九歳になった勢至丸の胸には、父の仇を討ちたいという激しい感情が燃えていました。
父・漆間時国(うるま ときくに)は久米(現在の岡山県久米郡)の押領使(おうりょうし:治安維持や反乱・盗賊の鎮圧を担当した地方警察・警備の最高責任者)でしたが、稲岡(現在の岡山県久米郡美咲町稲岡)の預所(荘園において、現地で実務・管理を取り仕切る最高責任者)・源定明の恨みを買って自邸にて夜討ちに遭(あ)ったのです。
少年は物陰から小矢をもって定明の眉間を射て、それ以来人々から「小矢児(こやちご)」と呼ばれ、その武勇を称えられました。父は深手のためについに息を引き取りましたが、その臨終に際して勢至丸を枕元に呼び寄せ、優しく諭(さと)しました。
「復讐は思いとどまるのだぞ。そのようなことを考え煩(わずら)うよりも、自分も他人もともに救われる真実の道を求めるのだ」
九歳の勢至丸は、泣くにも泣けない気持ちでした。

後年、師が「法然房、なぜそのように懸命に学問に励むのか」と尋ねたとき、彼は楽しげに微笑んで答えました。
「自分も他人もともに救われる真実の道を求めたいと思っているからでございます。父の遺言がそうでありましたし、母もまた私にそのように教えてくれました」
この人の名は、法然上人(ほうねん しょうにん)。
諱(いみな:正式な実名のことで、生前は口にしたり軽々しく呼んだりすることを避ける風習があった頃の名前、忌み名)を源空といい、比叡山で「智慧第一」と讃えられながら十八歳で名利の学を捨て、四十三歳で善導の一文に出会って専修念仏の道を開き、大原問答で諸宗の学僧に説き、七十五歳で土佐へ流されてなお教えを広め、浄土宗の祖となった人物。その生涯をたどります。
十八歳にして悟りの道を求む
浄土宗の開祖・法然上人は、長承二年(1133年)四月七日に美作国久米の南条、稲岡の北の庄に生まれました。幼名を勢至丸と称し、生まれながらに神のような叡智を備えていました。冒頭に記した父の死の後、父の遺言のとおりに幾ばくもなく、母の弟である菩提寺の観覚(かんがく)のもとに至って剃髪し、若き修行者となられたのです。

次いで久安三年(1147年)、十五歳のとき、観覚の勧めで比叡山に登り、源光について学び、さらに碩学・皇円に就いて『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台の三大部六十巻を学びました。彼の記憶力の強さと理解の正しさに、叡山の僧たちは皆驚きました。

しかし十八歳のとき、上人はただ名誉や利益を得るための学問に励むことを嫌い、真の救いの道を求めようと、東山の麓の黒谷慈眼房(じげんぼう)の叡空(えいくう)を訪ね、自分の仏道を志した動機を語りました。
経緯を聞いた叡空は心の中で深く感銘を受け、「これこそ法然具足(生まれながらに仏法の徳を備えた)の聖、すなわち自然と悟りの僧となる因縁を持ったお方だ」と称(たた)え、その場で法然房という号を与え、叡山の源光と自分の叡空の一字ずつをとって源空という諱を授けたのです。
上人の歓びは非常なもので、向学と精進の心が烈々と燃え上がって来ました。そこで密教と円戒(えんかい:天台宗の開祖・最澄が提唱した、法華経の一乗の精神に基づく大乗の菩薩戒)とを学び、また初めて『往生要集』を読破して感激を新たにしました。
二十四歳のときには嵯峨の清涼寺釈迦堂に参籠して祈念すること十七日。
さらにまた奈良に赴いて、法相宗(ほっそうしゅう)の蔵俊(ぞうしゅん)からその教えを学び、中川(現在の京都府木津川市州見台(くにみだい)から奈良市奈良坂付近)の実範(じつはん)から鑑真相伝の戒を受け、また醍醐寺の寛雅(かんが)から三論を、仁和寺の慶雅(けいが)から華厳を聴くなど、あらゆる宗派の神髄・深遠なる教えをきわめ尽くされたのです。
人々は口々に「これぞ『智慧第一』の法然房である。将来は必ずや大聖者となられるだろう」と称賛し、敬意を払いました。特に彼を慕い仰ぐ者は若い僧侶たちに多く見られました。
その後、上人は再び黒谷の隠遁の地へと戻られましたが、真の救いの道(大道)を修めようとする意志はいよいよ激しく燃え盛るばかりでした。
聖典を納めた「報恩蔵(ほうおんぞう)」に入り、一切経(仏教の全聖典)をことごとく読破されましたが、その心の底には「『罪深きこの自分』を真に救ってくれる教えはどこにあるのか」という深い苦悩が、なおも静かに続いていたのでした。

