昭和54年(1979年)1月。奈良市此瀬町(このせちょう)の丘の斜面で、茶畑の植え替え作業をしていた人の鍬(くわ)が、固いものに当たりました。
出てきたのは、火葬された骨と、真珠が4粒。そして41文字が刻まれた銅板でした。
そこに記されていた名は、太安万侶(おおの やすまろ)。
『古事記』を書き残した人物の墓が、千二百年以上の時を経て、偶然に見つかった瞬間でした。
寧楽の都
文武(もんむ)天皇の時代に、新しい都を造ろうという議論がありました。そして元明(げんめい)天皇の和銅二年(709年)になって、大和の北部に平城京を造ることが命じられます。造営の役所が置かれ、翌年三月、都が移されました。
この平城京こそ、寧楽(なら:奈良)の都です。
朱雀大路(すざくおおじ)を中央にして左右に両京を分け、街の区画は碁盤の目のように整然としていました。壮麗で雄大な都だったのです。
この都で七代・七十五年間続いたのが、いわゆる奈良時代です。文学、芸術、宗教、政治、経済のあらゆる方面で、花が咲き乱れるような文化が生まれました。
当時の中国はちょうど唐の全盛期、玄宗(げんそう)の時代です。そこから入ってきた文化の刺激を受けて、仏教はとりわけ奈良時代の文化の中心を占めました。その現れとして、国ごとに七重塔を造り、国分寺を建てることが命じられ、それらを束ねる総国分寺として東大寺ができあがったのです。
政治の面でも、大化の改新以来の土台がますます固められました。経済の面でも、和同開珎(わどうかいちん:日本で本格的に流通した最初の銅銭)が出回り、大きな進歩を見せています。
とりわけ、学問と文化の勢いには目を見張るものがありました。
詩文集には『懐風藻(かいふうそう)』。和歌には、和歌集の最初であり日本を代表する歌集である『万葉集』。
地理の書物としては『風土記』が編集されます。畿内七道の国々の国名・郡名によい字をあて、その土地で採れる鉱物、草木、魚や虫の名前、さらには土の様子まで書き記した書物でした。
こうした時代に、歴史の書物が求められるのは当然のことだったといえるでしょう。
わが国最初の歴史書『古事記』と『日本書紀』の編纂にあたり、それを完成させて大きな業績を後の世に残したのが、太安万侶でした。
では、安万侶とはどういう人だったのでしょうか。
実は、その生涯を細かく明らかにすることはできません。
ただ『続日本紀(しょくにほんぎ)』などにところどころ見える記述によれば、神武天皇の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫であり、父の品治(ほんじ)は壬申(じんしん)の乱で功績があったといいます。
安万侶は文武・元明・元正(げんしょう)の三代の天皇に仕えた、学識が広く文章に優れた歴史家でした。
慶雲元年(704年)に従五位下、和銅四年(711年)に正五位上に叙せられ、霊亀元年(715年)に従四位下へのぼります。翌二年には一族の長となり、養老七年(723年)七月、民部卿・従四位下として世を去りました。
大和国磯城郡(しきぐん)多村大字多(現在の奈良県磯城郡田原本町多)にある多坐(おおにます)神社は、彼を祀るものです。明治四十四年(1911年)、その千二百年祭のとき、彼は従三位を贈られました。

古事記
わが国最古の歴史書として、今や世界各国の言葉に翻訳され、世界の学者の間でも宝とされている『古事記』。これは、どのような道筋をたどって完成したのでしょうか。
安万侶自身が書いた『古事記序』には、天武天皇の詔(みことのり)がこう記されています。
「朕(われ)聞く、諸家のもたらす帝紀および本辞、すでに真実に違い、多く虚偽を加うと。今の時に当たってその失を改めずば、いまだ幾年を経ずして、その旨(むね)滅びんとす。これすなわち、邦家(ほうか:国家)の経緯、王化(おうか:天皇による統治)の鴻基(こうき:おおもとの土台)なり。ゆえに帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく:調べて明らかにすること)して、偽りを削り、実を定め、後葉(こうよう:後の世)に伝えんと欲す」
ここでいう帝紀・先紀とは、おおむね皇室の系譜のこと。旧辞とは、神代を含んだ皇室の物語を指します。
現代の言葉に直せば、こういう意味です。
それらは事実と違い、多くの嘘が加わっている。いま誤りを正さなければ、正しい中身は幾年もたたないうちに滅びてしまうだろう。帝紀と旧辞は国家のたて糸・よこ糸であり、統治のおおもとなのだから、これらを今、書き記して後の世へ伝えなければならない、と。
