窓の外を、さらさらと雪がかすめていきます。世間から忘れられ、置き去りにされたような、比叡山のふもと、洛北(らくほく:京の都の北)の小野の里。そのわびしい住まいに惟喬親王(これたかしんのう)を訪ねて、今と昔の移り変わりに胸をいっぱいにしていたのは、在原業平(ありわらの なりひら)でした。
忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや
雪ふみわけて君を見んとは
――うっかりすると夢ではないかと思ってしまいます。雪を踏み分けて、あなたにお会いすることになろうとは、思ってもみませんでした、という歌です。
激情家としての一面
のちの世には、花や鳥を楽しみ、恋に迷って暮らした貴公子とばかり見られるようになった歌人・在原業平ですが、彼にはこういう一面があったのです。
業平は、藤原氏が思うままにふるまうのを快く思っていませんでした。そのうえ、かねてから惟喬親王と親しくしていました。業平は平城天皇(へいぜいてんのう)の皇子・阿保親王(あぼしんのう)を父に持ち、文徳天皇(もんとくてんのう)の長子である惟喬親王とは、姻戚(いんせき:結婚によってつながった親類)の間柄でもあったのです。
文徳天皇は、賢明との評判の高かった惟喬親王に位をお譲りになるお心でした。けれども、藤原良房(ふじわらの よしふさ)の権勢をはばからなければならない事情がありました。心ならずも、良房の娘の染殿の后(そめどののきさき)に生まれた第二の皇子・惟仁親王(これひとしんのう)を、まだ幼いのに皇太子に立てられたのです。弟に先を越された惟喬親王は、心中おもしろくなく思われ、世をはかなんで、ご自分から閉じこもってしまわれました。
業平が親王に同情をおさえきれなかったのも、無理はありません。ままならない浮き世を嘆き、そこから逃れて和歌に隠れ、わずかに心を慰めていたのが、かえって恋の名手の名を歌われることになったのだ、と解釈する歴史家もいるくらいです。それは言いすぎのきらいがありますが、業平の多情多感な性質を伝えてはいます。
思ふこと云はでぞただに止みぬべき
われにひとしき人しなければ
――思うことは言わずに、ただ黙ってやめてしまうほかない。私と同じ心を持つ人は、いないのだから。こうした歌に、業平の激しい思いがよく表れています。

率直な歌いぶり
業平を、正義のために立つ豪傑のように言うのは当たりませんが、純情な人ではありました。技巧は足りなくても、その思いを注ぎつくす率直な歌いぶりにおいて、平安時代の初めの第一等の歌人であり、すぐれた歌人をたくさん出した平安時代を通じても、指折りの歌人です。六歌仙(ろっかせん:『古今和歌集』の序文にあげられた六人の歌人)にも、三十六歌仙にも数えられています。
歌を作るのに苦心するということがなく、まごころをそのまま吐き出して、血があり涙があり、まっすぐに人の胸を打ちます。『古今集』を編んだ紀貫之(きの つらゆき)は、業平の歌を「心余りて言葉足らず、しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるが如し」(思いがあふれて言葉が追いつかず、しぼんだ花の色はなくても香りだけが残っているようだ)と評しました。けれども、そこがまた業平のよいところだったのです。
小倉百人一首には、次の歌が入っています。
千早ふる神代もきかず龍田川
からくれなゐに水くぐるとは
この龍田川(たつたがわ)の絵を見ると、秋を飾った紅葉がたえまなく散りしきって、流れる水を唐紅(からくれない:あざやかな赤)の絞り染めにしている。こんなめずらしいことは、ふしぎな出来事の数知れなかった神代(かみよ:神々の時代)にも聞いたことがない、という歌です。二条の后(にじょうのきさき:藤原高子)がまだ春宮の御息所(とうぐうのみやすどころ:皇太子のきさき)と呼ばれていたころ、そこの屏風に龍田川に紅葉の流れる絵が描いてあるのを見て詠んだものです。

