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伊藤左千夫の生涯|牛乳屋から歌壇の王座へ上り詰めた「牛飼い歌人」

伊藤左千夫の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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牛飼が歌よむ時に世の中のあたらしき歌大いに興る

明治三十三年(1900年)の正月、根岸の正岡子規の家に、本所で牛乳屋を営む三十七歳の男が訪ねてきました。それまで新聞紙上で子規と論争していた相手です。男はその場で門下となり、やがてこの歌を詠みました。人も我も「牛飼左千夫」と呼んだ、伊藤左千夫(いとう さちお)です。

 

子規に会うまで

明治三十三年一月三日、伊藤左千夫ははじめて子規を訪ねました。それから左千夫は、子規を中心とした根岸短歌会の例会にいつも出席するようになります。例会は常に議論百出で、夜更けになってようやく解散しました。左千夫が家へ帰り着くのは暁(あかつき)でした。冒頭の歌は、その例会の席上で、まだ参加して間もないころに彼が作った歌です。大胆率直、苦渋の跡なく、清新の気があふれていると、子規は激賞しました。そしてこの歌において作者自身が歌っているように、牛飼左千夫が出て、この新しい歌は大いに興ったのです。左千夫はその時分、本所茅場町(ほんじょかやばちょう:現在の東京都墨田区)で牛を飼いながら牛乳屋をやっていました。それで人も我も「牛飼左千夫」と呼んだのです。

彼は元治元年(1864年)八月、千葉県成東(なるとう)町に生まれました。農家の四男で、幸次郎といいます。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は生まれた日を「八月十四日」としていますが、一般の年譜では八月十八日です。

 

後年彼が、

秋立てや空の真洞はみどり澄み沖べ原のべ雲とほく曳く

と歌った、九十九里浜の育ちです。村で小学校を終えましたが、維新後間もない当時の社会は活気にあふれていて、青年の気風はいちじるしく進取的でした。スマイルズの『自助論』などがむさぼり読まれたことでもわかります。幸次郎も村にくすぶっていたくはありませんでした。それで十八歳のときにとうとう上京して、明治法律学校に入学しました。大臣、参議になるつもりだったのです。しかし彼は生まれつき目が悪く、進行性の近視がひどくなって勉強を続けることができなかったので、一年もしないうちに九十九里浜に舞い戻らなければなりませんでした。

だが彼の気性として、とうてい家に落ち着いてはいられません。二十二のとき、ふたたび上京しました。今度は実業家になろうという目的でしたが、懐にして来た資本金はわずかに二円でしたから、どうしようもありません。そこである牛乳屋に入りました。これが縁となって、彼は一生牛乳屋をやることになったのです。彼は力士のような体格の偉丈夫で、身体頑健、精力にあふれていました。その体でみっちり働いて、二十六歳のときまでにいくらかの資本を稼ぎ出し、それから本所茅場町で牛乳搾取販売をはじめます。そして秋には故郷からとく子という妻を迎えました。彼はますます働きました。一日に十八時間働き通すことも珍しくなく、それは牛乳屋仲間でも評判になったほどです。

明治二十六年(1893年)、彼が三十歳のときでした。それくらい働いた人ですから、少しは生活に余裕もできました。それで、親しい同業者の伊藤並根(いとう なみね)という人に誘われるままに、和歌と茶の湯を学んでみる気になったのです。並根は大した歌人ではありませんでした。彼の先代の聴雨(ちょうう)が相当知られた歌人兼俳人であったので、その父の感化を受けて、おのずと歌や茶の湯をもてあそぶようになった、いわゆる「風流人」でした。しかしこの人によって、牛飼いの体のなかに眠っていた詩人伊藤左千夫が目覚まされたのです。幸次郎は並根に伴われて、そこここの歌会に出席するようになりました。当時の号を春園(しゅんえん)といい、「さちを」ともいいました。これがのちに左千夫に改められたのです。そうして四、五年たつうちに、左千夫の歌には、もはや先輩の並根らの追随を許さない独自の作風ができ上がっていました。

こうして明治三十一年(1898年)になって、彼ははじめて当時の大新聞『日本』に「非新自賛歌論」という論文を投書しました。これが子規の『歌よみに与ふる書』に先立つこと二日、すなわち二月十日の紙上に掲載されて、歌壇に囂々(ごうごう)たる議論をまき起こしたのです。それを皮切りに、それから子規とともに轡(くつわ)を並べて大いに歌壇革新の気勢を上げはじめましたが、また子規とも当時はいささか意見を異にし、盛んに議論の応酬をしたものでした。こうして無名の歌人左千夫は、一躍その名を歌壇にはせるに至ります。それから三十三年になって、左千夫は論敵の子規を訪問し、その門下になりました。彼と論争しているうちに、彼の見解に自分のそれよりも一日の長があることがわかった。それに作歌の技量も自分よりすぐれていると感じた。そして自分の論敵に対して、しだいに尊敬の念が起こってきたのです。子規は自分よりも三つ年下でした。しかし彼は甘んじて門下となったのです。これは常人にはとうていできないことで、「偉大なる田舎漢」といわれた彼の偉さを物語るものでしょう。

