明治三十八年(1905年)、一つの発明が世界のポンプの常識を変えました。それまでのポンプはみな水鉄砲のようなピストン式で、能率は低く、使える範囲もせまいものでした。そこへ現れたのが「ゐのくち式タービン・ポンプ」です。発明したのは、少年のころ、じっと動かず物思いにふけってばかりいた金沢の学者の子、井口在屋(いのくち ありや)でした。
発明界の権威
底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和の初め、わが国の各種の機械工業はいちじるしい進歩発達をとげ、世界に対して誇るに足るものを数多く持つに至っていました。そのなかでも「ゐのくち式タービン・ポンプ」は、その主なものの一つでしょう。このタービン・ポンプはわが国水力学の権威・井口在屋博士の発明になるもので、実にこれは当時、世界のポンプ界に一大革命をもたらした驚異的な発明でした。
従来、世界で使用されていたポンプは、そのことごとくがピストン式で、水鉄砲のようにピストンの往復によって必要の目的を達していたのですが、その能率の低いこと、用途の範囲のせまいことから、その改良と発明は当然、世界の学界および工業界の切実な要求となっていました。この切実な要望のなかへ「ゐのくち式タービン・ポンプ」が出現したのです。明治三十八年、発明がひとたび世に現れるや、彼の名はあまねく社会に喧伝(けんでん)されました。この発明は、従来の回転翼車の羽根を付けていない部分を停止体として、羽根と流体との衝突から生じる損失を避けるように工夫されたもので、新しい原理をおさめたものといわれます。この原理はまた数学の上に適用されて、数多くの定義を生み出させるに至っています。
こうして成った「ゐのくち式タービン・ポンプ」は、その効率が良好なため各種の工業に応用され、ついに輸入を防止させるに至りました。その用途は、まず鉱山、石油坑区をはじめとして、船舶、上下水道、諸土木工事、灌漑(かんがい)、底本の当時に東京市の撒水用として使用していたポンプ、その他百般の排水給水などで、ほとんどすべてのポンプがすなわちこれでした。井口在屋のこの渦巻きポンプの理論は、いうまでもなく、まったく内外の先人が開いていない境地をきわめた独特のものでしたが、彼はこのすぐれた発明を完成したほか、水力学、材料および構造強弱学などの奥義をきわめ、また応用数学に関する論文も多く発表しています。
さらに、新しい学会を興してわが学界に尽くした功績もまた大きなものでした。それを挙げるならば、まず第一に機械学会の創立をはじめとして、工学会、造船協会、数学物理学会、暖房冷蔵協会、日本ローマ字会などの主脳者として、あるいは機械工学術語集の完成者として、井口式簡易表の作製者として、工業雑誌の創刊者として、わが学界に寄与したところは実に多大なものがありました。また彼は、震災予防調査会、鉱毒調査会、臨時軍用気球調査会、度量衡および工業品規格統一調査会、学術研究会議、航空評議会などの委員および評議員として、あるいはまたしばしば国内博覧会の審査員として、わが国家社会の発展に多大の貢献をなしています。実に彼こそは世界に誇るべきわが国発明界の一権威であり、学界、工業界、育英事業への偉大な貢献者でした。

輝けるその略歴
井口在屋は、安政三年(1856年)十月三十日、加賀金沢に、藩の碩学(せきがく:大学者)井口済(わたる)の三男として生まれ、幼名を窓助といいました。幼時から頭脳明晰(めいせき)で、長じるにしたがってその英才は縦横に発揮され、見る人を驚嘆させました。だが彼は非常に体質が虚弱であったためか、その動作は少年にも似つかわしくなく、どちらかといえば不活発なほうでした。常にじっとして動かず、物静かな瞑想にふけっていたのです。しかし、この外に現れた姿をもって単に不活発であったと見るのは、あるいは誤りかもしれません。なぜなら、後年世界を驚倒させたあの発明に対する執拗な追求心は、そのころすでに物静かな瞑想のなかに芽生えており、したがって彼は自分の動作を忘れがちであったかもしれないからです。
こうした物静かな少年時代を、彼は父母から漢学を教えられて過ごし、その後、藩校の明倫堂に学びましたが、また数年にして英学校に入学しました。
そして外国人レンバートについて英語を学び、関口開(せきぐち ひらき)に数学を学びました。関口開は当時における数学の大家です。ここに至って彼の英才は同輩を抜いて、ますますその翼を広げはじめたのです。明治九年(1876年)、彼は工部大学校に入学し、機械学の官費生となりました。そして同十五年、抜群の成績をもって卒業するや、ただちに工部大学校七等技師に任じられ、ついで工作局教授補、工部大学助教授などを歴任し、同十六年十一月には海軍省一等出仕となり、さらに海軍六等教官に任じられて海軍機関学校教官となりました。明治十九年には改めて工科大学の教授を経て、同二十七年、海軍大学教授に任じられ、同年七月、文部省留学生として教育学研究のためイギリスに派遣され、さらにドイツ、スイス、フランスなどを巡遊し、各地の教育の状態を視察研究して大いにその学識を高めました。そして二十九年、帰朝すると同時に東京帝大工学部教授に任命され、ここにわが国機械工学界の中心にあって後進の指導にあたることになったのです。明治三十一年、ふたたび海軍大学教授を兼任しましたが、その翌三十二年、彼はついに工学博士の学位をかちえるに至りました。そして明治四十二年(1909年)、帝国学士院会員に推薦され、数年後、同院からアメリカ視察を委嘱されています。また大正五年(1916年)には東京帝大から航空学の研究を指命され、同九年には学術研究会議の会員に任じられるに至りました。

