「まあ、この寒いのに、そんなはだしで!」
大雪の朝、北越の私塾にただ一人やって来た少年は、下駄を手にぶら下げていました。家を出てすぐ鼻緒が切れたので、すげ直していては遅れると、雪道の大半をはだしで歩いてきたのです。この少年がのちに、明治の仏教界と思想界に「今釈迦(いましゃか)」と呼ばれる大活躍をし、東洋大学のもとになる哲学館を創った井上円了(いのうえ えんりょう)です。
北越の雪
「この大雪では、今日は誰も、子どもは来ないだろうな」
障子を押し開けて、庭に積もってゆく大雪をうち眺めながら、石黒忠悳(いしぐろ ただのり)は妻を顧みました。名にし負う北国の雪です。昨夜来の底冷えのする寒さは、朝になって降りしきる雪となりました。めいるような静かな朝を、見渡すかぎり雪はしんしんと降ります。さすがに往来には人馬の影ひとつ見えません。と、戸外に下駄の雪をこつこつとたたき落とす音が聞こえました。
「まあ、やはり来ましたね」
ほほえみながら妻は答えて、忠悳の顔を眺めるのでした。雪の日など、私塾に通う子どもたちは多くが欠席がちでした。だが一人の少年だけは、いかなる大雪の日も休むことなく、かじかんだ手先を息であたためながら、熱心に通い続けたのです。ある日のこと、その少年ははだしでやって来ました。
「まあ、この寒いのにそんなはだしで!」
下駄をぶら下げている少年を眺めながら、忠悳の妻はわけをたずねました。
「家を出るとすぐ途中で鼻緒が切れてしまったのです」
「帰ってすげて来たらよかったのに!」
「でも、そんなことをしていると遅れてしまうから」
このいたいけな少年は、遠い雪道の大半をはだしで歩いてしまったのです。こうして雪の北越に、少年の努力は幾星霜か続けられました。この少年こそ後年、福田行誡(ふくだ ぎょうかい)、原坦山(はら たんざん)、雲照(うんしょう)らの名僧とともに明治の仏教界、思想界に大活躍をなし、「今釈迦」と呼ばれた井上円了でした。

念願
井上円了は安政五年(1858年)、新潟県三島郡浦村(のちの来迎寺村、現在の長岡市)の真宗大谷派の寺、慈光寺に生まれました。慶応三年(1867年)、十歳のとき、同郡津村の蘭医・石黒忠悳の塾に漢学を学び、のち、本願寺の給費生(きゅうひせい:学費を支給される学生)として明治十八年(1885年)に東京大学文科哲学科を卒業しました。これは仏教各宗を通じて最初の文学士でした。ときに二十八歳です。
幼いころから井上の学才と俊鋭な天性とを愛していた石黒忠悳は、さっそく時の文部大臣・森有礼(もり ありのり)に彼を推挙し、文相も彼を大いに抜擢しようとしましたが、井上はこれを固辞して受けませんでした。
「自分は本願寺の給費生で大学を出た。それなのに今官途につくことは、本願寺に対してまことに済まぬ。自分の生涯の念願は、衰えた現在の仏教を再興し、宗教的な教育事業によって国民教化の実をはかりたいのである」
この堅い信念と理想のもとに、彼は恩師や先輩の勧めも固辞し、また京都大谷派本山からの懇望(こんもう)をも退け、自らは一俗人となって瀕死(ひんし)の状態にある仏教に活を入れ、独力でよく学校教育の事業にあたろうと決心しました。こうして信念の男、井上の活動ははじめられたのです。

爆弾の書『仏教活論』
彼が大学を出ると同時にまず着手したのは、自ら学び得た西洋哲学の深い理解と熱火のような信念とによって、仏教的真理が何物であるかを一般民衆に知らせることでした。当時はあたかも明治の中期であり、世はこぞってまったくの欧化心酔の有様でした。神道・儒教・仏教の三道は旧時代の遺物としてあしらわれ、それに引きかえ、外国から輸入されたキリスト教に対する熱はなかなか盛んなものでした。彼はこの風潮を静かに学窓から眺めていました。遠くはソクラテス、プラトンのギリシアの文化に思いをはせ、近くはカント、ヘーゲルの端厳壮大な哲学思想に深く傾倒した彼は、さらに世人の顧みない古色蒼然(こしょくそうぜん:古びた様子)たる仏教哲理のうちに、東洋精神の偉大な精華、西欧思想以上に深く厳かでかつ雄大な思想が隠れていると考えたのです。
世は滔々(とうとう)として欧米模倣に自らの魂を忘れようとしています。大学の講壇には外国人教師が立ち、哲学といえばカントやヘーゲルのみが思い出されるという有様のときにあたり、白面の一書生・井上円了が世に投じた『仏教活論』の一書こそ、まさしく当代の思想界、宗教界に爆弾を投じたものと言えましょう。洛陽の紙価を高めた(らくようのしかをたかめた:本がよく売れた)この一書は当代第一の著作と賞賛され、これによってはじめて仏教は新しい面目をもって民衆の注意を引き、仏教界はまことに新紀元を画するに至ったのです。「宗教のごときは太陽の前の蛍火だ」と軽蔑した時の東京帝大総長・加藤弘之のような人も、青年円了の火のような烈々たるこの意気に遭って、わけもなく賛意を表したといわれています。さらに境野黄洋(さかいの こうよう)らも、彼が仏教を学ぶに至った動機は、実にこの一書によって大いに感奮するところがあったからだと言っています。
学者は真理を愛さなければならぬ。そしてその真理とはキリスト教にあるのではなく仏教のうちにあり、このゆえに仏教を護持拡張することは同時に愛国である。そして仏教の哲理は進歩した学問に一致して違背しない。これが彼の主張でした。『仏教活論』の一書は、この内容をもって、当代の欧米心酔に対する、いわば若き東洋への呼びかけだったのです。

