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栄西禅師の生涯|日本に臨済宗を伝え鎌倉仏教の先駆けとなった高僧

栄西禅師の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「仏様は血のしたたる手足をもぎ、肉を裂いてまでも一切衆生を救済なされたのではないか。今餓死しようとしている人々には、背光はおろか、仏像の全部を与えたとて決して仏意に背くものではあるまい」

飢えた男に、薬師如来の光背を作るための銅の延べ棒を与えてしまった住職は、とがめる弟子たちにそう答えました。建仁寺の開山、栄西(えいさい)禅師です。二度宋に渡って臨済の禅を日本に伝え、比叡山の弾圧と正面から渡り合った、鎌倉新仏教の先駆者の生涯です。

 

飢ゆる者と高僧

ここは京都東山、建仁寺の禅林です。比叡おろしの身にしみるある冬の黄昏どき、一人の貧しい男がしょんぼりと禅門をくぐりました。

「まったくお恥ずかしいことですが、私たち夫婦や子どもらは、もう幾日も絶食しております。貧乏人の悲しさ、どうすることもできません。どうぞお慈悲をもってお救いくだされませ」

寒い土間にたたずんでの哀願の言葉は、そのまま弟子によって住職に伝えられました。住職はさっそく何か与えようと左右を顧みましたが、あいにくと与える何物も見いだせません。住職はしばらく思案していましたが、やがて座を起って歩みを本堂に運びました。そしてそこに置かれてあった銅の延べ棒を取り上げ、折り束ねつつ玄関に出ました。

「まことにお気の毒なことじゃ。これをお金に換えて、何なりと買うがよい」

男はうれし涙にくれました。何べんも礼を述べて、山門の外へ夕闇のなかにと消えました。しかしこの様子を見ていた弟子たちは、そのまま黙することはできませんでした。なにしろその延べ棒は、薬師如来の背光を作るために用意された品だったからです。

「いかに慈悲のお心からとはいえ、仏様のものを勝手に私することは、あなたのお仕業とも覚えませぬ」

すると住職は静かに答えました。

「まことに御身たちの言うとおりだ。けれども考えてみるがよい。仏様は血のしたたる手足をもぎ、肉を裂いてまでも一切衆生を救済なされたのではないか。その広大無辺のお心を思えば、今餓死しようとしている人々には、背光はおろか、仏像の全部を与えたとて決して仏意に背くものではあるまい。また、たとえそれが恐ろしい罪悪であって、わしはそのため地獄に堕ちればとて、ただ人々の飢えを救うことができれば、それで本望なのだ」

この住職は日本臨済宗の開祖、建仁寺の僧正で有名な千光国師栄西禅師でした(栄西は「ようさい」と読むのが正しいのですが、底本は一般の読み方にしたがっています)。栄西は実に自己の生活によって、身をもって仏教を語った、鎌倉新仏教運動の先駆者でした。

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二度の入宋

栄西は永治元年(1141年)四月二十日、備中の国吉備津に生まれました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「三月二十日」としていますが、通説では四月二十日です。

 

幼いころから父の感化を受けて仏学に親しみ、十一歳の春には村にある安養寺の和尚静心に師事しました。十四歳で剃髪し、十九歳の春には早くも当時の仏教大学である叡山にのぼり、有弁について天台学を修めました。またそのころ修道者の雲集していた伯耆の大山(だいせん)にも密師基好を訪れて密教を学び、早くも非凡な学才を現しました。そしてふたたび帰山するや、独り関を閉じて一切経を開読すること実に八年、来る春逝く春の楽しみも忘れて、ひたすら仏教の蘊奥(うんのう:奥深いところ)を探り求めました。

仁安三年(1168年)、二十八歳のとき、栄西は宋に渡航しました。当時、宋の国は禅宗流行のときでした。栄西は明州の広慧寺に入って禅を修めました。ついで天台山の学窓をたたきましたが意に満たず、在宋わずか半年にして、道友の重源とともに帰国しました。彼は帰来、叡山の座主明雲に乞うてふたたび山内に修行を続け、伝教大師の円・密・禅三宗一致の教学の研鑽に没頭しました。ことに密教に通じて早くも葉上流の一派を開き、後鳥羽帝から葉上房(ようじょうぼう)の栄称を受ける身となりました。