続けて『序』はこう記します。
「時に舎人(とねり)あり。姓は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年はこれ二十八。人となり聡明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に払るれば心に勒(しる)す。即ち、阿礼に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)、及び先代の旧辞を誦(よ)み習はしむ」
稗田阿礼は、一度見れば口に出して読み、一度聞けば心に刻みつける。そういう人物でした。
天皇は阿礼に命じて、皇位の継承の記録と先代の旧辞を読み習わせます。しかし年月が移り世が変わって、その事業は行われないままになりました。
そして時代は下ります。
「和銅四年九月十八日をもって、臣・安万侶に詔して、稗田阿礼が誦むところの勅語の旧辞を撰録して、もって献上せしむ」
ここまでは、おおむね学者の見方が一致するところです。
しかしそれから後のことについては、古くからこの『古事記序』をめぐって、名だたる学者の間で多くの議論があります。
まず、稗田阿礼の性別。本居宣長(もとおり のりなが)以下は男性説をとり、平田篤胤(ひらた あつたね)らは女性説を主張しました。
次に「誦み習はしむ」の解釈。それは暗誦なのか、それとも漢文を日本語の語順で読むことなのか。ここでも意見が対立しています。
そして、安万侶がどのような役割を果たしたのかについても、さまざまな議論があります。
稗田氏が猿女君(さるめのきみ)の一族だったことははっきりしていて、猿女君は代々女性が家を継ぐ家でした。そのことから、阿礼は女性だったとされます。また当時すでに記録の技術が発達していたという点から、暗誦説は退けられました。
そこで阿礼のしたことは、指定された帝紀と旧辞を読み習い、古い記録の読みにくいところを読み明らかにして、読み方の注釈などをつけることにあった、とされるようになっています。
さらに、安万侶が『古事記』をまとめた元明天皇の時代には、阿礼はすでに亡くなっていました。それを語る「時に舎人あり云々」の一句によって、阿礼が口で語り安万侶が書き取ったのだという説も、その根拠を失ったのです。
では、安万侶の果たした役割は何だったのでしょうか。
帝紀と旧辞から細かく材料を採り、音と訓、そしてその両方を組み合わせて書き改める。特殊な姓や名はもとの本のままにしておき、それに注釈まで加える。そこにあった、と見るのが正しいと言われています。
こうして、和銅五年(712年)正月十八日に完成した『古事記』は、天地のはじまりから推古天皇に至る歴代のできごとを記し、三巻に分けられています。
– 上巻 … 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)より鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)まで
– 中巻 … 神武天皇より応神天皇まで
– 下巻 … 仁徳天皇より推古天皇まで
上巻は「神代の物語」であり、中巻・下巻は「人代の物語」です。
上巻では、神が肉体を持った姿のままで活動します。ところが中巻・下巻になると、神はその姿を現しません。神の意思は、夢やお告げといった神秘的な方法で示されるようになるのです。
『古事記』は、幾世紀にもわたる日本民族の精神が結集したものと言えるでしょう。
太古の大八洲(おおやしま:日本列島の古い呼び名)には、旧アイヌ、ツングース族、インドシナ族、インドネシア族、漢族などが移り住んでいて、そこはそれらの民族が反発し、争いあう舞台であり、また微妙に混じり合い、同化していくるつぼでもありました。この中から新たな勢力として発展してきたのが大和民族であり、その勢力の中心は日向(ひゅうが)と出雲にあったのです。そして日向にあった中心勢力が出雲のそれを征服し、大和の地に日本国家を建設しました。こうした事情のもとで、各民族の間にあった神話、説話、伝説などは、しだいに混じり合い、同化する道をたどり、そして少しずつ優勢な民族の伝承の中へ取り込まれ、本来の色や姿を変えていった——そう見るのが最も科学的な見方であるとされています。
