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市川小団次の生涯|蹴られた上草履を懐に抱き名優となった歌舞伎役者

市川小団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「あなたに、私の年来の芸道の守り本尊をお目にかけよう」

安政五年(1858年)の春、江戸の名優となった市川小団次(いちかわ こだんじ)は、たまたま江戸に下ってきた大坂の役者を自宅に招き、そう言って一つの品を差し出しました。それは、古びた一足の上草履(うわぞうり)でした。十七年前、その役者に蹴り飛ばされたときの草履です。

 

子供芝居の花形

 

文政の末から天保の初めにかけて、京都の和泉式部座(いずみしきぶざ)という子供芝居に、市川米蔵(よねぞう)という花形役者がいました。一座の者はみな二十歳前の少年ばかりです。けれども立派に芝居をやってのけることでは大人も顔負けで、なかでも米蔵の達者さは、土地の芝居好きたちの評判の的でした。『忠臣蔵』の由良之助、『四谷怪談』のお岩、『千本桜』の狐忠信というふうに、二枚目でよし、女形(おんながた)でよし、そのうえ体がすばしこくて、宙乗りや立ち回りがあざやかでした。この米蔵こそ、のちに徳川時代の末に名優の名をほしいままにした、四代目市川小団次なのです。

小団次は文化九年(1812年)、江戸の市村座の火縄売り・栄蔵の子として生まれ、幼名を栄太といいました。芝居者にはすまいという父の考えから、幼いときから新場(しんば:日本橋の魚市場)の仲買商・本牧屋(ほんもくや)へ丁稚(でっち)奉公に出されましたが、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」のたとえどおり、奉公をいやがって、暇さえあれば役者のまねをしています。父はやむなく彼を引き取って、当時江戸の芝居の人気を一身に背負っていた七代目市川団十郎のもとに入門させ、名を栄蔵と改めさせました。文政三年(1820年)、九歳のときです。

翌年三月、中村座で初舞台を踏み、『伊達模様』の千松をつとめました。あこがれの舞台に立つことができて喜びはねていた少年に、降って湧いたように不幸な出来事が起こります。母が色恋沙汰で家を去ってしまったのです。面目をつぶして世間がせまくなった父に連れられ、彼は名古屋へ旅立たなければなりませんでした。そこで中山楯蔵(なかやま たてぞう:のちの二代目市川男女蔵)の世話で二代目市川升蔵の弟子となって市川米蔵と名乗り、松坂、古市などの子供芝居に勤めること数年、文政七年(1824年)、十三歳で京都へ上って、和泉式部座へ出るようになったのです。

 

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歌舞伎全盛の時代

 

文化・文政のころは、徳川の時代の最後のはなやかさを示した時期です。名宰相とうたわれた松平定信(まつだいら さだのぶ)の倹約奨励の政治も、財力の豊かな三都(江戸・京・大坂)の商人たちのぜいたくの前には、なんの効きめもありませんでした。金のない幕府や領主の取り締まりがきびしくなればなるほど、富裕な町人たちは武士にできないぜいたくな暮らしを誇ったのです。町人の芸術として生まれ、町人の芸術として発達した歌舞伎が、この風潮に乗って絢爛(けんらん)たる黄金時代をつくったのは、まったく当然のことでした。

俳優の名人上手が相次いで現れました。技巧は洗練され、時代物と世話物をまぜた趣味本位の狂言が復活し、音楽やお囃子(はやし)は甘美になり、舞台装置は繊細さと精巧さを競いました。けれども舞台の華美にばかり心を注いだ結果、芝居はますます架空の、夢のようなものになってしまい、ついには見物に飽きられるようになってきていたのです。このような時期に独特の芸風で活躍し、のちに河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)と組んで、町の下層の人々を好んで演じた、いわゆる生世話物(きぜわもの:当時の庶民の暮らしをありのままに描いた芝居)を大成したのが、小団次でした。

