天文学の先駆者
麻田剛立(あさだごうりゅう)は、杉田玄白(すぎたげんぱく)より一年遅れて、享保十九年(一七三四)に豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の杵築(きつき)藩の学者である綾部綱斎(あやべこうさい)の次男として生まれました。
成長するにつれて天文学を好み、それと並行して医学も学びましたが、彼が二十一歳の時(宝暦三年)、宝暦四年の暦(カレンダー)に日食の記事がないことを指摘し、同年の九月一日に必ず日食が起こると人に語りました。すると、果たしてその通りになったので、人々はその予想の的中ぶりに大変驚きました。特に父親の門人(弟子)であった三浦梅園(みうらばいえん)などは、手紙を送って剛立の天才ぶりを絶賛したほどです。
明和の末年、彼は藩のお抱えの医者(侍医)に引き上げられ、藩主に付き従って江戸へ行きました。その時に彼は天文台も見学したらしく、国元へ帰った後は天文学の研究に専念しようと決心し、しきりに辞めたいと願い出ました。しかし許されなかったので、天文学を研究したいという気持ちを抑えきれず、ついに藩を脱走(脱藩)して大阪に隠れ住みました。名字を麻田に改め、医者として働きながら、熱心に天文学の研究に取り組みました。この時、彼は二十八歳でした。

初めて地動説を唱える
大阪に出てからは、毎晩自分で作った「窺天鏡(きてんきょう)」を手にして庭に出で、寒さや暑さも気にせず、天体の観測に従事すること九年にも及びました。こうして、全く一人で学んだにもかかわらず、彼の並外れた才能はぐんぐん伸びて、天文と星や暦の学問を大成するに至りました。
それと同時に彼の名前は次第に遠くまで知れ渡るようになり、各地の大名が手厚い待遇で彼を雇おうとしました。しかし剛立は、「故郷の杵築の藩主さえも捨てて逃げてきた身ですから。」と言って、誰の招きにも応じませんでした。
こうして明和六年(一七六九)、すべての星の動きの法則を究め、ひたすら自分の学問に打ち込みました。そして、大胆にも「地動説(地球が太陽の周りを動いているという説)」を発表して世間を驚かせました。もちろん大変な評判になったのは言うまでもなく、以前の日食を予言した時以上に人々を驚かせました。
当時ヨーロッパにおいては、すでに地動説が学界の定説となっていましたが、もちろんまだ日本にはそのような新しい説は紹介されていませんでした。その頃、日本に西洋の文化を伝えたのは主にキリスト教の宣教師たちでしたが、彼らは依然として昔からの「天動説(太陽が地球の周りを回っているという説)」を固く守っていました。
ある時、同じように天文学に興味を持っていた三浦梅園が、天動説に疑問を抱いて剛立に質問したことがありましたが、その時、剛立もまだはっきりとした答えを出せるほどの自信がありませんでした。それが大阪に出て、天文学の実測に没頭した結果、全く自分自身の力だけで地動説を唱えるまでに確信を得たのでした。
彼が大阪で天文学の研究を始めると、彼に教えを乞うて入門する者が少なくありませんでした。中でも高橋作左衛門(たかはしさくざえもん)、間大業(はざまたいぎょう)、山片蟠桃(やまがたばんとう)などは、後に頭角を現した彼の立派な弟子たちでした。
高橋は大阪の御定番同心(ごていばんどうしん)という身分の低い幕府の役人でしたが、幼い頃から暦と計算の学問を好み、麻田の門下に入って天文学を学ぶうちに、当時の暦が寛政七年(一七九五)の正月元日の日食を記録していなかったことを残念に思い、暦を作り直す必要性を幕府に意見書として提出しました。
そこで、幕府で改暦の議論が起こりました。ところが当時、天文台にはこの大事業を担当するほどの人物がいなかったので、麻田剛立を「天文方」として招き入れようとしました。しかし剛立は、その任務に就くことを固く辞退し、弟子の高橋作左衛門と間五郎兵衛の二人を推薦しました。これが寛政七年のことでしたが、それから三年後に、この二人によって見事に新しい暦が完成されました。世間ではこれを「寛政暦」と呼んでいます。