哲学館の創設
彼が畢生(ひっせい:一生をかけた)の大事業としたのは、哲学館(のちの東洋大学)を起こし、仏教精神によって人材の養成に鋭意努力したことです。この哲学館が創立されたのは明治二十年(1887年)九月で、まだ井上が大学を出て間もないころです。彼ははち切れるような熱と意気とを持って東洋哲学の確立を強調し、哲学館創設の趣意書(しゅいしょ:目的を述べた文書)を各方面に配って、大いに天下の世論に訴えるところがありました。たまたまそれが勝海舟の手元に入りましたが、じっと見ていた海舟は言いました。
「こんな哲学なんかを盛んにしたいなどと思うものがあるのか。いずれ相当の年輩のものであろう」
「いえ、若い男のようですが」
この側近の者の言葉に妙に興味を感じた海舟は、そこで井上に会ってみようということになりました。
「世間のことはいくらよいことでも金がなくては駄目。自分も後援するから、まあ、あんたも金を造りなさい」
こう言いながら海舟の投げ出した紙包みを受けて、あとで開いてみると、そこには大枚百円の金が入っていました。まだ学生上がりの一介の青年だった井上は、これにすっかり驚きます。ここに彼はこの海舟の激励を受けて大いに感奮するところがあり、自らの信じるところをいよいよ堅くするに至りました。
この哲学館がのちの東洋大学に発展するまでには幾多の困難に遭遇したのですが、そのあいだ、勝海舟、加藤弘之、目賀田種太郎(めがた たねたろう)らの有力な支持を得て、最初は本郷湯島の麟祥院(りんしょういん)の境内で始められました。当時、哲学を私立学校で教えたのは最初であり、また東洋に哲学ありというその主張がいたく世人の注意を引いたのでしょう。最初の入学者は実に千人を突破しました。そのなかには境野黄洋、高島米峰(たかしま べいほう)、鷲尾順敬(わしお じゅんきょう)、河口慧海(かわぐち えかい)、安藤正純(あんどう まさずみ)らの学生がありました。村上専精(むらかみ せんしょう)のような人は、講師にして同時に学生という調子でした。

哲学の通俗化と妖怪博士
このように、井上の仏教界に対する貢献は、百二十余部にのぼる膨大な著述によって、あるいは実際の教育事業によって行われましたが、さらに忘れてならないことは、彼が哲学の通俗化に尽くしたことです。当時、まだ哲学といえば「鉄の学問」であり、井上がたまに地方にでも行けば、鍛冶屋の先生が来たと思われるような時代でした。このあいだにあって彼は、著述に事業に、あらゆる方法を講じて人生哲学を普及し、後年のわが国における哲学思想発展の基礎を固めたのです。
また彼は、学生時代から哲学会と『哲学雑誌』の創設のために働き、一方で哲学書院なるものを経営して宗教哲学に関する新刊を続々と出版し、さらに哲学を象徴する哲学堂なるものを造って、釈迦、孔子、ソクラテス、カントを祭り、四聖祭を行うなど、哲学を民間に普及させる上に大きな貢献をなし、自らも通俗哲学者であることをもって任じていました。
このように彼は、井上円了といえばただちに「哲学」を思わせるほど哲学の通俗化のために尽くしたのですが、さらに彼は「おばけ博士」「妖怪博士」の名で呼ばれるに至ります。明治二十年ごろから、彼は世間に流布されていた妖怪に関する研究をはじめました。これも哲学の立場から妖怪迷信を一掃し、国民の思想を健全な発展へ導こうとする彼の切なる願いの現れでした。彼はまたこの迷信打破を実行しました。自らの家を鬼門をよけずに造り、世人がいやがる四四四の電話番号をもらい受け、迷信打破の実際の啓蒙的役割を敢行したのです。

彼の晩年
明治三十九年(1906年)一月、彼は多病のため哲学館大学の学長をやめ、府下和田山の哲学堂に退隠しました。しかし彼の活動は止みません。三十九年四月から、大正八年(1919年)六月に大連で客死するまで、前後十四年間、日本全国を巡遊し、社会教育家として多大の貢献をしました。「家には卒中の系統がある」。彼はこの自覚のもとに、毎年一月、遺言状をしたためておきました。その最後の遺言状のなかには、哲学堂の始末、自分の遺体の始末、夫婦の法名、墓地、そのほか命日のことに至るまで詳しくしたためてあり、いかにも細心周到な彼でした。まことに彼こそは、著述に教育に、烈火の信念を燃やしつつ獅子奮迅(ししふんじん)の生涯を生き抜いた、まれな偉人でした。
鼻緒が切れても、すげ直すより歩くことを選んだ少年は、大人になっても同じでした。官職を断り、本山の招きを断り、哲学を町の人に届けるために全国を歩いて、旅先で倒れたのです。「哲学の通俗化」とは、雪道をはだしで行くようなことだったのでしょう。