非書斎派的学者
世に学者としての学者は非常に多い。いわゆる書斎派の学者です。井口在屋も実に博学多才の学者でした。だが彼は、書斎を天地とする世の普通の学者とはまったく類を異にしていました。自らその深奥をきわめた知識学術を常に実際的に応用し、もって国家社会に貢献することを忘れなかった、生きた学者だったのです。彼の手になる無数の発明特許のなかで「ゐのくち式タービン・ポンプ」などはまったく世界独歩の大発明であり、当然、その道の人々を驚嘆させたのですが、しかし彼の学者としての偉大さは、このポンプ界に一大革命を招来させたことのみではなく、またその数十年間にわたって尽くしてきたわが教育界に対する大きな功績でもあります。
彼が帝大において三十有余年間、親しく薫陶(くんとう)してきた人間の数はほとんど三千人に達し、これらのなかには、底本の当時、わが国工業界のリーダーとして活躍していた人物もあり、また彼が海軍大学教授、機関学校教授時代に世に送り出した海軍士官も、これを顧みれば実に多数を数えることができるのです。同時に彼はまた私立の講習学校を起こしてほとんど一万人に達する技師を養成し、もって国家産業の興隆に寄与したのですが、教育事業に尽くした功績はしかしこれのみではなく、商業・工業学校の数学教授に関しては独特の境地を開拓し、そこに一新紀元を画しています。このほかには工手学校、実業学校の創立、しばしば開催された特殊な講習会など、彼の公民教育に尽くした事績は実に枚挙にいとまがないほどです。また学界に対するもっとも顕著な功績の一つとして、東京機械学会の創立を忘れてはなりません。同学会は底本の当時、丸の内ビル五階に事務所を構えて盛大をきわめていましたが、同学会をしてそのようにあらしめたものは、実に井口在屋その人でした。彼は同学会の二十五周年記念の際、推されて名誉会員に列しています。

後世なお謳(うた)われる偉業
彼の工業は他の追従を許さない深奥なものであったとはいえ、しかしその応用はきわめて簡潔なものであったため、特殊な技術家一般にあまねく使用されていたのですが、彼はそれらの人々のためにも、当時わが国に工学に関する雑誌のないことを慨嘆し、自ら費用を投じて工業雑誌を発刊しました。当時彼は経済的に窮迫していたのですが、まったく公共的事業の心構えをもってこれにあたり、万難を排して、これの続刊に苦心努力したのです。実に発明界の貢献者であるばかりでなく、学界の誇りとして、育英事業の功労者として、彼は永久に銘記されるべき人物でした。
三十八年間といえば短い年月ではありません。彼はこのあいだを工業界に、育英事業に、努力して尽くしたのですが、この業績こそ実に超人的な記録といっても過言ではなく、また自分の専門とする研究に対しては一瞬たりとも怠ることなく、老いてますます専念精進し、その大きな研究の結果を発表したのです。彼の研究を発表した小冊子や書籍は、わが国のみでなく海外における多数の書店が争ってこれを出版したといいます。また彼が帝大工学部教授としての二十五年記念の際の催しなどは実に驚くべき盛儀であったといいますが、彼の尋常ならざる徳望と学殖の功績の反映がいかに大きかったかを語るに足るものでしょう。だが、こうして星霜三十有余年間にわたって続けてきた彼の輝かしい後半生にも、ついに悲しむべき最後が来ました。老齢にとってあまりにも激しかった学者的努力と、工業界発達のために尽くしてやまなかった異常な精励とのため健康を害して、大正十二年(1923年)三月二十五日、惜しくも病没したのです。享年六十八。病があらたまるや、とくに勲一等に叙され、瑞宝章を贈られました。彼の数多くの偉業は底本の当時もなお厳然として世を益し、東京帝大の校庭にはその胸像が建てられて、生前の偉業がたたえられています。
じっと動かない虚弱な子どもの頭のなかで、水の流れが回り続けていました。その子が大人になって作ったポンプが、鉱山の水を抜き、船を動かし、町に水を配ったのです。自分の金で雑誌を出し、一万人の技師を育てた人の発明は、今も世界じゅうで回っています。