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教界革新の決意

しかしこのころ、伝教、弘法の二大教傑によって創立された雄渾な平安仏教は、平安文化の爛熟するにつれてしだいに形骸化し、貴族社会は祈祷仏教のためにますます昏迷していました。こうして吉凶禍福に関して与奪の実権を握った祈祷僧侶の高慢ぶりはまったくその極に達したのです。彼らは広大な寺領を占有し、みだりに僧官をむさぼり、豪奢淫蕩飽くなく、果ては武を装い兵を擁して権勢の争奪に寧日なく、いわゆる僧兵の暴状は真に言語に絶するものがありました。こうした醜状は、いったい純情な求道者にどんな感慨をいだかせたでしょうか。青年栄西の全身には、教界革新の決意と選ばれた使命感が日ごとに強く鼓動しはじめたのです。そのころ、彼は独り叡山の峰にたたずんで眼下に漫々たる琵琶湖の湖面を見つめつつ、いかに深刻に破戒無慚な僧形の横行に悲憤の胸を抱きしめたことでしょう。顧みれば、もう三十の青春は過ぎた。大悟の心境はいずこに。破邪顕正の教権は何か。苦悶の栄西はこのとき、ふたたび入宋を決意したのです。

そして飄然と山を下って筑紫に赴いた彼は、血なまぐさい源平争覇の矢叫びをよそに静かに便船を待つこと何と十余年、ようやく渡航の潮に乗ったのは、まだ平家没落の名残り惜しまれる文治三年(1187年)の春でした。栄西はこんどは天台山において巨匠虚庵懐敞(きあん えじょう)禅師に随侍して肝胆をくだくこと五年、ついに臨済の奥義をきわめて臨済第五十三代の法脈を継ぎ、建久二年(1191年)五十二歳の秋、日本仏教革新の壮図を深く蔵して、肥前平戸の葦浦に安着したのです。

元来、平安文化は班田の制度の基礎の上に形づくられていた貴族的な文化でしたが、班田や社寺の荘園が多くなるにつれて、土地と密接に接触していない中央の公卿たちは、権勢と富のために自ら腐敗していくと同時に、地方の新しい権力者たちに信望を失い、離れられていった。直接に生産の管理にも従事せず、武力も持たぬ腐敗した貴族階級が、農業を管理し、ときには自らも農事にしたがい、しかも武器を取って戦うことのできる、この時代の新興階級である武士に圧倒されはじめたのは無理もない。こうして頼朝によって統一され代表されたこの新勢力は鎌倉に幕府と名づける政府を作り上げ、武力によって警察権を確保すると同時に、各地方に守護や地頭を置いて経済管理の実権を握ることになった。底本はこう説明しています。栄西はあたかもこのような時機に九州の一角に上陸しました。そして仏教革新の第一声を揚げたのですが、それは腐敗した貴族的平安文化に対する新興武士階級の革新の思想を代表したものの一つであるといってよいでしょう。それは当然、社会的な前提ができており、中流階級によって求められていたものだったので、禅師の赴くところ、臨済の法幢(ほうどう:教えの旗)はいたるところにひるがえりはじめました。野火が風を得たように、妙徳寺、東林寺、報恩寺、千光院などの大きな寺が、まもなく筑前筑後の野にそびえ立ったのです。

