PR

市川小団次の生涯|蹴られた上草履を懐に抱き名優となった歌舞伎役者

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

子供芝居の花形

 

文政の末から天保の初めにかけて、京都の和泉式部座という子供芝居に、市川米蔵という花形役者がいた。一座の者はみな二十歳前という少年ばかり。だが、立派に芝居を演ってのけることでは大人も顔負けで、中でも米蔵の達者さは土地の好劇家たちの評判の的だった。『忠臣蔵』の由良之助、『四谷怪談』のお岩、『千本桜』の狐忠信という風に、二枚目でよし、女形でよし、その上身体がすばしこくて宙乗りや立廻りがあざやかだった。この米蔵こそ、後年、徳川時代末期に名優の名をほしいままにした市川小団次(いちかわ こだんじ)なのであった。

彼は、文化9年(1812年)、江戸市村座の火縄売り栄蔵の子として生まれ、幼名を栄太と云った。芝居者にはすまいという父の思慮から、幼い時から新場の仲買商・本牧屋へ丁稚奉公に出されたが、栴檀(せんだん)は双葉より芳し(かんばし)の例えの通り、奉公を嫌って暇さえあれば役者の真似をしている。父はやむなく彼を引き取って、当時江戸梨園の人気を一身に背負っていた七代目市川団十郎の許に入門させ、名を栄蔵と改めさせたのが文政3年(1820年)、彼の9歳の時だった。

翌年3月、中村座の初舞台を踏んで、『伊達模様』(団十郎の不動)に千松を勤めた。憧れの舞台に立つことが出来て、欣喜雀躍している少年の彼に、降って湧いたように不幸な出来事が起こった。母が色恋沙汰で家を去ってしまったのである。面目を潰して世間を狭めた父に連れられ、彼は名古屋へ旅立たねばならなかった。

中山楯蔵(のちの二代目市川男女蔵)の周旋で二代目市川升蔵の弟子となって市川米蔵と名乗り、松阪、古市などの子供芝居に勤めること数年、文政7年(1824年)13歳にして京都へ上って和泉式部座へ出るようになったのである。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

歌舞伎全盛の時代

 

文化・文政の頃は、徳川時代の最後の華やかさを示した時期である。名宰相と唱われた松平定信の勤倹奨励(きんけんしょうれい)の施政も、財力の豊かな三都(江戸・大坂・京都)の商人たちの贅沢の前には、なんの効き目もなかった。金のない幕府や領主の取り締まりが厳しくなればなるほど、富裕な町人たちは武士に出来ない奢侈(しゃし:贅沢)な生活を誇った。

町人の芸術として生まれ、町人の芸術として発達した歌舞伎劇が、この風潮に乗って絢爛(けんらん)たる黄金時代を作ったのは、全く当然のことだった。

俳優の名人上手が相次いで現れた。技巧は洗練され、時代・世話混淆(こんこう)の趣味本位の狂言が復活し、鳴物・お囃子は甘美になり、舞台装置は繊細精巧を競った。しかし、舞台の華美にばかり意を注いだ結果は、芝居がますます架空的な夢幻的なものになってしまい、ついには見物に飽かれるようになって来たのだった。

このような時期に独特の芸風をもって活躍し、後年、黙阿弥(河竹黙阿弥)と結んで、市井の下層の人々を好んで演じた、いわゆる「生世話物(きぜわもの:庶民のリアルな生活を描いた世話物)」を大成したのが小団次だったのである。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

上草履が守本尊

 

二十歳を過ぎては子供芝居にも出ていられない。天保3年(1832年)春、21歳の米蔵は、和泉式部座を去って大坂の竹田座に現れ、米十郎と改名した。それから数年の不撓不屈(ふとうふくつ)な修業が報いられて、やがて彼の名は一座の立派な看板になったのだった。

入座して十年過ぎたある日、『忠臣蔵』に千崎弥五郎を勤めていた彼は、ひどい腹痛に苦しめられた。厠(かわや:トイレ)へ入って用を足していると、いつか彼の出場の時間を遅刻してしまったのだった。すると早野勘平を演じていた座頭の璃玨(りかく:三代目嵐璃玨)の憤りが一通りではない。慌てて部屋へ戻ろうとする米十郎の顔を見るや、いきなり足を上げて蹴ったものだ。それがちょうど階段の上り口だったから堪らない。転がり落ちた米十郎の額からは血がにじんでいた。

彼はカッと逆上し、やにはに璃玨へ躍りかかろうとしたが、待て! と心に叫んだ。

「この口惜しさを芸道の上で晴らしてやらねばならない――」

傍らに落ちていた璃玨の上草履(うわぞうり)を大事に懐中にしまうと、彼はそのまま小屋を立ち去ったのである。

その後の十七年間、この上草履は彼の修業の守本尊(まもりほんぞん)だった。安政5年(1858年)の春、功成り名遂げて江戸市村座に座頭となった時、彼はたまたま江戸に下って守田座へ出ていた璃玨を、礼を厚うして自宅へ招いた。

