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太田道灌の生涯|江戸城を築いた文武両道の名将の悲劇

太田道灌の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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十五歳の少年に、父が諭しました。

「戸や障子は、まっすぐであれば立ち、曲がっていれば倒れる」

まっすぐに生きよ、という教えです。少年はすぐそばの屏風を指さして、こう答えました。

「曲がっていれば立ち、まっすぐであれば倒れます。私はどうすればよいのでしょう」

父は二の句が継げませんでした。少年は鎌倉の建長寺で、禅問答の修業を積んでいたのです。

父は、この子に驕(おご)りの風があるのを心配して、「驕る者は久しからず」と大きく書いて示しました。すると少年はその場で筆をとり、「驕らざるもまた久しからず」と書き足して、父から扇子で顔を打たれました。

縦横の奇才をもつ彼には、ありきたりの教訓など、おとなしく聞いてはいられなかったのです。

彼の名は太田道灌(おおた どうかん)。二十五歳で江戸城を築き、歌人として天皇にも歌を献じ、戦えば負けず、そして主君に疑われて風呂場で命を落とした人です。その生涯に迫ります。

 

※注:この記事は昭和十一年(一九三六年)刊行の『日本英雄伝』を現代語に訳したものです。道灌の幼少期の逸話や「山吹の里」の伝説の多くは、江戸時代に書かれた逸話集によるもので、底本自身も山吹の話を「創作」と断っています。記事の終わりには、道灌が主君に暗殺される場面が含まれます。事実のみを記しました。

 

山吹の古歌は誤り

 

太田道灌(一四三二〜一四八六年)の先祖は、源三位頼政(げんざんみ よりまさ)です。丹波の太田荘(現在の京都府亀岡市あたり)にいたので、その荘園の名を姓にしました。太田氏はのちに相模の糟屋(かすや:現在の神奈川県伊勢原市)に移り、扇谷上杉(おうぎがやつ うえすぎ)家に仕えます。

 

※注:太田氏が頼政の子孫だというのは、太田家に伝わる系譜によるもので、史料で確かめられる範囲を超えています。

 

道灌の父・資清(すけきよ)は道真(どうしん)と号し、扇谷上杉氏の家老でした。文武の才に富んだ人です。その影響を受けた道灌が和漢の書に親しみ、風流の道に通じていたのは当然でしょう。ですから、少女に山吹の花を差し出されて赤面したなどという話は、信じられません。あの古歌の逸話は面白いのですが、明らかに作り話に違いないのです。

では、本当のところはどうなのでしょうか。『後拾遺集』(一〇八一年)の雑の部に、こういう詞書(ことばがき)のついた歌があります。——小倉の家に住んでいたころ、雨の日に蓑(みの)を借りに来た人がいたので、山吹の枝を折って渡した。相手は意味が分からずに帰り、翌日、山吹の意味が分からなかったと言ってきたので、その返事に詠んで送った——。

七重八重(ななえやえ) 花は咲けども 山吹の 実(み)のひとつだに なきぞあやしき

作者は中務卿(なかつかさきょう)兼明親王(かねあきら しんのう)。醍醐天皇の皇子で、亀山のふもとに隠遁していたときのことです。道灌より三百五十年も前の話で、こちらが本当でしょう。

 

※注:「実の」に「蓑」を掛けた歌です。底本は亀山を「京都府亀岡」としていますが、兼明親王の住まいは京都・嵯峨の小倉山のふもとで、亀岡とは別の場所です。

 

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幼くして神童

 

道灌は永享四年(一四三二年)、糟屋に生まれました。最初の名は資長(すけなが)、幼名は鶴千代、元服して持資(もちすけ)と名乗ります。通称も源六郎と改めました。長禄二年(一四五八年)、二十七歳で剃髪して道灌と号し、備中入道と称したのです。

鎌倉の建長寺へ修学を命じられたのは九歳のとき。十一歳のとき、大人もかなわない流れるような壮快な文章を父に贈ったので、家に帰ることを許されました。

屏風の問答と、扇子で打たれた話は、冒頭に記したとおりです。道灌十五歳のときでした。

なにしろ当時の鎌倉の五山には学問の深い僧が集まり、金沢文庫や足利学校もありました。こうした環境と家庭の教育が、道灌の素質を伸ばしたのでしょう。

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江戸築城の技師

 

二十四歳で家を継いだ道灌は、扇谷上杉家の家老になりました。そのころ、古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかが しげうじ)と両上杉家との平和は、すでに破れていました。山内(やまのうち)上杉には長尾景春(ながお かげはる)、扇谷上杉には道灌父子がいて、それぞれ主家を支えていたのです。