高倉天皇、円戒を受け給う
上人は善導(ぜんどう)の『観経疏(かんぎょうしょ)散善義(さんぜんぎ)』を熟読され、「一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう)」という一文を目にされた時、罪深き末世の凡夫であっても阿弥陀仏の救いに与(あず)かることができると確信されました。
そして、従来の様々な修行(雑行・雑善)を潔く捨て去り、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と唱える念仏一筋の道へと進まれ、ここに浄土宗の教え(専修念仏の法門)を開かれたのです。
それは承安五年(1175年)、上人四十三歳のときでした。
それ以来、新宗教の伝道と普及につとめ、黒谷を出て西山の広谷に赴き、さらに東山の吉水に移ってひたすら念仏の教えを説かれました。この年には、恐れ多くも高倉天皇が上人から円頓戒を受けられ、また一ノ谷の合戦で敗れて捕らわれの身となった平重衡(たいらのしげひら)も上人の高徳を慕って訪れ、救いの道を求めるなど、身分を問わず多くの出家・在家の人々が頻繁に門を叩くようになりました。
さながら彗星のように出現した上人の新宗教に対しては、都をはじめ南都(奈良)や北嶺(比叡山)の僧たちの中には、強い脅威を感じて異議を唱えようとする者が数多くいました。
そしてついに、歴史的な対決の口火が切られる日がやってきます。
文治二年(1186年)、のちに天台座主となる顕真(けんしん)が、大原・勝林院(しょうりんいん)の丈六堂に上人をお迎えし、その説く浄土の宗義を直に聴く場(問答の会)を設けたのです。
その場には、高野山の明遍(みょうへん)、笠置山の解脱上人・貞慶(じょうけい)、三井寺の公胤(こういん)、比叡山からは智海、浄厳、学什、証真、堯禅、大原の洪印、蓮契、さらには東大寺再建で知られる重源、印西、浄然、仙基ら、当代を代表する俊英・学僧五十余人がが一堂に会しました。彼らは丸一日一夜にわたり、鋭い舌鋒をもって法然上人へ怒涛の論戦を挑んだのです。