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禅宗停止令と『興禅護国論』

こうして栄西は建久五年(1194年)の春、新興の気勢に乗じ、いよいよ京の都に法幢を進めようとしました。がしかし、革新の途は決して坦々の道ではありません。迫害の第一矢は、果然、箱崎の天台僧良弁によって放たれました。良弁は南都北嶺の反感をあおって、朝廷に、栄西の法は邪教だと誣告(ぶこく:偽って訴えること)し、布教停止の命を要請しました。こうして朝廷からは達磨宗停止の命が発せられて、栄西は大宰府に召喚され、藤原兼実によって訊問される身となったと底本はいいます。しかしかかる妨害は、栄西の新運動にいっそうの拍車を加える以外の何ものでもありませんでした。栄西はこのとき堂々と反撃して叫びました。

「わが禅は今はじめて興ったのではない。伝教大師はその著『内証仏法相承血脈』の巻頭にすでに達磨の法を挙げておられる。もし禅宗が非ならば、伝教もまた非だ。伝教が非ならば天台の教は成立しない。天台の教が成立しないならば、どうして天台の徒が我を非議する権利があろうか」

と鉄案一下、また反論の余地なからしめました。栄西はこれに関してさらに『興禅護国論』『出家大綱』を著し、「仏弟子はすでに仏法を継がず、あたかも獅子の子が羊や猫となるがごとし。仏法はすでに絶えて、怠けることは病児に超えたり」と評して既成教団の非行を追撃し、一方自己の新運動の指導理論については、

「それ仏法は持戒を先とす。もし仏戒を破りてしこうして仏子と号せんは、たとえば国王の臣の王命にしたがわずして臣と称するがごとし」

「もし持戒清浄なれば、必ず一切の禅定智慧を成就し円満することを得ん」

「この宗は戒をもって禅とし、禅をもって究となす」

と断案を下しました。結局、栄西にあっては正しい戒律の生活こそ仏教のアルファでありまたオメガであって、彼こそ持戒の化身そのものでした。こうして栄西は、禅宗が決して仏教の異端でなく、かえって伝教立宗の精神を正しく実践するものであることを説き、天台僧侶の妨害のごときは「常に禅門をふさぐのみならず、そもそもまた叡山の祖道を毀(こぼ)つものだ」と言って、自らは第二の伝教をもって任じ、ひたすら仏教祖道の復活に努力しました。

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寿福寺・建仁寺と晩年

大風は強木をつくる。禅師の声望は武士階級の支持によって、このころから隆々として上がっていきました。正治二年(1200年)、六十歳のとき、将軍源頼家や政子の帰依によって、義朝の旧跡亀谷の地に寿福寺を建立して関東の根本道場を固め、京都にあっては頼家の発願によって建仁寺を興し、真言・天台の二院も並立して三宗兼学の大道場となるに及んで、従来尖鋭に対立していた真言と天台の協調も生じて、京都の伝道は着々と進みました。建永元年(1206年)の秋には、ついに勅命を得て東大寺の大勧進職を拝し、以来朝野の信望を一身に集めて京都・鎌倉を往来し、老来矍鑠(かくしゃく)として教界刷新、仏道伝道の聖業に奔命し続け、建保三年(1215年)七月五日、七十五歳にして鎌倉の寿福寺に持戒堅固の一生を閉じました。

 

※ 底本は寿福寺建立を「五十九歳」、没月を「六月」としていますが、正治二年には数え六十歳で、没したのは建保三年七月五日です。

 

栄西は、われ世を去って五十年にして禅宗大いに興るべし、と予言しましたが、その滅後三十年ごろから臨済の禅風はますます上がり、僧道隆をはじめ宋から禅の高僧が続々来朝し、禅刹の建立相次ぎ、いわゆる五山十刹の隆盛を現出しました。一方、栄西の高弟明全に師事した道元によって新たに曹洞禅は提唱され、臨済・曹洞の禅道は、法然、親鸞の念仏宗、日蓮の法華宗と相競って、鎌倉時代の仏教運動の展開を見るに至ったのです。

戒を守る人が、仏像の光背を飢えた男にやってしまう。矛盾のようでいて、この人のなかでは一つのことでした。十年待って海を渡り、比叡山に邪教と訴えられても一歩も引かず、五十年後に禅は興ると言い残して逝った人。その予言どおり、日本の禅はこの人から始まります。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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