「今はちゅうちょしている場合ではない。戦いは機先を制するのを尚ぶというから、ただちに京へ攻め上るのが上策であろう」
承久三年(1221年)、後鳥羽上皇の院宣に鎌倉中が動揺したとき、七十を過ぎた老臣は箱根で守ろうとする執権義時に向かってそう言い切りました。ぐずぐずする義時を見かねて、子の泰時に「一日遅ければそれだけ禍が大きくなる。速やかに出征せよ」と迫ったのもこの人です。頼朝に仕えて守護地頭の制を献策し、幕府の政治を四十年支えた大江広元(おおえ ひろもと)の生涯です。
頼朝に従う
大江広元は、匡房の曾孫式部大輔維光の子です。家は代々儒をもって朝廷に仕え、有名な学者が多く出ています。彼はすこぶる博学多才で、ことによく故事典籍に通じていました。しかも学者にはまれに見る機略縦横の政治家でした。はじめ藤原の一門が政権を得て朝廷に跋扈していた時代には、朝臣にして大志を抱くものも自由にその才を伸ばすことができませんでした。また平氏、源氏の勃興に際しても、いわゆる攻城野戦の勇士たちは大いに用いられる機会に接しましたが、長袖の朝臣たちはいたずらに屏息して、めまぐるしい時代の変転を傍観しているばかりでした。こうした時代に生まれた広元もまた、あり余る才能を抱きながら世に用いられることなく朽ち果てるかに見えました。だが彼は頼朝が兵を挙げ、鎌倉に幕府を開くに及んで、その幕下に馳せ参じました。それは彼の俊敏な眼が、次の時代を支配するものは必ず頼朝であるとにらんだからです。そして彼は頼朝の権勢を利用して、ついに自己の天分と器量を思いのままに発揮する機会をつかむことになりました。
頼朝の待遇は非常に厚く、幕府に公文所が置かれると、彼はただちに抜擢されてその別当に任じられました。そして幕府の政治を総覧しました。平氏討伐にあたっては朝廷と幕府のあいだを斡旋し、また幕府から出される公文書の類はことごとく広元の手になったものだといわれています。彼は代々朝廷に仕える家柄に生まれて朝廷の制度、慣習によく通じていたので、こういう方面で頼朝を助けて多大な利便を提供したわけです。また頼朝の政治的な顧問として、実際に武家政治の基礎を開いたのも彼広元でした。頼朝はその部下に忠実な多くの武人を擁していましたが、政治的な手腕のある者には乏しかったのです。また頼朝自身にしても武人として生まれ、戦乱のあいだに成人したので、政治方面の知識には乏しいものでした。当時の民衆は、藤原氏と平氏が代々奢りの限りを尽くして誅求したために、その窮乏ははなはだしく、腐敗した公卿政治をいとっていました。そうした基礎の上に生まれたのが鎌倉幕府でしたが、政治を経験しない武士が実際に政治を運用する段になると、多くの困難に逢着しなければなりませんでした。広元はそういう幕府創業のあらゆる困難を乗り切って、巧みに民心を収攬し、幕政の基礎を築くのに絶大な功績があったのです。

幕府の基礎を作る
文治元年(1185年)に義経、行家が頼朝に背いて兵を挙げ、敗れて吉野山や多武峰などをのがれ歩きましたが、のちついに追いつめられて奥州へ落ち延びました。それ以来、義経の消息は数年間杳(よう)として知れませんでした。頼朝は狭量で猜疑心が深くて容易に人を容れない欠点があったので、義経の消息が知れないとなると大いに気を病みました。このとき広元が、
「義経、行家の所在をいかほど探索しても、それは徒労である。まだ幕府の威権の及ばない地方が各所に散在しているので、どこにかくまわれているか分からない。また、よしそれが分かっても、そのたびごとに兵を出していたら、軍費の浪費が大変である」
と言って、そのためにも守護地頭の制を諸国に布くことの必要を説きました。すなわち、義経の所在が分かりしだいに守護地頭に命じてこれを逮捕させようというのです。そのころは諸国には豪族がいて所領地から徴税し、事実上独立国を形成しており、幕府の命にしたがわない者がまだ各地に残存している有様でした。そこでもし頼朝がいちいちそれを討伐するために兵を出していたら、疲弊した人民はさらに疲弊し、軍費がかさんで幕府の基礎が危うくなってしまいます。それで国ごとに守護を置き、荘園ごとに地頭を置くようにして政治を行い徴税し、もしその領下に謀反を企てる徒輩が起こった場合には、ただちにこれを追捕鎮圧させようという制度です。頼朝は広元のこの献策を大いに喜び、ただちに朝廷に奏請して守護地頭の制を全国に布きました。そして股肱の家臣を守護地頭に任じ、自分は総地頭の職につきました。この制度の名目は反乱の鎮圧にありましたが、実際には天下の兵馬の権と土地の支配権を幕府にあわせ収める一石二鳥の案でした。
頼朝はさらに、幕府の奏請する一切の事柄をまず議奏官を経て幕府と評議させたのちこれを施行する議奏官制なるものを朝廷に設けました。もちろん議奏官に任じられる公卿は幕府と親近な間柄の者に限られていましたから、事実上、天下の政治は頼朝の独占するところとなりました。彼は建久元年(1190年)に天下総追捕使となり、建久三年には征夷大将軍となって、名実ともに天下の支配者となりました。
彼が短い期間のうちにこのように旭日昇天の勢威と天下の実権を握りえたのは、広元がその背後にいてあらゆる画策につとめた結果です。建久二年(1191年)、幕府の公文所が政所と改められると、広元はその別当となり、明法博士兼左衛門大尉に任じられ、検非違使となって、幕府の政治を大小となく処理しました。頼朝が薨じて夫人政子が剃髪して尼となりました。政子は男勝りの女傑で、簾を垂れて天下の政事を聴きました。それで当時の人々は政子のことを尼将軍と呼びました。彼女が広元を重用したことは、頼朝時代と変わりませんでした。頼家、実朝の事実上の後見役となって、彼は政治軍事一切の枢機に参与して、頼朝亡きあとの幕府をますます強力なものにしていったのです。