大原問答
法然上人は法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、法華(天台宗)、真言宗といったあらゆる諸宗派の教義を踏まえて議論を重ね、「阿弥陀仏の本願によってこそ、罪深き凡夫であっても極楽往生ができるのだ」という真理を説き明かされました。
その結果、発起人である顕真(けんしん)をはじめ、その場に集まっていた出家・在家三百余人もの人々が深く感服し、三日三夜にわたって高らかに念仏を唱え続けたということです。これこそが、歴史に名高い「大原問答」です。
このようにあらゆる方面から激しい攻撃や議論を仕掛けられながらも、浄土宗の勢いは止まらず、瀧山寺(たきさんじ)をはじめとする各地の寺院に絶え間なく念仏を唱える「不断念仏(ふだんねんぶつ)」の道場が次々と整備されていきました。
建久二年(1191年)には東大寺の大勧進・俊乗坊重源が、支那浄土教の五祖図と観経曼陀羅とを得てその供養会を開くと、上人は重源に請われて『浄土三部経』の講義を行いました。その際にも、南都(奈良)の三論宗や法相宗の大学僧たちが押し寄せて上人に論争を挑みましたが、上人の圧倒的な智慧の前にたちまち論破されてしまいました。こうして上人の名声はいよいよ全国へと広まっていったのです。
ここに至り、後白河法皇をはじめとする多くの皇族、ならびに公家の中心人物である藤原経宗(ふじわらの つねむね)や関白・藤原兼実(ふじわらの かねざね)らが上人を仏道の先達として仰ぐようになりました。上人は彼らに戒律を授けたり、『往生要集』を講義したり、六時礼讃(ろくじらいさん:一日六回阿弥陀仏を讃える法要)を修したり、ある者は出家する際の師(導師)として上人を迎えました。
さらに武士たちの間にも深く信仰する者が相次ぎ、一ノ谷の戦いで平敦盛を討った熊谷直実(くまがい なおざね)、宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)、千葉胤頼(ちば たねより)らが弟子となりました。また、弟子の中からは聖光(しょうこう)、証空(しょうくう)、親鸞(しんらん)、聖覚(せいかく)、源智(げんち)、湛空(たんくう)、重源(ちょうげん)、隆寛(りゅうかん)、覚明(かくみょう)、幸西(こうさい)といった、のちの仏教界を担う俊英たちが輩出していったのです。

上人、土佐に配流さる
このようにして日を追うにつれ浄土の宗門が栄えて来ると、比叡山および奈良の大寺院の僧たちはこれを黙って見過ごすことができなくなり、その布教を力づくで抑え込もうと考えました。
元久元年(1204年)、上人が七十二歳のとき、比叡山の僧たちが座主の真性(しんしょう)に強く迫り、浄土宗の禁止を強く要求しましたが、上人が弟子たちの身勝手な振る舞いを戒める「七箇条の起請文(きしょうもん)」を作成し、門下百九十人の連署の誓状(せいじょう)とを座主に送って、浄土宗はわずかに危難を免れました。
次いで翌年の元久二年には、奈良興福寺の僧たちが貞慶の起草した『興福寺奏状』において専修念仏の「九箇条の過失」を列挙し、専修念仏の禁止と上人への処罰を強く朝廷へ訴え出ました。
朝廷は宣旨(せんじ:公式命令)を下して事態を収めようとし、法然の弟子である法本房行空(ほうほんぼう ぎょうくう)と安楽房遵西(あんらくぼう じゅんさい)を取り調べることで興福寺の不満を一時的に抑え込みました。
しかし建永元年(1206年)に後鳥羽上皇が熊野に行幸中、住蓮と安楽が鹿ヶ谷で六時礼讃を修したときに、上皇の宮女(松虫・鈴虫)がこれに参詣して独断で出家してしまうという事件が勃発しました。この事件が決定打となり、ついに住蓮と安楽は死刑に処されることとなったのです。
さらに法然上人も僧侶としての身分を剥奪され、藤井元彦と俗名に改められて、翌二年に土佐へ流されたのです。

没してもなお迫害止まず
四国への配流中、上人は各地を巡り歩き、農民や身分の低い庶民に仏法を勧め、優しく教化されました。この配流の災難さえも「自らの力では行くことができなかった遠方の庶民に教えを届ける機会をいただいた。これこそ朝廷のご恩である」と深く喜んでおられたということです。
上人はその年のうちに赦免の宣旨(しゃめんのせんじ:天皇の命令によって、罪人の罪を許したり、刑罰を免除したりすること)を賜り、京都への帰還が許されました。配所を出た上人は、ひとまず摂津国の勝尾寺(かつおうじ)に滞在し、この周辺の地域で人々を教化されました。
この頃の上人の存在感は、まさに燦然と輝く太陽のようなものであり、そのあまりの影響力の大きさゆえに、日本全国の旧来の宗教界は絶えず揺れ動いていました。しかし民衆は、この新しい救いの教えの出現に涙を流して喜び感謝し、阿弥陀仏の極楽浄土をひたすら思い焦がれ、その教えの歓喜に包まれていたのです。
上人の人柄はどこまでも円満で何ものにも囚われず、その前に座す者は誰しも温かな光に包まれたかのような心地になり、今まさに極楽浄土で遊んでいるかのような深い感動に包まれたといいます。