「貴方に私の年来の芸道の守本尊をお目にかけよう――」

往年の米十郎、今は小団次となって飛ぶ鳥も落とす勢いの名優から、芸道の守本尊を見せられるというので、璃玨は光栄に身体が震える思いである。だが、眼前に出されたものは、古い上草履ではないか。怪訝な顔をして上草履を見つめている璃玨に、小団次は静かに言った。

「大坂で貴方の一座を飛び出した折に戴いた貴方の上草履です。あれから、私は自分の精進にゆるみが生じる度に、これを眺めては心に鞭打って努力を積んで来ました。今にして思えば、これは私のための厳格な師匠でもあったわけです。どうやら一人前になった今、不用になったこれを貴方にお返ししましょう」

璃玨は、かつての自分の不明を深く恥じて、小団次に謝罪したのだった。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

再び団十郎の許へ

 

竹田座を飛び出した米十郎は、しばらく舞台を休んでいた。すると、翌・天保14年、奢侈(しゃし:ぜいたく)禁止の令に触れて江戸を追われた団十郎が、大坂に来て角座へ出ることになった。彼は二十数年ぶりで再び師匠の一座で働くことになったのである。

『菅原(菅原伝授手習鑑)』の宿禰太郎とお八重、『石川染』の矢田平などがその頃の当たり芸だった。『石川染』の時に、小団次(四代目市川小団次)の名を襲(つ)ぐことを師に許された。その後数年間、師の一座にあっても、『名古屋山三』の奴鹿蔵、『忠臣蔵』の師直、『源平躑躅(つつじ)』の小萩、『七変化』の雷の宙乗り、『千本桜』の狐忠信等でますます人気を高めたが、弘化4年(1847年)の冬、36歳の彼は江戸に帰って市村座に『七変化』を出した。

江戸に出てからも彼は宙乗り・ケレン・立廻りの身軽さや、なんでも器用にこなす芸の広さで評判を取っていたが、嘉永4年(1851年)8月、中村座に出した『桜荘子(東山桜荘子)』に浅倉当吾(佐倉宗吾)を演じて百四日間の大入りを取って名声にわかに上がった頃から、その作者・二世河竹新七(黙阿弥)と相知るようになり、それから彼の本領を発揮した新作「生世話物」の上演がはじまったのである。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

芸風とその本領

 

小団次は生来体躯が矮小(わいしょう)で、容姿の上がらない俳優だった。音調もあまり綺麗ではなかった。その代わり、動作が軽いことでは天下一品という素質を持っていた。だから、江戸へ来た当時までは、怪談物の早替り、宙乗り等を得意として出していたものである。(法界坊の釣鐘(つりがね)抜け、五右衛門の葛籠(つづら)抜け、狐忠信の見台(けんだい)抜け等が、わけても有名である。)

しかし、芸道精進の熱心な彼は、そういうケレン専門で甘んじているわけはもちろんない。容姿・音調の不利な条件を克服して、地芸(じげい)でも所作(しょさ)でもあらゆる役を立派に演りこなすという至芸の域に達したのである。地芸では、立役・女方・実事も敵役も、善悪老少男女なんでも行くとして可ならざるはなかった。『菅原』で松王と覚寿と八重を、『二十四孝』で横蔵と八重垣姫を、『村井長庵』で長庵のような悪人と久八のような忠僕をという風に、二役三役兼ね演じていることを思えば、このことの一端が窺えると思う。

だが、それでもまだ彼は飽き足らなかった。その頃の歌舞伎が陥っていた誇大・架空の傾向から芝居を救おうとしたのが、晩年の彼の努力だったのである。そして、その努力は新作「生世話物」の上演という功績になって実を結んだのだった。

彼の生世話物を大成さした協力者は黙阿弥だった。元来、生世話狂言は五代目幸四郎や三代目菊五郎によって発達させられたものだが、小団次は黙阿弥の作を次々と演じつづけて、さらにそれを大きく発展させたのである。『蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)』『小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)』『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)』『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』などの名作は、それぞれ非常に当たりを取った狂言だが、それがみな黙阿弥の筆になって、小団次の初演するところだったのである。

彼が陰口に「泥坊役者」と言われたほど盗賊を演じているが、当時の市井にみなぎる下層の人々の反抗的な気持ちを、それは一つのはけ口として示したものだった。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

晩年の小団次

 

彼は芸道に凝り性だっただけに、無類の癇癖屋(かんぺきや:気難し屋)だった。彼の養子であり後に明治劇壇に「団・菊・左」と並び称された初代市川左団次は、その点の養父の面白い逸話を数多く伝えている。弟子の稽古に対しても実に厳格で、子の左団次でさえびくびくものだったという。

しかし、他に対しては謙譲で、自宅から小屋へ通う徒歩の途中、会う人ごとに丁寧へ頭を下げ、下駄の歯入れ、紙屑拾いにまで分け隔てがなかったという。

慶応2年(1866年)2月、守田座に『末広曾我』の河津の亡霊・工藤・鋳掛松を演じたのを最後として、たまたま発令された世話狂言取締に苦笑しつつ病気で舞台を退いていたが、5月8日、高島屋米升(小団次の俳号)はついに55歳で亡くなった。彼には左団次の他に庶子があり、その人が後の五代目小団次である。

 

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

タイトルとURLをコピーしました