 

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上草履が守本尊

 

二十歳を過ぎては、子供芝居にも出ていられません。天保三年(1832年)の春、二十一歳の米蔵は和泉式部座を去って大坂の竹田座に現れ、米十郎(よねじゅうろう)と改名しました。それから数年の不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難にもくじけない)の修業が報われて、やがて彼の名は一座の立派な看板になりました。

入座して十年過ぎたある日、『忠臣蔵』に千崎弥五郎をつとめていた彼は、ひどい腹痛に苦しめられました。厠(かわや)へ入って用を足しているうちに、自分の出番の時間に遅れてしまったのです。すると、早野勘平を演じていた座頭(ざがしら)の嵐璃珏(あらし りかく)の怒りは、ひととおりではありません。あわてて部屋へもどろうとする米十郎の顔を見るや、いきなり足を上げて蹴ったのです。そこがちょうど階段の上り口だったからたまりません。転がり落ちた米十郎の額からは血がにじんでいました。彼はかっと逆上して、やにわに璃珏におどりかかろうとしましたが、待て、と心に叫びました。この口惜しさは、芸の道の上で晴らしてやらなければならない。そばに落ちていた璃珏の上草履(うわぞうり:屋内ではく草履)を大事にふところにしまうと、彼はそのまま小屋を立ち去ったのです。

 

※ 相手の役者の名を底本の『日本英雄伝』は「嵐璃珏」と印刷していますが、この逸話は一般に三代目嵐璃寛(りかん)のこととして伝えられています。

 

その後の十七年間、この上草履は彼の修業の守り本尊でした。安政五年(1858年)の春、功成り名とげて江戸の市村座の座頭となったとき、彼はたまたま江戸に下って守田座へ出ていたその役者を、礼を厚くして自宅へ招きました。「あなたに、私の年来の芸道の守り本尊をお目にかけよう」と。かつての米十郎、今は小団次となって飛ぶ鳥を落とす勢いの名優から芸道の守り本尊を見せられるというので、相手は光栄に体がふるえる思いです。けれども目の前に出されたものは、古い上草履ではありませんか。けげんな顔をして上草履を見つめている相手に、小団次は静かに言いました。

「大坂であなたの一座を飛び出したときにいただいた、あなたの上草履です。あれから私は、自分の精進にゆるみが生じるたびにこれを眺めては、心にむちうって努力を積んできました。今にして思えば、これは私のためのきびしい師匠でもあったわけです。どうやら一人前になった今、不用になったこれを、あなたにお返ししましょう」

相手は、かつての自分の不明を深く恥じて、小団次に謝罪したのでした。

 

 

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再び団十郎の許へ

 

竹田座を飛び出した米十郎は、しばらく舞台を休んでいました。すると翌天保十四年(1843年)、ぜいたく禁止の令にふれて江戸を追われた七代目団十郎が、大坂に来て角座(かどざ)へ出ることになりました。彼は二十数年ぶりで、ふたたび師匠の一座で働くことになったのです。『菅原』の宿禰太郎とお八重、『石川染』の矢田平などが、そのころの当たり芸でした。『石川染』のときに、小団次の名を継ぐことを師に許されました。その後数年間、師の一座にあって『名古屋山三』の奴鹿蔵、『忠臣蔵』の師直、『源平躑躅』の小萩、『七変化』の雷の宙乗り、『千本桜』の狐忠信などでますます人気を高めましたが、弘化四年(1847年)の冬、三十六歳の彼は江戸に帰って、市村座に『七変化』を出しました。

江戸に出てからも彼は、宙乗り、ケレン(意表をつく仕掛けの演出)、立ち回りの身軽さや、なんでも器用にこなす芸の広さで評判を取っていましたが、嘉永四年(1851年)八月、中村座に出した『東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)』で浅倉当吾(佐倉宗吾)を演じて百四日間の大入りを取り、名声がにわかに上がったころから、その作者の二世河竹新七(のちの黙阿弥)と知り合うようになり、そこから彼の本領を発揮した新作の生世話物の上演が始まったのです。

