幕末の志士たちに火をつけた「伝説の書」
浅見絅斎(あさみけいさい)という人物をご存知でしょうか?江戸時代の学者であり、『靖献遺言(せいけんいげん)』という超有名な本の作者です。彼は、のちの幕末の志士たちに「天皇こそが日本のトップである」という尊王(そんのう)の考え方を強烈に植え付けた、近世における勤王家(きんのうか)のパイオニアの一人でした。
彼は有名な学者・山崎闇斎(やまざきあんさい)に弟子入りし、その門下の中でもトップクラスの秀才である「崎門三傑(きもんさんけつ)」の一人に数えられました。しかも、その三人の中でも最も徹底した「硬骨漢(こうこつかん:自分の信念を絶対に曲げない男)」だったのです。
絅斎は承応元年(一六五二)、近江国(現在の滋賀県)高島郡に生まれました。実家は元々武士で、父親は京都に出てきて学者である絅斎とお兄さんのために、お金に糸目をつけずに有名人に交際させ、教育費をかけたそうです。弟は米屋の商売をしていました。
絅斎の学問に対する姿勢は、凄まじいものでした。彼が二十八歳で山崎闇斎の門に入った時、ある日、あまりに猛勉強しすぎて体を壊し、血を吐きながらそれでも勉強を続けていました。見かねた仲間の弟子たちが「浅見君は体を壊しているから、しばらく休学させて病気を治させたらどうでしょうか」と師匠の闇斎に恐る恐る相談しました。すると師匠は、
「立派な学者になろうとする人間が、病気になったくらいで休んでどうする!」
とはねつけました。
絅斎もまた師匠に負けず劣らず気の強い男だったので、血を吐きながらも必死で勉強を続けました。そして病気が治ったのを見て、師匠は、
「それ見たことか。一度勉強すると決心した人間が、途中で病気に倒れて死んだとしても、それは本望じゃないか!」
と言って、絅斎を一層可愛がったそうです。まさに「この師匠にして、この弟子あり」という強烈な師弟関係でした。

生涯、誰にも仕えなかったガンコ者
絅斎は、自分に対して極めて厳しく生きた人でした。彼は「天皇を差し置いて、各地方の殿様(大名)に仕えてへりくだることは、日本人の道徳に反する」という強い考えを持っており、京都の街から一歩も出ず、どこの大名にも仕官しようとしませんでした。
そのため彼の暮らしは酷い貧乏で、ある年の冬などは「一枚の着替えもない」という有様でしたが、それでもキリッとした態度を崩さず、絶対に信念を曲げませんでした。彼の気高い噂を聞きつけて「ぜひうちで雇いたい」と言ってくる公家(くげ)や殿様はたくさんいましたが、彼は自ら売り込むようなことは一切しませんでした。
「どんなに貧しくても、大名にペコペコして給料をもらうようなことはしない」と、彼は自分の本の中に書き残しています。
彼はまた、好んで馬に乗り、剣を振るって武術の訓練をしていました。その刀のツバには「赤心報国(せきしんほうこく:真心をもって国に報いる)」という四文字が彫られていました。学者が馬に乗り、剣を振るって武道に熱中するというのは一見すると変な行動に見えますが、これは「いざという時の心がけを絶対に忘れないため」だったのです。

「中国より日本が上だ!」激動の思想
彼の師匠である山崎闇斎が「天皇を尊ぶこと(尊王)」を唱えたことは世間でも有名でしたが、絅斎はその遺志を受け継いで「皇室のパワーを取り戻すこと」を一生の目標にしました。
しかし当時は徳川幕府の力が圧倒的で、少人数の力ではどうすることもできませんでした。幕府は反乱の気配に敏感で、少しでも幕府の文句を言う学者は島流しにされていました。絅斎は「幕府を倒したい」という熱い志に燃えていましたが、過激な行動はグッとこらえ、時が来るのを待つしかありませんでした。
そこで彼は「本を書いて、世の中の人に『本当に一番偉いのは天皇だ』という大義を知らせるのが自分の任務だ」と自覚しました。こうして書かれたのが伝説の書『靖献遺言』です。
この本は当初、日本の忠臣たちのストーリーを書く予定でしたが、幕府に目をつけられて発売禁止になることを恐れ、あえて「中国の忠臣たち8人」を題材に選びました。幕府も「中国の歴史の本ならいいだろう」と見逃したのです。絅斎の細心で賢い作戦でした。
この本が世に出るやいなや、全国の勤王家たちの「バイブル」となって大ブームを巻き起こしました。のちの幕末に活躍する吉田松陰などの志士たちにも読まれ、彼らの心に火をつけたのです。
また、当時の日本の学者たちは「幕府の機嫌を取る」ことばかり考えており、ひどい学者になると「中国こそが世界の中心(中国)であり、我々日本は野蛮な国(夷狄:いてき)である」と平気でへりくだっていました。しかし絅斎は「そんな中国崇拝は、ひいては自分の国のトップを見下すことになる!」と激しく怒り、「中国より日本のほうが素晴らしいに決まっている!」と、はっきりと日本の誇りを主張したのです。

貧しくも気高い最期
彼は自分の親族、特に継母(血の繋がっていないお母さん)に対してものすごく親孝行であったことでも知られています。継母が重い病気になった時、絅斎は昼間は自分の塾で生徒たちに勉強を教え、夜になると弟の家に寝泊まりしている継母の看病に行き、朝方になってやっと自分の家に帰るという生活をしていました。しかも真夏でも真冬でも一日も休むことなく、母が亡くなるまで看病を続けたのです。この姿を見て感動しない人間はいなかったと言われています。
こうして、多くの優秀な人材を育て上げながらも、自分自身は生涯貧乏に甘んじ、決して誰にも仕えることなく自分の信念を貫き通した絅斎は、正徳元年(一七一一)の十二月、六十歳で京都にて亡くなりました。彼の残した熱い魂は、やがて幕末の日本を大きく動かす原動力となっていったのです。


