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歌川豊国の生涯|役者絵と美人画で浮世絵界を席巻した歌川派のカリスマ

歌川豊国の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「筆料はいりませぬほどに、一つこいつを錦絵にして売ってみていただきてえんですが」

芝神明前の絵草紙屋、和泉屋市兵衛の店先に、下絵を携えた若い男が涙ぐましいほど頼みこんできました。市兵衛が同情して出した一枚は、思いがけず大当たりを取ります。これが、やがて役者絵の大御所として江戸の版画界を支配する歌川豊国(うたがわ とよくに)の、世に出た最初でした。

 

修行時代

豊春から出た歌川流が全画壇を独占した当時、その歌川流の総帥として活躍した豊国は、明和六年(1769年)、江戸の芝三島町に生まれました。父は俗称を五郎兵衛といい、人形製造を業としていました。父が家業とする木彫の芸術は幼い豊国に強い感化を及ぼし、後年彼が役者絵の大家として名声を博するに至ったのも、家庭の雰囲気の影響に負うところが少なくないといわれています。豊国は幼いころから非常に絵を好み、ひそかに絵師となることを希望していましたが、たまたま同町に歌川流の始祖・歌川豊春が住んでいて父とも懇意な間柄だったので、その門に入って薫陶(くんとう)を受けました。

豊春は歌川流を開いたほどの人だけに、種々の方面に新しい試みをなし、美人画にも秀で、とくに風景画においては西洋画の手法を参酌して考案した「浮絵(うきえ)」の大家であり、版画のみならず肉筆画にも傑出した腕を持っていました。豊国はこの師の指導を得て画技に精進します。また一方、彼の世に出た天明年間は、版画界においてもっとも注意すべき偉大な版画家たちが輩出した時代で、鳥居清長、喜多川歌麿、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし)、北尾重政、勝川春潮らの大家が林立していました。豊国は十七、八の気鋭の時代にこの版画隆盛期に際会したのですから、必然にこれらの諸大家の技法をも受け容れて、自らの大をなしていったのです。

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筆料はいらぬほどに

ある日、芝神明前の絵草紙屋・和泉屋市兵衛のもとに来て、携えて来た下絵を市兵衛に渡し、

「筆料はいりませぬほどに、一つこいつを錦絵にして売ってみていただきてえんですが」

と切願する男がありました。押し返そうとしても涙ぐましく頼みこむので、市兵衛もいたく不憫になり、「よろしゅうがす。出しやしょう」と引き受けて出版しました。こうして豊国の処女作は発表されたのです。ところが、版元が同情的に出版したその作は、がぜん大当たりに当たり、非常な売れ行きを示しました。市兵衛は気を励まし、ずいぶん熱心に励精されよ、その下絵は自分で必ず引き受けようから、と言ったので、豊国は大いに勢いを得、鋭意画筆を振るって必ず和泉屋へ持っていって売り広めたので、その画はしだいに評判高く、ついに隆々として名声を挙げるに至りました。豊国は深くこの旧誼(きゅうぎ:古いよしみ)を重んじ、後年彼が画名の全盛をきわめ、依頼される画債を果たしえずに身を隠しつつ描くようになってからも、和泉屋からの求めといえば「よろしゅうがす」と、いかなる注文を差しおいても、とくに厚く意を用いて描いてやるのを常としたといわれています。

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精進大成

十八歳前後から作品を発表しはじめた豊国は、最初は師風に近い美人画を描いていましたが、しだいに清長、歌麿らの特長を採り、寛政五、六年ごろに至っては非常な技巧上の進境を来し、早くも美人画家として名声をほしいままにしました。ついで役者似顔絵に筆を染め、寛政六年から七年(1794〜95年)にわたって発表された『役者舞台之姿絵』数十枚は一躍彼の名を確固不動のものにし、役者絵専門の作家としては彼の右に出る者はなくなりました。かの東洲斎写楽なども、今日ではその声価は豊国の上にあるように見えますけれども、制作当時においては、豊国は写楽のあとを受けて役者絵に自己独特の境地を開き、写楽よりもさらに民衆の声望を得て制作の数を増し、もっとも名声の高い役者絵作者だったのです。

豊国はまた、草紙の挿絵方面にも自己の豊富な天分を広げていきました。当時、戯作(げさく)が盛んに世に行われ、紙表紙、合本、絵本などのおびただしい出版があり、そのなかにあって豊国の筆になったものは実に四百数十部の多きに上っています。草紙類の挿絵は精を尽くし努力を要するので、彼は書肆(しょし:本屋)からの画稿の催促に追われて、ところどころを逃げ歩くほどでした。こうして豊国は、文政八年(1825年)正月七日、五十七歳をもって没するに至るまで、絶えず忙しく画稿に追われて日を送ったのです。それが彼の多作のゆえんでもあり、かつ晩年いたく画格を損じ、技量を砕いた原因でもありました。この事実は豊国のために惜しんでも余りあることですが、彼自身は在世中、名声も持ち、生計も豊かに、堕落も知らず、幸福な生を送ったのです。豊国の没後四年目、文政十一年八月に『豊国先生瘞筆之碑(えいひつのひ)』が多数の門人たちによって本所柳島妙見堂の境内に建設されましたが、その碑の裏面に記された門流の氏名だけでも、実に八十有余人に上ります。彼の門下から出た逸材の主なものには、国貞、国政、国安、国丸、国直、国芳、国虎および二代目豊国らがあり、もって豊国の繁栄の絶大を推し量ることができましょう。

