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阿倍仲麻呂の生涯|唐で大出世した天才留学生の生涯

阿倍仲麻呂の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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天平勝宝五年(753年)、唐の港・明州(現在の中国・寧波)。三十六年ぶりに故国へ帰る船に乗ろうとしていた一人の日本人が、広い海の上に昇る月を見て、思わず歌いました。

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

——大空をふり仰ぐと、月が出ている。あれは、故郷の春日の三笠の山に出ていたのと同じ月なのだなあ。

帰国の喜びで胸がいっぱいだったことが、この歌に表れています。しかし、彼の船は故国にたどり着きませんでした。

阿倍仲麻呂(あべの なかまろ)。唐の三代の皇帝に仕え、異国の宮廷で大臣にあたる地位まで昇りながら、日本に帰ることのできなかった人でした。

 

※注:この記事は昭和11年(1936年)刊の底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』)を訳したものです。底本には「支那」「東夷、北狄、西戎、南蛮」など当時の呼び方があり、この記事では現在の言い方に改めました。底本の小見出し「日支交通」「日支関係」も「日中」に改めています。「天の原」の歌が明州で詠まれたという話は『古今和歌集』の左注に見えるもので、歌を詠んだ場所や時期には諸説があります。
【その後にわかったこと】この記事のもとになった本は昭和11年(1936年)の刊行です。それから70年近く後の2004年(平成16年)10月、中国・西安の工事現場で、仲麻呂と同じ養老元年(717年)の遣唐使船で唐に渡ったとみられる日本人留学生「井真成(いのまなり)」の墓誌が見つかり、遣唐使の存在を示す初めての物的証拠として大きな話題になりました。詳しくは記事の最後に添えます。

 

特異なる生涯

 

阿倍仲麻呂が一人の留学生として唐の地を踏んだとき、まだ十七歳の少年でした。それから五十四年がたち、彼は七十歳の老人になっていました。そして当時世界最大の帝国だった唐で、臣下として最高の栄誉である潞州大都督(ろしゅう だいととく)の位を贈られ、その地で亡くなったのです。その間、ついに日本に帰る願いはかないませんでした。

だから日本では、百人一首の「天の原」の歌だけは誰もが知っていても、作者の仲麻呂がどんな人生を送ったかは、ほとんど知られていません。

けれども仲麻呂は、日本の古代の外交史や文化史の上でも、中国の歴史の上でも、燦然と輝く特別な地位を占める人です。彼が唐にいたころは、中国四千年の文化がもっとも花開いた「盛唐」の時代でした。その時代に、仲麻呂は李白(りはく)、王維(おうい)、儲光羲(ちょ こうぎ)といった、日本でも『唐詩選』で知られる大詩人たちと肩を並べ、その文才を賞賛されていました。玄宗(げんそう)、粛宗(しゅくそう)、代宗(だいそう)の三代の皇帝に仕え、外国人でありながら大臣や公爵にあたる最高の地位に昇りました。そして、歴史上あとにも先にもないほど栄華をきわめた唐の宮廷で、かの楊貴妃(ようきひ)を中心とする、この世の天国のような宴の席に連なっていたのです。どれも、私たちの興味をかき立てる事実ばかりです。

彼が唐で得た名声は、日本の大きな利益になりました。おのずと日本の大使のような役目が彼の肩にかかりましたが、彼はそれを見事に果たしました。だから彼が異国で亡くなった知らせが海を越えて日本に届くと、朝廷は遣唐使に命じて、正二位を贈ったのです。

 

※注:仲麻呂は文武天皇二年(698年)の生まれとされ、養老元年(717年)の入唐時は数えで二十歳、没したのは宝亀元年(770年)で数え七十三歳です。底本の「十七歳」「五十四年」「七十歳」は当時の伝えによるもので、現在の通説とはわずかにずれています。潞州大都督は死後に贈られた官で、現在の山西省長治にあたる潞州の長官の名目です。

 

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想像より困難な当時の日中交通

 

現在(底本が書かれた昭和の初めころ)は、長崎から上海までは一昼夜で着きますから、当時の日本と中国の間の行き来がどれほど困難だったか、なかなか実感がわきません。しかしそれは、想像をはるかに超える困難でした。

時間だけでも、少なくとも数か月。場合によっては数年かかりました。しかも遣唐使の一行を乗せた四艘の船のうち、二艘は東シナ海の荒波にのまれて沈むか、難破するか、南の海に流されるのがふつうでした。風に吹き流されて、目指す揚子江の河口をそれ、遠く福建や広東の海岸に着いた——それでもまだ幸運なほうだったのです。

こんな有様ですから、遣唐使の一行に加わるには、よほどの覚悟が要りました。家族との間には、さまざまな悲劇が起こりました。一行の中では、どの船に乗るかをめぐる争いが絶えませんでした。航海の安全を願う手段といえば、当時の人々には神仏の加護に頼るほかなく、全国の神社や寺をあげて熱狂的な祈祷が行われたのです。