子規は明治三十五年(1902年)に死にました。だから子規と左千夫との交際は、わずかに三年間です。子規を失った左千夫は、険阻な芸術の山道をよじ登る杖を失い、一時途方に暮れました。しかしついに、子規なきあとはただ『万葉集』のみが師であると悟ったのです。そして心血を注ぐ研究がはじまりました。その研究によって彼は子規を継承しながら、雄大豪壮な万葉ぶりをもって子規を超え、さらに深く短歌の神髄へと肉薄していったのです。そしてついに、万葉以後千数百年、現在に至るまでいまだ「比肩しうるものなき短歌界の王座」に到達したのでした。古泉千樫(こいずみ ちかし)の調査によれば、彼の作り出した長歌は百三十三、旋頭歌(せどうか)十、詩十六、短歌二千四百五十一首。これはいずれも、「強き実感に根ざすべきこと」「強き主観の動きが、さながらに歌の上に響いて居るべきこと」「歌の生動は主として歌の声調に現はれること」という彼の歌論の三つの根本観念を、そのまま生かしているものです。

子規なきあとの彼の活動はめざましいものでした。『馬酔木(あしび)』『アララギ』を創刊して多くの後進を指導養成し、左千夫の歌風が天下を風靡(ふうび)するに至って、短歌の黄金時代が現出しました。島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、石原純、中村憲吉、土屋文明、胡桃沢勘内(くるみざわ かんない)など、底本が書かれた昭和の初めの歌壇の大家たちは、いずれも彼の門から出たのです。なお彼は明治三十九年(1906年)、四十三歳のときに『ホトトギス』に処女作の小説『野菊の墓』を発表して以来、多くのすぐれた小説を書きました。『東京日日新聞』に連載した二つの長編小説『分家』および『分家続編』が代表作です。なおまた、

冬の日のあかつき起きに貰ひたる山茶花いけて茶をたてにけり

短歌と同時に伊藤並根に手ほどきされた茶の湯を、これもまた彼が一生研究し続けたことも面白いところで、茶の湯でも彼は大家となりました。

伊藤左千夫の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

永遠の青年

よきも着ずうまきも食はず然れども児等と楽しみ心足らへり

彼には八人の子がありました。その七人目の子が生まれたとき、彼は次のように歌っています。

七人の子の親なれば何ごとも手まはりかねつうとしとおもふな

事実、子どもの多い彼の生活は楽ではありませんでした。それに、東京市内では牛を飼えなくなったので、茅場町には、ときどき読書や著作や休養に通うために茶室だけを残して、当時市外だった亀戸へ牛舎と住宅を移しましたが、その土地は毎年恐ろしい水害に見舞われ、少なからぬ損害をこうむりました。

灯をとりて戸におり立てば濁り水動くが上に火かげただよふ

しかし、こうした生活の労苦のなかから、彼は万葉の古調を写しながら、しかも常に生々しい生活の実感にあふれたよい歌を残しました。彼の巨大頑健な肉体には、くんでもくんでも尽きない生活力が宿っていたのです。確かにそれは、生活の苦闘と同時に芸術の精進とを不断に押し進めさせた牛のような粘り強さと、実生活の上にも芸術の上にも見いだされた彼の永遠の若さとの源泉でした。彼は年五十にして、実に青年のような恋愛をしています。

胸つまるいたき思ひに黙せれど黙しにも堪へず手をとり起つも

事実、彼は年はいくつになっても、まったくの青年でした。彼の親友・長塚節(ながつか たかし)は彼よりずっと年下でしたが、この二人が話しているところを見ると、彼のほうがはるかに若々しかったといいます。

 

※ 底本は節を「二十も年下」としていますが、節は明治十二年(1879年)の生まれで、左千夫とは十五歳違いです。

 

また彼はいつも自分の弟か子どものような青年と交際し、熱心に語り合い、時のたつのも忘れるという風でした。いつも粗末な木綿の着物で、無頓着に胸をはだけ、色も黒く、容貌も動作も男性的な彼と向かい合っていると、青年たちはつい年齢の隔たりなどを忘れてしまいました。それに人一倍大食で、どんなものでもうまそうに食うので、一緒に食事をしていると誰しも愉快になり、思わず食を過ごしてしまったといいます。彼はまた常に若い人々から学ぼうとしていました。新しい科学の話なども、好んで弟子の大学生たちから聞くのでした。だが、さすがに晩年になると、

霜月の冬とふこのごろ只曇り今日もくもれり思ふこと多し

こうした憂鬱におちいることもありました。大正二年(1913年)七月三十日、この「偉大な田舎漢」は、亀戸の自宅で脳溢血(のういっけつ)で倒れ、ふたたび起ちませんでした。まったく突然のことでした。遺骸は亀戸の普門院墓地に葬られました。著書としては『左千夫歌集』『左千夫歌論集』その他が残っています。

一日十八時間働いた牛乳屋が、三十を過ぎて歌をはじめ、三つ年下の論敵に頭を下げて弟子になりました。牛を飼い、八人の子を育て、水害と闘いながら詠んだ歌が、万葉以来の王座と呼ばれたのです。学問の道を目でふさがれた少年の、それが答えでした。

伊藤左千夫の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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