康正二年(一四五六年)、道灌は二十五歳で江戸城の築城を命じられ、長禄元年(一四五七年)四月八日に完成させました。

その規模を『江戸記聞』はこう伝えています。根城・中城・外曲輪(そとくるわ)の三つからなる。石壁は十丈(約三十メートル)あまりそびえ、堀の周囲は数十町、そのほかに流れを引き入れた大きな溝がある。そこに巨木を架け、三十六の城門は鉄で張り、門の内は左右に坂がうねって城に達し、そのあいだに三層の楼が二十あまり、石を積んだ門がある。城中の五、六か所の井戸は、大ひでりにも涸れない——と。

もっとも、大きいといっても一年ほどで造った城です。のちの江戸城とは比べものになりません。石の乏しい武蔵野の平野ですから、全体に石垣をめぐらしたのではなく、楼や城門だけを石で築いたものらしい。『落穂集』にはそう記されています。

とはいえ、それまでの山の城に対して、平野に江戸城を出現させたことは、日本の築城史における新機軸でした。彼の並々ならぬところでしょう。

 

※注:道灌の江戸城は、現在の皇居のうち本丸から北の丸のあたりにあったとされます。徳川家康が江戸に入ったのは、この百三十年あまり後のことです。

 

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歌人としての風貌

 

歌人としても、道灌はすぐれた才を見せています。

寛正五年(一四六四年)十二月に上洛したとき、将軍足利義政が「お前は武蔵野に住んでいる。何の風月があるか」と言いました。彼は答えます。「坐して芙蓉峰(ふようほう:富士山)を眺めます。その壮大なことは、まだ都では聞かないところです」

 

※注:底本は「寛政五年」と印刷していますが、寛政は江戸後期の年号で、道灌の時代の年号は寛正です。次の章の「寛政四年」も同じで、寛正四年(一四六三年)のことです。

 

後土御門(ごつちみかど)天皇から武蔵野の様子や日ごろの眺めを尋ねられたときは、次の歌で答えました。

露おかぬ 方もありけり 夕立の 空よりひろき 武蔵野の原

我が庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端(のきば)にぞ見る

文明年間にふたたび上洛し、都鳥のことを尋ねられたときも、

年ふれど 我まだ知らぬ 都鳥 隅田川原に 宿はあれども

と詠みました。天皇は感じ入り、次の御製(ぎょせい:天皇の歌)を賜ったといいます。

武蔵野は 苅萱(かるかや)のみと 思ひしに かかる言葉の 花や咲くらむ

蔵書は数千巻。史伝、和歌、記録、医学、兵書などで、家集には『慕景集』『花月百集』『江戸歌合』があり、『平安紀行』の著もあります。

 

※注:これらの歌は道灌の作として伝えられるものですが、『慕景集』は江戸時代の編纂で、道灌の真作かどうか疑問のあるものも含まれています。

 

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善く謀り善く戦う

 

道灌は江戸城で十年「沈黙」の日々を送りましたが、文明六年(一四七四年)ごろから活躍の時期に入ります。

同じ上杉家でも、山内上杉は扇谷上杉より桁違いに大きく、その家老・長尾昌賢(しょうけん:長尾景仲)の勢いは、扇谷上杉に肩を並べるほどでした。その昌賢は寛正四年に亡くなります。文明六年六月、道灌が駿河の今川家の内紛を鎮めに行っている留守を突いて、昌賢の子・長尾景春が武蔵大里(おおさと)の鉢形(はちがた)城に拠って主家の山内上杉に背きました。五十子(いかっこ:現在の埼玉県本庄市)で古河公方足利成氏と対陣中の上杉定正(さだまさ)父子を襲い、成氏に応じて利根川右岸の地を席捲したのです。

 

※注:長尾景春の挙兵は文明八年(一四七六年)、五十子の陣の襲撃は文明九年正月のこととされます。底本の「文明六年六月」は駿河出陣の年で、挙兵の年とは別です。

 

両上杉は、成氏と景春という二つの敵を相手にすることになり、局面は大きく変わりました。しかも長尾氏が父祖以来培った勢力は強く、景春の誘いに応じて立つ者は少なくありません。石神井、練馬、赤塚、板橋の諸族をまとめて平塚に拠る豊島勘解由左衛門(としま かげゆざえもん)兄弟、小沢城に拠る金子掃部介(かねこ かもんのすけ)、相模では溝呂木(みぞろぎ)、小磯の諸城が、ことごとく反抗しました。