さて、元正(げんしょう)天皇の養老元年(717年)三月。遣唐押使(おうし:使節団の総責任者)を命じられた多治比県守(たじひの あがたもり)は、大使・副使・大判官以下五百五十七名を率いて、難波津(なにわづ:現在の大阪)を出港することになりました。このとき留学生として選ばれて一行に加わったのが、仲麻呂と吉備真備(きびの まきび)、そして学問僧の玄昉(げんぼう)の三人です。

一行は長さ十五丈(約四十五メートル)、幅一丈(約三メートル)の大船四艘に分乗し、難波津から瀬戸内海を通って、九州の北西の岸に沿って南下し、薩摩の港に入ります。そこで順風を待ち、いよいよ故国に別れを惜しみながら、綱を解きました。ここから一気に東シナ海の荒波を乗り切って揚子江の河口へ入ろうというのですが、それだけでも数十日はかかります。

しかし仲麻呂たちの一行は、四艘とも無事に目的地に着きました。これは、ほとんど例外的な奇跡だったのです。

 

※注:養老元年の遣唐使は「四艘とも無事に着いた」とされる例の少ない航海でした。一丈は約三メートルなので、底本の「長さ十五丈、幅一丈」は長さ約四十五メートル、幅約三メートルにあたります。

 

 

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当時の日中関係と留学生

 

当時の中国、すなわち唐は、世界最大の帝国でした。周囲の民族を従え、その領土は西はトルコやペルシャに及び、北はシベリア、満洲、朝鮮から、南はベトナム、チベットにまで達していました。そしてこの広大な領土の上に、絢爛たる文化を咲かせていたのです。

日本は、政治も法律も制度も、細かいところまでひたすら唐にならいました。暦、医薬、儀礼と音楽、兵法といった学問から、工芸、美術にいたるまで、すべてを唐から学んだのです。だから遣唐使の一行には、玉を磨く者、絵を描く者、鋳物師、鍛冶、細工師、音楽を学ぶ者など、唐へ技術を見習いに行く人々が加わり、いつも数百人という大人数になりました。

留学生は、将来日本の政府を背負って立つ人物として、唐の政治制度を学ぶために選ばれた人たちです。実際、仲麻呂と同行した吉備真備は帰国後に右大臣まで昇って政治制度の改革にあたり、僧の玄昉も帰国後、日本の政治を左右するほどの権勢を持ちました。そのなかで仲麻呂は、中務大輔(なかつかさのたいふ)安倍船守(ふなもり)の子で、まだ十六歳で留学生に選ばれたのですから、名門の子弟の中でも群を抜いた秀才であり、その将来に大きな期待がかけられていたことがわかります。

遣唐使の一行は揚子江の河口に着くと、川をさかのぼって揚州に入ります。そこから出迎えの使者に案内され、運河を船で行き、馬車に揺られ、数十日をかけてようやく都の長安(現在の西安)に着きました。そして唐の皇帝に会って土産を差し出します。水銀、銅器、漆器、細工物、瑪瑙(めのう)などでした。

唐の宮中での朝賀の式では、東側の列の首席は新羅(しらぎ:朝鮮)、次席は大食(タージ:アラビア)、西側の列の首席は吐蕃(とばん:チベット)で、日本はその次席でした。これはのちに、仲麻呂が唐の宮廷で名声を得てから改められ、日本が東側の首席に置かれ、新羅が逆に西側の次席に下げられたのです。

 

※注:底本の「十七歳」「十六歳」の食い違いは底本のままです。唐の朝賀式での席次を日本が新羅より上にさせた話は、天平勝宝五年(753年)の朝賀で副使・大伴古麻呂が抗議して席次を改めさせたという『続日本紀』の記事によるもので、底本はこれを仲麻呂の名声と結びつけて記しています。底本の「大食」に付された「ペルシャ」は、一般にはアラビア(イスラム帝国)をさす言葉です。玄昉は帰朝後に権勢をふるいましたが、のちに筑紫に左遷されました。

 

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仲麻呂の累進

 

長安は、周・秦・漢・隋・唐の五つの王朝が天下に号令した都で、豪華をきわめた世界的な大都市でした。その大学は学舎が千二百、学生が三千二百六十人。遠く朝鮮、トルコ、ペルシャの王族や貴族の子弟も留学していました。

仲麻呂もこの大学に入りました。成績は抜群で、たちまち玄宗皇帝の目にとまります。皇帝から朝衡(ちょうこう:または晁衡)という姓名を賜り、字(あざな)を仲、号を巨卿(きょけい)と称するようになりました。卒業後は唐の宮廷に仕えましたが、その昇進ぶりは目覚ましいものでした。外国人である日本人でありながら、多くの同僚を追い越して左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)などの官を経て、唐に渡ってから三十六年で秘書監兼衛尉卿(ひしょかん けん えいいけい)の地位にまで昇ったのです。これは大臣級の高官です。