時代は建暦となり、その元年(1211年)、上人は久しぶりに京都へと戻って来られました。そして東山の大谷にある小さな庵に身を寄せられました。上人の説く仏法の真精神を理解し、その教義を受けようと、高位高官の貴人たちまでもが争うようにその門を訪れ、客足が途絶えることがありませんでした。
しかし、比叡山の僧徒をはじめとする南都(奈良)の僧たちの迫害は依然として収まらず、度々言いがかりをつけては石を投げつけるかのような激しい敵意を示しました。上人の名声が高まれば高まるほどその攻撃は凄まじくなり、時には命を奪われかねないほどの危険に晒されることもありました。それでも上人は「自分も他人も等しく共に救われる(自他平等)」という浄土宗の大義のために、どこまでも耐え忍び続けました。そしてその渦中にあっても迫害を耐え抜きながら、民衆への布教と宗門の発展のために全力を尽くされたのです。その甲斐あって浄土宗の教えは日本全国の隅々にまで水が染み込むように広がり、その時にはすでに浄土宗の強固な土台が築き上げられていました。
建暦二年(1212年)、上人は身体に軽い病を感じられると、弟子の源智(げんち)に『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』を書き与え、その一月二十五日に、
「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
(阿弥陀仏の光は世界を照らし、念仏を唱える者を決して見捨てず救い取る)
の文を唱えて念仏しながら入寂(にゅうじゃく:悟りの境地に入ることをいい、転じて僧侶が亡くなること)しました。
こうして、ついに仏教界の燦然たる巨星がこの世を去りました。門下の弟子や信徒たちは声をあげて泣き崩れました。しかし、その巨星が放った光の筋(光芒)はいつまでも輝き続け、彼が叫び続けた仏法の響きは人々の心の中に強く残り、消え去ることはなかったのです。
遺骸は庵の東側に手厚く葬られましたが、迫害は彼の死後も止むことがありませんでした。度重なる不当な侮辱行為が繰り返され、残された弟子たちを深く憤慨させました。
嘉禄三年(1227年)の「嘉禄の法難」の際には、比叡山の僧徒が大勢で押しかけて上人の墓を暴き、乱暴にもその遺体を鴨川へ投げ捨てようとしました。弟子たちはからくもこれを阻止し、遺骸を密かに嵯峨の二尊院(にそんいん)へ移し、さらに太秦の広隆寺(こうりゅうじ)へと避難させました。そして翌年の安貞二年に、ようやく西山の粟生(あお:現在の光明寺)の地で荼毘(だび:火葬)に付すことができたのです。その後、貞永二年(1233年)に嵯峨の小倉山に墓標となる仏塔を建て、遺骨をお納めしました。
上人の生涯の半分は、まさに激しい迫害との戦いの連続でした。
なお、天皇から与えられた追贈の称号である「円光大師」の号は元禄十年(1697年)に東山天皇より、「明照大師」の号は明治四十四年(1911年)に明治天皇より賜ったものです(※法然上人は50年ごとに異なる大師号が追贈されています)。
ちなみに、京都の総本山・知恩院や東京の大本山・増上寺などは、この法然上人の教えと宗風を今に受け継ぐ中心的な寺院であり、親鸞上人もまた法然上人に師事してその教えを深く学び取り、のちに浄土真宗を開いていったのです。