つまり大和民族の興隆は、他の種族の伝承を取り込み、長い時代の取捨選択を経たのち、ついに皇室を中心とする一色へと発展したのです。
大和朝廷の成立をきっかけに統一された伝承は、代々のできごとを加えられながら、語部(かたりべ:物語を語り伝えることを職とした人々)によって後の世へ語り継がれました。また漢字が入ってくるとともに、文字としても伝えられました。
けれども長い年月のうちに、さまざまな変更が加えられ、異なる伝えも生じます。それを「偽りを削り、実を定め」て一つにまとめたのが、この『古事記』なのです。
高天原(たかまがはら)、地上、黄泉国(よみのくに)という大きな宇宙を舞台に、神々、英雄、美しい人々が活躍します。しみじみとした味わいのある人物を登場させ、さまざまな劇的場面を展開させて、そこに偉大な詩の世界を形づくる、その一方で、人物の描き方や物語の運びは、かなり型どおりで抽象的です。また、いろいろに異なる伝承を一つにまとめた関係で、筋が一貫せず、ところどころ矛盾を感じる点もあります。
それにもかかわらず、全体としては情景がありありと浮かび、人間らしい潤いに満ちていて、その素朴な味わいには心を惹かれるものがあります。
文学として見た『古事記』は、まことに優れた一大叙事詩と言わなければならないでしょう。

日本書紀
『日本書紀』は、舎人親王(とねりしんのう)と太安万侶が天皇の命を受けて編集にあたり、元正天皇の養老四年(720年)に完成したものです。
神代から持統天皇までのできごとを、起きた順に年を追って記し、神武天皇以降は歴代ごとに一つのまとまりを持った年代記の形をそなえています。文章はおおむね漢文で、全体として、中国のいわゆる正史の本紀に似た体裁をとっています。
本文三十巻のほかに系図が一巻ついていたはずですが、これは今に伝わりません。
この『日本書紀』と並べて比べなければならないのが『古事記』です。
書紀の文体はおおむね漢文ではありますが、純粋な漢文ではありません。日本語をそのまま、あるいはそれを直訳して写し取ったものが少なくないのです。特に神代の物語には、それが多く見られます。
材料や資料、そして編纂した人を同じくしている点を考えれば、『古事記』との間にとてもよく似た点があるのは自然なことでしょう。
書紀の神代および上代の部分は、まさにぴったり『古事記』に対応します。『古事記』の文章を漢文に訳した部分も少なくありません。載せられた歌謡も、『古事記』のものとほぼ同じです。
ただ、これを漢文に訳し、書き改めたために、もとの物語や、そこに含まれている考え方に、少なからぬ変化を与えたことは否定できません。
では、なぜ『日本書紀』は、中国の正史の風をまねて、漢文で書かれたのでしょうか。
それは、当時の中国文化の輸入、律令制度の中国化、その他あらゆる面で中国風のものが尊ばれた風潮を、そのまま映したものにほかなりません。
編集した人々の狙いは、中国風の歴史書としての見た目を備えたものを作ることにありました。そして皇室と国家の権威を固めようとする精神がその根本にあり、すべてがこの用意のもとに書かれたのです。
しかしながら、これらの書物にいくつもの矛盾が含まれているとはいえ、そのことは文化の歴史から見て、日本最初の著述家である安万侶の偉業の価値を、少しも下げるものではありません。
そうした矛盾や素朴さは、避けられないものでした。私たちはこれらを通して、当時の社会や暮らしの文化をうかがい知ることができるのです。

千二百年後の発見
冒頭に記した墓誌の話に戻ります。
底本が書かれた昭和十一年(1936年)の時点では、安万侶の生涯は「その詳細は明らかにすべくもない」ものでした。墓がどこにあるかも、当然わかっていません。
それから四十三年後の昭和五十四年(1979年)一月、奈良市此瀬町の茶畑から、彼の墓が偶然に見つかります。
出土した銅板の墓誌には四十一文字。そこには、彼が平城京の左京四条四坊に住んでいたこと、そして養老七年(723年)に亡くなったことが刻まれていました。
『続日本紀』の記述が、千二百年以上の時を隔てて、地面の下から裏づけられたのです。住まいの場所という、書物には残らなかった一点まで添えて。
墓誌は現在、奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所附属博物館に収められています。
「偽りを削り、実を定め、後の世に伝えたい」――天武天皇の言葉を受け取って筆を執った人が、自分自身についても、確かな記録を残していた。そういうことになります。