望遠鏡を発明す
剛立と同じ頃に、長崎の人である中野柳圃(なかのりゅうほ:志筑忠次郎)が『暦象新書(れきしょうしんしょ)』という本を著し、その第三巻に宇宙の起源に関する自分の説を載せました。それは一七九六年(寛政八年)にフランスのラプラスが初めて発表した「星雲説」と同じ根拠を持つ素晴らしい論として世間に広まりましたが、彼はオランダの本(蘭書)を元にして書いたものなので、その学説にはよりどころがありました。三浦梅園も二回も長崎へ行ってオランダの説を聞いています。
しかし剛立ただ一人だけは、少しもオランダの本に頼ることなく、前記のような結論に到達したばかりでなく、しかもその学識は新しく輸入された西洋の学説と全く一致していたのですから、驚くべきことではないでしょうか。
その上、彼は「曲折鏡(きょくせつきょう)」と称する星を覗く道具(窺天器)を発明しました。これは今日の望遠鏡の始まりです。当時、蘭学(オランダから伝わった学問)は加速度的に進歩しつつありましたが、それは主に医学の分野にとどまっていました。それに対して天文学に関しては、何と言っても江戸と長崎を中心に発達したのが主流でしたが、麻田剛立は関西第一の大都会である大阪の市中に住まいを構え、それらに対して堂々と別の派閥を形成していたのです。
剛立の天文学の実際の観測は、実験を主とする蘭学派にとっても力強い応援となったことは間違いありません。しかし、剛立が当時流行していた蘭学から完全に独立して、ただ自分自身の力だけで彼の学説を打ち立てたことは、中井蕉園(なかいしょうえん)が書いた彼の記念碑の文章(碑文)によっても明らかです。もっとも晩年になってからは、彼も西洋の学説を取り入れて自分の学問を広めました。
このように、江戸と長崎を中心とし、剛立をトップとする大阪を別派として発達してきた江戸時代の科学は、出発点は次第に江戸の天文台や蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に集中され、明治維新とともに東京大学、帝国大学となって実を結び、ついに一世紀や二世紀もの遅れを持っていた日本が、ヨーロッパに対してその遅れを取り戻すに至ったのです。

剛立の後継者
彼のところで、非凡な才能を持つ麻田剛立の学説である「地動説」を受け継ぎ、これを広く世に広めたのは、弟子の山片蟠桃(やまがたばんとう)でした。蟠桃はもともと播州加古川(ばんしゅうかこがわ:現在の兵庫県)の人でしたが、当時大阪で仙台などの東北の大名にお金を貸し付けていた「桝屋(ますや)」の番頭(ばんとう)となり、後に剛立の門下に入って天文学の道理を学び、内外の考え方をうまく取り入れた一種特別の実用的な学者となりました。
蟠桃の著書である『夢の代(ゆめのしろ)』は、剛立の説を紹介したものとして、この分野の人々に知られています。それは享和二年(一八〇二)に書かれたもので、「夏の日に居眠りする代わりの随筆だ」と称しましたが、おそらくこれは謙遜でしょう。あるいは、本当のことを隠すためのカムフラージュだったのかもしれません。というのも、『夢の代』は天文地理、神の時代、歴代の制度、経済、経書、雑書、異端、雑論などの項目に分かれ、非常に広い範囲にわたる内容を持っているだけでなく、言論の自由がほとんど全くなかった当時において、よくぞここまで大胆に率直な意見を言えたものだと驚かされます。
そしてその「天文地理の部」において、「当時禁止されていた地動説」を主張しているのです。『夢の代』第一巻の天文学は、今日到達している学説から見ればもちろん言うに足りないものかもしれませんが、一般大衆はもちろん知識人の多くまでが、「天地や国土ができる様子は、ひょうたんのようなものが三段に重なっていて…」などと信じていた当時に、地球が動いていることを論じ、恒星や太陽の説を紹介し、引力を説明し、潮の満ち引きの理由を講義し、東西の暦の長所と短所を比較し、春分を元日とする新しい暦を自作したことなどは、群を抜いた学力と言わねばなりません。
一つの例を示しましょう。名著『夢の代』の中で、蟠桃はこう述べています。
「火星から地球を見るのは、地球から金星を見るのと同じようなものであり(お互いに他の星が動くのを見ること)、金星から地球を見るのは、地球から火星を見るようなものである。だから木星から火星を見るのも、水星から金星を見るのも、これと同じように推測して知ることができる。西洋の新しい法則は、地球が回転することによって空(天)が左へ動くように見えるのだとし、恒星は動かない火の塊であって太陽と同じだとしている。歳差(さいさ:地球の地軸の傾きによるズレ)は地軸の変動から生まれ、地軸の変動は地球の南北が偏っているから生まれるのだ。これらの測量技術の精密さを知るべきだ。インドや中国、また我が国からの考え方では、地球が偏っているのも回転の勢いが及ぶところではないとしている」と。
剛立自身は『消長求食』と名付けた著述もあるようですが、今日はほとんど伝わっていません。一七八六年に『実験録推歩』を書き、また西洋でコペルニクスが提唱した地動説を、ニュートンが引力の法則の発見によって確かなものとして世に紹介したように、山片蟠桃が麻田剛立の地動説を受け継いで、惑星の数に対する疑問を解き明かしたことは、非常によく似ているではないですか。
以上のように、独学によって全く独創的に地動説を初めて唱えた麻田剛立は、我が国の江戸時代の天文学の先駆者であり、世界の天文学の歴史から見ても日本の科学の歴史上から見ても、忘れることのできない天才であったばかりでなく、特に海外では彼こそが当然名前を刻まれるべき人物であったにもかかわらず、その名前があまり知られていないのは、本当に残念なことです。ともかく、今から二百年以上も前に、この東洋の孤島で、独自に地動説を唱えた者がいたと聞けば、ヨーロッパの学界も驚きの目を新たにして日本を見直すことでしょう。
大正五年十二月、我が国でもさすがに彼の学問的な功績が認められ、彼に「従四位(じゅしい)」という高い位が贈られました。この学界の偉人は、寛政十一年(一七九九)に六十六歳で亡くなりました。


