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阿倍仲麻呂の生涯|唐で大出世した天才留学生の生涯

『阿倍仲麻呂』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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世界最大の帝国で大出世した天才留学生

 

百人一首にある有名な和歌、

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

遠い異国の地から、故郷である日本の月を思って詠まれたこの切ない歌の作者が、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)です。
多くの日本人は彼のことを「歌人」としてしか知りませんが、実は彼は単なる歌人ではありません。日本の歴史上でもトップクラスの天才であり、当時世界最大の巨大帝国だった「唐(とう:現在の中国)」で、外国人でありながら最高レベルの位にまで上り詰めた、とんでもないエリート官僚だったのです。

彼が遣唐使(けんとうし:唐へ行く使節団)の留学生として唐の地に上陸したのは、わずか十七歳の時でした。そしてそれから五十四年もの間、彼は一度も日本へ帰国することができず、七十歳で亡くなるまで唐の国で過ごしました。

当時の唐の都・長安(ちょうあん)は、ペルシャ(現在の中東)やトルコなど世界中から人が集まる、超巨大な国際都市でした。そこで彼は、李白(りはく)や王維(おうい)といった、現在でも教科書に載っているような中国の歴史的な大詩人たちと友達になり、その才能を絶賛されていました。さらには、世界三大美女の一人である楊貴妃(ようきひ)が参加するような、地上の楽園のような宮廷のパーティーにも出席していたのです。

 

阿倍仲麻呂

命がけの航海と長安での栄光

 

今の時代なら、日本から中国までは飛行機で数時間で行けます。しかし当時は、木造の船で何ヶ月もかけて、命がけで荒波を越えなければなりませんでした。四隻の船が出発しても、途中で嵐に巻き込まれて沈没したり、南の島へ流されたりして、無事に目的地にたどり着くのは「奇跡」に近い確率だったのです。

養老元年(717年)、十七歳の仲麻呂は、のちに日本の政治を動かすことになる吉備真備(きびのまきび)や僧侶の玄昉(げんぼう)らと共に、遣唐使として出発しました。名門の家に生まれた仲麻呂は、留学生の中でも群を抜いたトップクラスの秀才として、日本中から大きな期待を背負っていました。幸運なことに彼らの船は無事に唐へ到着し、仲麻呂は長安の巨大なエリート大学に入学します。

彼の成績は大学の中でもダントツのトップでした。そのあまりの優秀さに、当時の唐の皇帝・玄宗(げんそう)も驚き、彼に「朝衡(ちょうこう)」という中国風の立派な名前を与えました。

卒業後、仲麻呂は唐の政府で働き始めます。大帝国である唐には優秀な人材が星の数ほどいましたが、仲麻呂は外国人であるにもかかわらず、彼らをゴボウ抜きにして出世街道を爆走します。最終的には、日本で言えば「大臣」にあたる超・高官にまで大出世を果たしました。

彼と一緒に留学した吉備真備らが日本へ帰国する時も、皇帝が「仲麻呂は優秀すぎて絶対に手放したくない!」と引き留めたため、彼だけは唐に残ることになったほどです。

 

『阿倍仲麻呂』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

幻となった帰国と「天の原」の絶唱

 

仲麻呂が唐へ渡ってから三十六年後。五十二歳になった彼の元へ、日本から新しい遣唐使がやってきました。そこには、かつての親友・吉備真備の姿もありました。懐かしい親友との再会に、ついに仲麻呂の「日本へ帰りたい」という思いが爆発します。彼は皇帝をなんとか説得し、ついに日本への帰国を決心しました。

彼が帰国するというニュースに、唐の宮廷の人々や親友の詩人たちは涙を流して別れを惜しみました。仲麻呂自身も唐の友人たちとの別れは悲しかったものの、何十年ぶりかに故郷へ帰れる喜びで胸がいっぱいでした。

いよいよ船に乗り込もうとした夜。海の上に美しく昇る満月を見た仲麻呂は、思わずあの有名な歌を詠みました。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも(大空を振り仰いで見ると、美しい月が出ている。あの月は、私の故郷・春日の三笠山に昇っていたのと同じ、懐かしい月なのだなあ)」

彼の心は、帰国の喜びと故郷への思いで満たされていました。

ところが、運命は残酷でした。彼の乗った船は日本の方向へは向かわず、途中で巨大な台風に巻き込まれてしまったのです。

長安には「仲麻呂の船が沈没した」という悲しい知らせが届き、親友の李白は「明月帰らず(あの美しい月のような彼が、ついに帰ってこなかった)」という、彼を深く悼む悲しい詩を作って号泣しました。

生きていた仲麻呂!日中友好の架け橋として

 

しかし、仲麻呂は生きていました!彼の船はベトナム(当時の安南)の海岸に漂着し、命からがら助かっていたのです。

「仲麻呂が生きていた!」というニュースを聞いた皇帝は大喜びし、すぐに彼を長安へ呼び戻しました。そして、彼がどれほど大切な人物かを証明するために、彼に現在のベトナム方面を統治するトップの役職を与え、さらに公爵(貴族の最高位)の称号と、ものすごい額の給料を与えました。これは唐の大臣でも滅多にもらえない、破格中の破格の待遇でした。

その後も日本からは「仲麻呂を返してほしい」という迎えが来ましたが、もう若くない彼にとって、再び命がけの航海に挑戦することは難しく、何より唐の人々が彼を心から愛し、必要としていました。ついに彼は「自分は永遠にこの唐の国で生きよう」と決心したのです。

仲麻呂は唐の人々に手厚く看病されながら、七十歳で異国の地で亡くなりました。

当時の唐は世界最強の軍事帝国であり、周辺の国々を次々と侵略していましたが、日本に対してだけは一度も攻め込むことはありませんでした。それは、仲麻呂という「最高に優秀で素晴らしい日本人」が唐のトップ層にいて、両国の強固な信頼関係を築き上げていたからです。彼が異国の地で築き上げた名声と信頼こそが、日本に対する最大の功績だったと言えるでしょう。

 

『阿倍仲麻呂』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

  

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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