 

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芸風とその本領

 

小団次は、生まれつき体が小さく、容姿の上がらない俳優でした。声の調子もあまりきれいではありません。その代わり、動作が軽いことでは天下一品という素質を持っていました。だから江戸へ来た当時までは、怪談物の早変わりや宙乗りなどを得意として出していたものです。法界坊の釣鐘抜け、五右衛門の葛籠(つづら)抜け、狐忠信の見台(けんだい)抜けなどが、わけても有名です。けれども、芸道の精進に熱心な彼が、そういうケレン専門で甘んじているわけはもちろんありません。容姿と声の不利な条件を克服して、やがて地芸(じげい:仕掛けに頼らない演技)でも所作(しょさ:踊り)でもあらゆる役を立派に演じこなす、という芸の広さで名をなすに至ったのです。地芸では、立役(たちやく:男の主役)も女方も、実事(じつごと:誠実な人物の役)も敵役も、善悪老若男女なんでも、行くとして可ならざるはありませんでした。『菅原』で松王と覚寿と八重を、『二十四孝』で横蔵と八重垣姫を、『村井長庵』で長庵のような悪人と久八のような忠僕を、というふうに、二役三役を兼ねて演じていることを思えば、その一端がうかがえるでしょう。

けれども、それでもまだ彼は満足しませんでした。そのころの歌舞伎がおちいっていた誇大で架空の傾向から芝居を救おうとしたのが、晩年の彼の努力でした。そしてその努力は、新作の生世話物の上演という功績となって実を結んだのです。彼の生世話物を大成させた協力者は黙阿弥でした。もともと生世話の狂言は五代目松本幸四郎や三代目尾上菊五郎によって発達させられたものですが、小団次は黙阿弥の作を次々と演じ続けて、さらにそれを大きく育てたのです。
『佐倉宗吾』『宇都谷峠』『鼠小僧』『小猿七之助』『鬼坊主』『三人吉三』『村井長庵』『和國橋藤次』『腕の喜三郎』『御所五郎蔵』などは、それぞれ非常に当たりを取った狂言ですが、いずれも黙阿弥の筆になり、小団次が初演したものです。

彼はかげ口に「泥坊役者」と言われたほど盗賊を演じていますが、それは、当時の町にみなぎる下層の人々の反抗の気持ちを、一つのはけ口として示したものでした。

 

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晩年の小団次

 

彼は芸道に凝り性だっただけに、無類の癇癪(かんしゃく)持ちでした。彼の養子で、のちに明治の劇壇で団・菊・左と並び称された市川左団次(さだんじ)は、その点での養父の面白い逸話を数多く伝えています。弟子の稽古に対しても実にきびしく、子の左団次でさえびくびくものだったといいます。けれども他人に対しては謙虚で、自宅から小屋へ通う徒歩の途中、会う人ごとにていねいに頭を下げ、下駄の歯入れ屋や紙くず拾いにまで分けへだてがなかったといいます。

慶応二年(1866年)二月、守田座に『扇曾我』の河津の亡霊・工藤・鋳掛松を演じたのを最後に、たまたま出された世話狂言の取り締まりに苦笑しながら病気で舞台を退いていましたが、五月八日、高島屋米升(たかしまや べいしょう)、小団次は、ついに五十五歳で亡くなりました。左団次のほかに庶子があり、その人がのちの五代目小団次です。

階段から蹴り落とされた若者は、相手の草履を十七年ふところに抱いて、江戸一番の座頭になりました。体も声もめぐまれなかった人が、仕掛けを捨てて、町の盗賊や貧しい人々をそのまま舞台にのせた。その芝居は、黙阿弥の名とともに今も演じられています。

 

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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