北条の専横
頼朝が亡くなると、執権北条時政が幕政に参与して専横をきわめました。比企能員(ひき よしかず)が彼の専横を憎んで兵を挙げようとしたとき、時政は彼を殺そうとして広元に謀りました。時政は、頼朝以来の功臣である広元がどんな考えを持っているか、それが知りたかったのです。そして場合によっては広元をも殺そうと考えていました。広元は時政の意を悟って、
「自分は故将軍在世の日から幕政に参与してきたが、軍事の方面にはいまだ一度も関係したことがない。能員が殺されようと殺されまいと、武人ではない自分には関係のないことだ」
と答えました。それで時政は広元の意中を知って大いに安心し、邸に立ち帰るとただちに天野遠景をして能員の邸を襲撃させ、彼を討ち果たしました。このころから北条一門の野心がようやく露骨になって、源家の功臣をあるいは殺し、あるいは斥けて、専横の限りを尽くしました。時政についで義時が執権職となるに及んで、ますます幕府乗っ取りの陰謀が明白になりました。ここに至って和田義盛父子が、義時を滅ぼして幕府の実権を源家の正統に返そうとして兵を挙げ、不意に乗じて幕府と広元の邸を包囲しました。広元は義時とともに将軍実朝を奉じて法華堂に危難を避けました。そして彼は義時とともに将士を鼓舞激励して、義盛の軍勢に反撃を加えさせました。義盛父子はついに支えきれずに敗死しました。義盛らは、広元が幕府に大きな勢力を有しながら北条の専横を見て見ぬふりをしている態度を日ごろから快く思っていませんでした。しかし彼が幕府のなかに持っている勢力は政治家としてのそれであって、武力の伴う勢力ではありませんでした。彼が断固として北条の専横を抑えるには、あまりに力が弱かったのです。このころから彼は眼を病み、憂悶から剃髪して覚阿(かくあ)と号しました。

承久の乱
これより先、時政は頼家を殺し、頼家の子公暁が義時に計られて実朝を弑し、公暁がまた義時に殺されるに及び、源家の正統はまったく絶えてしまったと底本は記しています。
ここにおいて義時は源家に代わって政権を握り、横暴をきわめました。後鳥羽上皇はついに院宣を下して、北条を討つ軍を起こしたまいました。承久三年(1221年)でした。近畿十四か国の兵六万が院宣を奉じて大挙して鎌倉へ迫るとの報がありました。このため幕府の上下は戦々恐々として大いに動揺しました。このとき義時は京都の軍勢を足柄、箱根の険によって防ごうとして策略をたずねました。ところが広元は、
「今はちゅうちょしている場合ではない。戦いは機先を制するのを尚ぶというから、ただちに京へ攻め上るのが上策であろう」
と言いました。義時は広元の言を用いて京へ攻め上ることに意を決し、諸方から集まってくる鎌倉方の軍勢を待っていました。そして義時があまりにぐずぐずしているので、広元は義時の子泰時に向かって、
「今は一刻も猶予している場合ではない。一日遅ければ、それだけ禍が大きくなるのである。速やかに手兵をつれて出征すべきだ」
と説いて泰時に出陣させました。はたして東軍は各地に大勝し、京都はついに陥りました。義時は乱を平らげて後堀河天皇を奉戴し、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に遷したてまつりました。いわゆる承久の乱です。これより天下はまったく北条に帰しました。この乱に臨んで広元は幕府に踏みとどまり、軍事を経理して、義時父子に後顧の憂いなからしめたのです。彼は頼朝時代と同様に北条のためにも大いに功労を抜きんで、一門から尊重されて、嘉禄元年(1225年)六月、七十八歳で没しています。後世の歴史家は、広元のいわゆる機略に長けて徳望の備わらなかった点を非常にあきたらずとしています。しかしその参謀として、政治家的手腕において、当時における一代の傑物であったことは否めません。
朝廷の儒者の家に生まれた人が、武士の政権の文書と制度を一人で作り、主家が北条に乗っ取られても席を立たず、七十を過ぎて京へ攻め上れと言いました。徳望がないと後世は言います。けれども、鎌倉という政権が百五十年続く骨組みを作ったのは、剣を取らなかったこの人でした。