そこで道灌は文明九年(一四七七年)四月十三日、江戸城を出て平塚城を襲い、城下に火を放ちます。豊島勘解由左衛門兄弟と赤塚・板橋の連合軍とは江古田・田原・池袋で戦って撃ち破り、翌十四日には豊島を石神井に追い詰め、十八日には城を落としました。多摩の小沢城も同じ日に落ちます。相模方面には扇谷の兵を送り、溝呂木・小磯を降しました。

五月十四日、道灌は両上杉の兵を合わせて利根川を渡り、奇襲で景春の本拠・鉢形を突き、長尾方を潰走させます。二万と称した兵も、鉢形城に逃げ帰ったのは数千にすぎませんでした。

文明十年正月、成氏の提唱で講和が成りましたが、道灌に追われた豊島一族は、小机(こづくえ)城主・小机昌安と丸子城主・丸子弥三郎の後援、そして当時二宮にいた景春の支援を得て戦いを続けます。しかし主君定正の援軍が着いて小机城も落ち、ついに武蔵・相模の全域が、道灌の武威に従ったのです。

 

※注:底本の「江古田・田原」の戦いは、江古田・沼袋原の戦いとして知られます。「田原」は沼袋原のことか、印刷の誤りかは確かめられません。

 

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両上杉家の対立と道灌暗殺

 

こうして関東はしばらく静かになりました。ところが、道灌が二十年前に予想していたことが、表に出てきます。「いま上杉両家は公方家と対抗しているが、公方家が衰えたら両上杉のあいだに争いが起こるのは必定である。婚姻によって未然に避けるべきだ」——そう見抜いていた、その火種です。

鉢形城にいた山内上杉の顕定(あきさだ)は、面白くありませんでした。かつて自分の下にいた扇谷上杉が、名臣道灌を擁してめきめき頭角を現し、両者の立場を逆転させてしまったからです。そこで扇谷上杉の配下、臼井城の原胤繁(はら たねしげ)をそそのかして、道灌に背かせました。結果は、胤繁が城に火を放って自ら果て、次に臼井城を修築して拠った千葉孝胤(ちば のりたね)も、文明十二年十二月に滅ぼされます。十五年十月には、三河入道武田信長(たけだ のぶなが)を上総の総南城に攻め、上総・下総はすべて扇谷上杉家の勢力下に収めました。

中央では応仁の乱のあとの騒乱もなく、古河公方成氏も将軍に和を乞い、関東の戦乱もいったん収まります。けれども両上杉の暗闘はやみません。道灌は上杉顕定を警戒して、江戸・河越の二城を大きく修築するなど、備えを怠りませんでした。

道灌の名声はますます高まります。主家も彼の見識に導かれていただけに、あまり賢明でない主君定正には、面白くありません。その隙を見て、山内の上杉顕定が間者(かんじゃ:スパイ)を放ち、「道灌に異心あり」と讒言(ざんげん:人をおとしいれる悪口)しました。定正はこれを信じます。しかし道灌には知恵と勇気のある家来、恩を受けた者が多く、父道真や息子の資康(すけやす)もいるので、まともに攻めては滅ぼせない。そこで糟屋の自邸に招き、曾我兵庫(そが ひょうご)に命じて、入浴中を襲わせたのです。

道灌は「当家滅亡」の一語を残して、刺殺されました。文明十八年(一四八六年)七月、五十五歳でした。

その後、扇谷上杉家は彼の言葉どおりに滅びます。すぐれた歌人として、また楠木正成以来の軍学者として、その最期はいたましいかぎりです。

 

※注:暗殺は文明十八年七月二十六日のこととされます。扇谷上杉家はこののち山内上杉と長く争い、やがて北条早雲以来の後北条氏に圧されて、天文十五年(一五四六年)の河越夜戦で当主が戦死し、滅びました。「当家滅亡」の言葉は後世の記録によるもので、真偽は確かめられません。

 

「驕らざるもまた久しからず」と書き足した少年は、驕らなかった人が滅びるのを見抜いていたのかもしれません。

戦えば負けず、城を築き、歌を詠み、主家の危うさを二十年前から言い当てていた。それでも、主君に疑われれば風呂場で殺される。彼の生涯は、その時代の武士の才能と限界を、まるごと映しています。太田道灌。江戸という町の最初の設計者であり、「当家滅亡」の一語で自分の死の意味を言い残した人でした。

太田道灌の生涯やエピソードを象徴するイラスト

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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