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豊国の肉筆画

豊国が世に出た寛政の初めから文政年間に至るあいだは、浮世絵版画のもっとも盛んな時期で、版画の趣味においてもその進歩の絶頂にありました。豊国は版画家として世に立ったものですが、時流のなかに立って群を抜いた者であっただけに、ほかの版画家のように絹本に向かうと筆の鈍りを来すというようなことはなく、絵筆を持っても鈍らないだけの修養とを持っていました。彼は版画を専門とはしていましたが、肉筆画においてもすぐれた手腕を有し、いたずらに描線の活躍、色彩の濃麗を事とするのみではなく、表現しようとする対象に応じた描法の工夫を備え、優に肉筆家としても立ちうる器量の持ち主だったのです。帝室博物館その他の蔵品中には、よく彼の技量を見るに足る逸品があります。

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美人画

天明の末から寛政の初めにかけて、豊国は主として美人画に筆を取りましたが、感受性の強い彼は、当時の版画界の大家の画風を取り入れて、あるいは清長風に、あるいは春潮風、歌麿風などに描き、そしてしだいに別の自己の作風を築き上げていきました。ついで享和時代に入って、彼は自己独特の美人画を作り出し、ついに一派をなすに至ったのです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「享保時代」としていますが、享保は豊国の生まれる前の年号で、文脈から享和(1801〜04年)の誤りです。

 

『美人筍掘図』『湯帰美人』『美人沈水図』『花下美人遊図』などに現れた彼の美人は、すでに豊国流の相貌を示し、姿はやや丈高く顔の細長い、彼独特の芸術境を見せています。そして天明の末、寛政の初めに清長が筆をやめ、歌麿も衰えるや、美人画界はまさに豊国の独り舞台の観を呈したのです。

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風景画

西洋の遠近法を取り入れた新画法「浮絵」に名声を博した豊春を師としただけに、豊国にもまた浮絵の手法を用いたものが往々あります。『殿中美人春のつどい』は広い殿中を浮絵の手法によって巧みに描き出し、「十二候」の五月は竹林を隔ててはるかに御殿を見せています。『浅草観音図』は空を紅でぼかし、藍で屋根瓦をあらわし、紅を用いて朱塗りの部分を表現し、商家の屋根を黄色くし、樹木を緑に描いて、面白い色調を見せています。しかもその色彩は、自然の美観から来る色と異なり、版画としての面白味を存分に発揮した色です。画中に配された多くの人物は風景画専門の画家の手になるそれとは趣を異にし、風俗画家らしく彼らを多種多様に活躍させています。風景画においても、そこに豊国らしい特色を見いだすのです。

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役者絵

世人が呼んで似顔絵師と称したほどの豊国でしたから、役者絵には非常に独創的なものを持っていました。かの『役者舞台之姿絵』をもって轟々たる評判を取った彼は、矢つぎばやに傑作を世に送り、油の乗った勢いにまかせていろいろな役者絵を盛んに制作しました。半身もあれば大首(おおくび:上半身や顔を大きく描いたもの)もあり、一枚ごとに意匠を凝らして、続々とすぐれたものを出版しました。寛政八、九年は彼の注意すべき作品が多数に出た年で、彼は役者絵描きの大御所として押しも押されぬ地位を築いたのです。豊国の役者絵は師の豊春のものとは全然違い、むしろ初期においては勝川春英の影響を受け、ついで写楽の風を取り、しだいに自己の特色を磨いていきました。豊国は勝川春英や写楽によったといっても、いたずらに彼らの模倣を事としたのではなく、彼一流の厳とした特色を持っていました。たとえば二人の役者を一図中に按配する特殊な技量です。この構図は半身像あるいは全身像においても行われたことで、『役者舞台之姿絵』では全身をもって二人を重ねて描いています。この作図法は彼が多くの作品中に好んで用いたものであり、それがまた豊国の特色の一つでした。

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絵本草紙の挿絵

豊国はまた黄表紙、合巻、絵本の類にもすこぶる力をいたし、寛政から享和ごろにかけて多量の精力を注いで描きました。役者を描いた有名な絵本には『画図俳優三階興』『役者此手嘉志和(やくしゃこのてかしわ)』『俳優相貌鏡』などがあり、晩年の作『劇場役者似顔絵稽古』は、長く俳優を描く者の範となりました。本人が非常な精力家であり、また出版屋のほうでも豊国のものならば売れ行きがよいので、彼を方々に追い回して描かせました。読本の挿絵で有名なものには『桜姫全伝』『稲妻表紙』などがあります。この時代の小説は文章だけでは売れず、どうしても挿絵の力を借りなければなりませんでしたが、常に絵師のほうの勢力が作者よりも偉大であったため、「豊国画・京伝作」というように絵師の名のほうが先に記されました。もって当時における豊国らの位置を知るべきです。

筆料はいらないと頭を下げた青年は、やがて作者より先に名を刷られる絵師になり、催促から逃げ回って描き続けて五十七で死にました。描きすぎて晩年の画格を落としたと惜しまれる人ですが、八十余人の弟子の名を刻んだ碑と、国貞、国芳、広重へ続く歌川の流れが、この人の答えです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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