その間、聖武(しょうむ)天皇の天平四年(732年)に、遣唐使・多治比真人(たじひの まひと)の一行が唐に来ました。仲麻呂と一緒に留学した吉備真備と玄昉は、この一行とともに帰国します。しかし仲麻呂だけは、ひとり唐に残りました。三十三歳のときです。おそらく玄宗皇帝が、彼を手放すのを惜しんだのでしょう。

さらに孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝四年(752年)、仲麻呂五十二歳のとき、遣唐使・藤原清河(ふじわらの きよかわ)の一行が唐に来ました。旧友の吉備真備も顧問格で加わって、再び唐へ渡ってきたのです。このときは仲麻呂の帰りたい気持ちが大きく動きました。玄宗皇帝に惜しまれながらも、きっぱりと帰国を決意したのです。

 

※注:天平四年に任命された遣唐使は多治比広成(ひろなり)で、出発は翌五年、真備と玄昉の帰国は天平七年(735年)です。秘書監は宮中の図書をつかさどる役所の長官、衛尉卿は宮中の警備と武器をつかさどる役所の長官で、いずれも高位の官です。仲麻呂は唐に帰化したのではなく、日本人のまま唐の官人となったとされます。

 

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「天の原」の由来

 

天平勝宝五年(753年)、いよいよ仲麻呂は藤原清河の一行とともに帰国することになりました。唐の宮廷の人々も、仲麻呂と親しかった人々も、別れをひとかたならず惜しみました。仲麻呂も別れを悲しみましたが、数十年ぶりに憧れの故国へ帰れることを、子どものように喜びました。そして長安を出て、陸路で明州にたどり着き、いざ船に乗ろうというとき、冒頭の「天の原」の歌を詠んだのです。

しかし、仲麻呂の船は故国に帰り着きませんでした。帰国の一行は、行方がわからなくなったのです。

その知らせが長安に届くと、仲麻呂と親交のあった大詩人・李白は、友を失ったと信じて詩を作り、その運命を嘆き悲しみました。

晁卿を哭す(李白)

日本の晁卿、帝都を辞し

征帆一片、蓬壺(ほうこ)を繞(めぐ)る

明月帰らず碧海に沈み

白雲愁色、蒼梧(そうご)に満つ

——日本の晁衡どのは都に別れを告げ、一片の帆は仙人の住む島々をめぐって行った。明るい月は帰らずに青い海に沈み、愁いの色をした白い雲が、南の蒼梧の空に満ちている。

 

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けれども仲麻呂の船は、沈んだのではありませんでした。途中で暴風に襲われ、遠く安南(あんなん:ベトナム)の海岸に流れ着いたのです。幸い命は助かりました。この知らせが皇帝の耳に届くと、すぐに安南まで使者が送られ、仲麻呂はふたたび長安に迎えられます。皇帝は仲麻呂を思いやって安南都護(あんなん とご:安南を治める長官)の職に任じ、食封(じきふ:与えられる領民の戸数)三千戸を賜りました。皇女や宰相でさえ三百戸がふつうでしたから、まったく破格の待遇です。そのうえ北海郡開国公という称号も賜りました。公侯のなかでも最高の位です。

こうして仲麻呂は、それから永く唐にとどまる決心をしました。日本から迎えが来ることもたびたびありましたが、故国の土を再び踏むことは思いとどまり、異国の人々に看取られながら、その地で亡くなったのです。仲麻呂が故国の日本と第二の故国・唐から受けた死後の名誉については、すでに記しました。つねに近隣の国々を征服し侵略していた唐が、日本に対してだけは一度も事を構えなかったのは、仲麻呂の故国への最大の功績だと言われています。

 

※注:李白の詩は、仲麻呂の遭難の報を聞いて詠まれたものです。「明月」は仲麻呂を月にたとえたもので、蒼梧は中国南方の地名です。仲麻呂と清河の船は安南(現在のベトナム北部)に漂着し、現地で襲われて多くの者が命を落とし、仲麻呂と清河は天平勝宝七年(755年)に長安へ戻りました。その直後に安史の乱が起こり、帰国の機会は失われました。仲麻呂が安南都護・鎮南節度使に任じられたのは上元二年(761年)から数年間で、実際にベトナムの地で統治にあたりました。「唐が日本に対してのみ事を構えなかった」という底本の記述は当時の書き手の見方で、仲麻呂の入唐より前の天智天皇二年(663年)には白村江の戦いで日本と唐が交戦しています。
【その後にわかったこと】記事の冒頭に書いた墓誌の続きです。井真成は日本の留学生で、開元22年(734年)に長安で36歳で病死し、玄宗皇帝から尚衣奉御(皇帝の衣服をつかさどる五品の官)の位を贈られました。墓誌には「国は日本と号す」と刻まれ、当時の唐で「日本」という国名が使われていたことを示す最古級の実例にもなっています。仲麻呂や吉備真備と同じ船で海を渡った同期生が、仲麻呂と同じように唐の土となっていたことが、1270年ぶりに分かったのです。墓誌は2005年に日本でも公開されました。

 

 

阿倍仲麻呂の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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