東下りの伝説
六歌仙の一人に、小野小町(おのの こまち)がいます。才能も美しさもすぐれた、平安時代きっての女流歌人でした。恋愛と文学に明け暮れていたような当時の貴族たちのあいだで、たいそう騒がれたものですが、見識の高い彼女は相手にしませんでした。ところが、藤原氏のはかりごとで宮仕えをやめさせられ、寄る年波に容色が衰えてくると、世間は勝手なもので、だれも見向いてくれません。
そのなかでただ一人、彼女の老いの境遇に同情を寄せてくれたのが、やはり六歌仙の一人、文屋康秀(ふんやの やすひで)でした。百人一首の「むべ山風」の歌の作者で、小町よりはずっと年下でした。歌の同好ということで付き合いがあり、自分の歌を小町に見せて批評を聞いたり、ときには直してもらったりして、小町を歌の道の先輩として仰いでいたようです。
この康秀が三河掾(みかわのじょう:三河国の役人)に任じられて赴任するとき、「どうです、憂さばらしに、田舎見物にでもいらっしゃいませんか」と誘いました。小町がそれに答えたのが、次の歌です。
わびぬれば身を浮き草の根を絶えて
誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ
――この世にもう何の楽しみもなくなったので、いっさいの執着を捨てて、お誘いくださるままに、どこへでも行ってみたい、という意味です。
そこまでは古い記録にあることですが、三河の国へ行ってからの小町は、だんだん落ちぶれて放浪者となり、ついに奥州(おうしゅう:東北地方)まで行って野たれ死にをしたと言われ、野ざらしの白骨になったまま、葬ってくれる人もなかったといいます。
一方の業平は、二条の后がまだ若かったころ、藤原氏の横暴を少しでも抑えるつもりで、その入内(じゅだい:きさきとして宮中に入ること)をさまたげようと約束したことがありました。ところが、ついにそのことが知れて捕らえられ、髪の毛をぷっつりと切られてしまいます。こうして、格好は悪いし世間の口はうるさいというので、髪の毛がのびるまでと思って東北地方へ旅に出た、と伝えられるのが、いわゆる「東下り(あずまくだり)」です。志を同じくする者と何かをたくらんだためだった、とも言われます。
草深く人もまれで、人間らしい人間の住む世界ではないかのように思われていた奥州路を、たどりたどって、八十島(やそしま)というところに一泊しました。宿といっても名ばかりで、夜露がやっとしのげる程度のつくりです。ひゅうひゅうと野を渡る風が、戸のすきまからまっすぐに飛びこんできて、寝床を襲います。多感な業平が、あれを思い、これを思って眠れずにいると、あやしいことに、風にそよぐ枯れすすきのつぶやきが、秋風の吹くたびに「あなめ、あなめ」と聞こえました。夢かと思って身をつねってみても、その声は消えません。
翌日、宿を出て、そのあたりと思うところを探してみると、白い野ざらしのどくろが一つ、ころがっていました。そのどくろの目の穴からすすきが生え出て、風の吹くたびにあやしい声となって響くのでした。土地の人に聞くと、それは小野小町のどくろで、小町がここまでさすらってきて野たれ死にをしたのだという話です。業平は哀れに思い、
おのとは云はず薄(すすき)生ひけり
と下の句をつけてやって、ていねいに葬りました。八十島は今の松島、「あなめあなめ」とは「ああ、目が痛みます」と人に苦しみを訴える意味で、「小野」の名を隠して詠んだのです。哀れで美しい物語ではありますが、事実とは言えません。第一、小町と業平は同じ時代の人で、業平が小町の骨を拾ったという証拠はどこにもないのです。もっとひどいのは、小町が業平の恋人だったとまで言うものですが、これは業平を色恋ばかりの人のように見あやまった結果です。もちろん歌仲間として知り合ってはいたでしょうが、付き合いの事実を裏づける証拠は、どこにもありません。

歌人揃いの一門
業平は、元慶(がんぎょう)四年(880年)、五十六歳で亡くなりました。生まれたのは天長(てんちょう)二年(825年)にあたります。皇族から臣下に下って、兄の行平(ゆきひら)とともに在原の姓を賜ったのも、天長年間のことでした。左近衛権中将(さこんえのごんのちゅうじょう:宮中を守る近衛府の次官)から蔵人頭(くろうどのとう:天皇の側近の長)に任じられ、「在五中将(ざいごちゅうじょう:在原家の五男の中将)」とも呼ばれました。
歌は『古今集』『後撰集(ごせんしゅう)』『拾遺集(しゅういしゅう)』『新古今集』などにたくさん入っているほか、家集(かしゅう:個人の歌集)に『在原業平朝臣集』があります。そして『伊勢物語』です。これは歌物語(うたものがたり:歌を中心にして語られる短い物語を集めたもの)のはじまりをなすもので、日本の小説のはじめと言われ、かぐや姫で知られる『竹取物語』とともに、平安時代の初めの仮名で書かれた物語の双璧(そうへき:並び立つ二つの傑作)として、文学の歴史に特別な功績を残しています。
なお、業平の兄に在原行平がいます。諸国の守(かみ:国司の長官)を歴任し、大宰権帥(だざいのごんのそち:九州の役所の次官)となり、また陸奥(むつ)・出羽の按察使(あぜち:地方の政治を監督する役)となり、一族のために奨学院(しょうがくいん:在原氏の子弟のための学校)を建てるなど、政治に尽くすこと多く、しかも歌人としてもすぐれて、風流の名を残しています。
業平には棟梁(むねやな)と滋春(しげはる)の二人の子があり、滋春と、棟梁の子の元方(もとかた)も歌人です。元方の詠んだ歌は、『古今集』の巻頭を飾っています。歌人ぞろいの一門として、業平の名はいっそう光るのです。
業平を、ただの遊び人として片づけるには、あまりに大きな魂の持ち主でした。


