泊、市中の立派な光景に、早くも鎖国攘夷論の無謀であることを悟りました。幸いジャーディン・マセソンの支店があって各種の便宜を得ましたが、イギリス行きの目的を問われ、井上がかつて蕃書調所の辞書からうろ覚えの「ネビゲーション」という言葉を「海軍」の意味で使ったのを先方では「船乗り」と解し、乗船とともに水夫見習いの仕事をやらされ、甲板掃除からあらゆる苦役に追い回され、塩漬けの肉とビスケットばかりで南アフリカを迂回し、さんざんの憂き目にあいました。笑えぬ喜劇です。

こうして彼はロンドンに到着しましたが、まもなく新聞で馬関(ばかん:下関)における外国船砲撃事件を知り、伊藤博文と急いで帰国しました。そして藩主の前に、世界各国の法律行政、商工業の繁栄、陸海軍の整備していることを詳細に論じ、連合艦隊との休戦方針を議したのです。一方、藩内の攘夷熱は猖獗(しょうけつ:猛威をふるうこと)をきわめ、彼は売国奴のようにののしられましたが、節を曲げませんでした。が、藩主と重役が空しく日を送っているうちに連合艦隊の馬関砲撃となり、ここに彼は休戦談判に乗り出して、苦心、和議の成立に努めたのです。

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瀕死の重傷を受く

外患は去りましたが、幕府は長州征伐に大兵を差し向けることになっていました。そのため藩内は今度は恭順派と尊王派の内訌(ないこう:内輪もめ)を来たし、尊王派の高杉晋作、大村益次郎、木戸孝允らは、兵力に訴えても恭順派を圧倒しようとしました。元治元年(1864年)九月二十五日の会議に臨んだ彼は、これに対し、恭順派を痛撃しつつ、兵備を整えて幕府に対抗すると同時に表面は恭順を装うべきことを主張し、藩主の命令で一決しました。その夜、恭順派の一味に瀕死(ひんし)の重傷を負わされ、五十幾針縫ってやっと助かったのです。

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維新前後の活躍

討幕に際し、薩長はすでに攻守同盟を結んでいましたが、土佐藩主・山内容堂は公武合体論を捨てず、兵を出すのにためらっていたので、木戸孝允、大久保甲東(利通)、西郷隆盛などは憂色を浮かべました。しかし井上は、土佐藩の向背のごとき、天下の大勢に対して何の恐れるところがあろうかと叫んで、大いに断行をうながしました。その後すぐに大政奉還となるや、井上は召されて参与となり、外国事務局判事となり、ついで長崎府判事に任じられました。翌明治二年(1869年)、民部大丞に補せられて東京に転任し、さらに少輔、大輔となり、大蔵大輔に転じました。

が、時の司法卿・江藤新平の政策に反対し、閣僚の多数が江藤を支持するのに傾くと、彼は憤慨のあまり、三等出仕の渋沢栄一を誘って一片の建議を上り、連袂(れんべい:連れだって)辞職して建議の全文を『日新真事誌(にっしんしんじし)』に発表させました。当時、大蔵卿は大久保甲東でしたから、井上が事実上の蔵相だったのです。その内容は、このままでは政府の財政は行き詰まるという趣旨で、至極もっともな忠告ではありましたけれども、政府の大官であった者が職を辞するとただちに連名で内情暴露の手段に出たというので、物議囂々(ごうごう)としました。政府はそこで捨てても置かれず、急に大隈を大蔵省事務総裁に任じて弁明書を発表させ、時を同じくして『歳入見込会計表』をも発表させました。これこそ実に、予算決算公表のさきがけをなすものです。

井上はその後、郷里に帰り、大阪に出て米穀輸出商会を設立し、熱心に国産の増大に力を尽くしました。しかも野にあっても政治のことは念頭を去らず、明治八年(1875年)の大阪会議のようなものも、彼の斡旋(あっせん)によるところが少なくなかったのです。

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条約改正と鹿鳴館の舞踏

彼はふたたび明治十一年(1878年)、伊藤博文の勧めによって参議となり、工部卿を兼ね、のち外務に転じました。外交の上では、明治八年(1875年)の江華島事件のあと、黒田清隆とともに特命副全権弁理大臣として朝鮮に渡り、翌九年に日朝修好条規を結んだことがあり、また十七年の京城事変(甲申事変)にも特派全権大使として赴いて、時局を有利に収めた功があります。越えて明治十八年、内閣制度が布かれると、伊藤内閣の専任外相として、もっぱら不平等条約改正の衝にあたりました。改正の眼目は治外法権の撤廃と税率の変更、すなわち税権の回復ですが、当時、英米その他の外国は法律慣習の相違、文化の差を理由として容易に日本政府の主張を認めようとしません。そのうえ国内にはまだ攘夷熱のほとぼりが残り、排他的思想と固陋(ころう)な武断主義の傾向がないとは言えませんでした。

しかし井上は、何としても条約改正を貫かなければならぬ決心で、外国人の反対理由を除き、わが国の文化が必ずしも欧米に劣らないことを知らせるため、正式談判のかたわら、伊藤らとともに率先して欧化主義を唱え、和魂洋才の必要を宣伝したのです。工費十八万円を投じてできた日比谷の鹿鳴館(ろくめいかん)に、連夜のように舞踏会が催されたのはこのころです。勅奏任官、華族および外国公使、お雇い外国人ならびにそれらの夫人令嬢に限って入会を許しました。それにつれて洋服会、慈善会から演劇改良会、ローマ字会などが企てられ、ついには洋食稽古の会、交際法の練習、国際結婚による人種改良会などまで現れました。もとより井上らの意志はまったく条約改正の方便と、国民の島国的観念の打破にあるので、単なる欧米心酔ではありませんでしたが、新奇のみを好む末流のなかにはこれを誤らせた者も多く、やがてそれらが一部朝野の激憤を買い、改正談判の頓挫(とんざ)とともに辞職せざるをえなくなったのは、実に遺憾でした。

その後、第二次伊藤内閣に内相として、第三次伊藤内閣に蔵相として座りましたが、元老となるに及び、それから後は政治の表面に出なくなりました。

 

※ 底本は「第一次、第三次の伊藤内閣に内相として、蔵相として」としていますが、井上が内務大臣を務めたのは第二次伊藤内閣(明治二十五〜二十七年)、大蔵大臣は第三次伊藤内閣(明治三十一年)です。

 

意志の強い、情味の豊かな人で、伊藤に対しては陰に陽に脇役をつとめ、よく伊藤の仕事の完成に尽くしました。また彼は、民間経済界の発達を計り、国家産業の興隆に着目し、藤田、三井その他実業界を指導し育成するのに力がありました。ちなみに、後年「華族鉄道」といわれた日本鉄道会社の基礎にも、彼の助言が大いに働いています。大正四年(1915年)九月一日、八十一歳で没しました。

公使館に火をつけた男が、半年後には水夫見習いとしてイギリスへ渡り、帰ると売国奴と呼ばれ、刺されて五十針を縫いました。それでも節を曲げなかった人が、晩年には舞踏会の主人として笑われたのです。火をつけるのも、踊るのも、この人にとっては同じ一つのことだったのでしょう。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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