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伊藤仁斎の生涯|古義堂を開き一千名以上の弟子を育てた江戸の儒学者

伊藤仁斎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「私か。儒者だ」

夜道で数人の賊に取り囲まれ、剣を突きつけられた男は、言われるままに衣服を脱ぎ、金袋を渡して、裸のまま悠然と立ち去ろうとしました。あっけにとられた賊が呼び止めます。あなたは何をしておられる方か。そう問われて答えたのが、この一言でした。京都堀川の私塾・古義堂(こぎどう)の主、伊藤仁斎(いとう じんさい)です。

 

堀川学校の創設者

伊藤仁斎(1627〜1705年)は、京都の儒者です。名は維楨(これえだ)といい、通称を源助といいました。徳川時代の私立学校のうちもっとも功績のある、京都の堀川学校の創設者です。曽祖父の当時から泉州堺にいましたが、元亀・天正のころ大阪付近は物情騒然として不穏なので一家をあげて京都に移住し、東堀川通り出水下ル四丁目に居を定めました。これが有名な古義堂で、すなわち堀川学校の位置になっています。仁斎の父は七右衛門という浪人、母は連歌師・里村紹巴(さとむら じょうは)の孫にあたります。後水尾天皇の御代、寛永四年(1627年)七月二十日に、仁斎は生まれました。

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「大学」を読み立志

十一歳のころ『大学』を学び、「治国平天下」の章に接して感激発奮し、ここに勉励をいよいよ強め、二十歳くらいから程朱(ていしゅ:宋の程子と朱子)の学に思想をひそめました。二十八、九歳までのあいだに『心学原論』『太極論』『性善論』を著しましたが、そのころから彼は病におかされ、以後十年、門の外に出られなくなります。親戚や旧友の勧めにしたがって家を父七右衛門に託し、隠居すると、いよいよ読書に没頭しました。ここに仏教と老荘の書を深く研究し、その結果は、宋儒の説が孔子・孟子の教えを正しく伝えているかどうかについて、大いに疑念を生じてきたのです。

越えて寛文二年(1662年)、近畿に大地震がありました。仁斎は堀川の旧家に戻り、はじめて塾を開いて諸生を教えます。ときに三十六歳です。次いで延宝元年(1673年)の大火災があり、類焼をこうむったので、しばらくのあいだ東京極丸太町上ル大恩寺に移っていました。肥後侯・細川越中守が千石の重禄をもって礼を厚くして仁斎を迎えようとしたのは、ちょうどこのときです。が、彼は母の病中ゆえ、これを辞退しました。しかし母にはまもなく逝かれ、翌年、堀川の新築の家でまた父を失ったのです。彼はいたく悲しみ、前後四年喪に服しました。

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門下生一千余名

このあいだに仁斎は、閉鎖していた堀川の学校を再開して、『論語』『孟子』『中庸』の三書を自分の見解によりくり返し親しく講義しました。そのかたわら『易経』『大学』『近思録』などにも及んでいます。そして倦(う)むことなく、晩年に没するまで子弟の教育に精励しました。彼が『童子問(どうじもん)』三巻を著して自分の説を大成したのは、元禄六年(1693年)、六十七歳のときです。宝永二年(1705年)三月十七日、七十九歳で長いその一生を終えましたが、育英にあたること実に四十年、門下生は一千余名に上っています。

仁斎には五人の子どもがありましたが、みな儒者として家学をよく守りました。なかでも長子の長胤(ながたね:伊藤東涯)と季子の長堅(ながかた:伊藤蘭嵎)はもっともすぐれて賢く、世に「堀川の首尾殿(しゅびどの)」と称せられたのです。仁斎のあとは、東涯、孫善と続き、六代目重光で明治の時代に至っています。明治四十年(1907年)十月二十三日、仁斎は正四位を追贈されました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「東涯、孫善と続き」と書いていますが、東涯のあとを継いだのは東涯の子の東所(とうしょ:名は善韶)です。

 

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盗賊と仁斎

仁斎がかつて夜道を行ったとき、数人の賊に取り囲まれ、剣を突きつけられました。

「酒代がないんだが、さあ、その着物を脱いで、金を出して行かないか」

仁斎は驚かず、静かに言いました。

「お前たちは何をして働いているのだ」

「おれたちか。おれたちは天下を横行し、追いはぎ強盗を商売にしているんだ」

「お前たちの商売とあればやむをえぬ。くれてやる」

とおもむろに衣服を脱ぎ、金袋を与えて、裸で悠然と立ち去ろうとしました。すると賊らは顔を見合わせ、仁斎を呼び止めます。

「数年このかたこういう商売をしているのだが、あなたくらい落ち着いていて勇気のある方を見たことがない。いったいあなたは何をしておられるのか」

「私か。儒者だ」

「儒者! それは何をする商売ですか」

「人倫五常の道を教えるのが商売じゃ。人倫の道と申すのは、親には孝、兄弟には友愛、人と交わるには信を重んじ、老いた者を敬い幼い者を愛し、貧しい者をにぎわし窮した者を救うなどがまずその主なもので、これは人間にあっては一日半時も欠くことはできぬ、常にこの心がなければならぬ。もし人としてこれがなかったならば、禽獣(きんじゅう)と少しも選ぶところがない」

と、こんこんと説き諭したのです。賊らはこれを聞いて大いに自分らの非を悟り、ひざまずいて言いました。

「私どもも同じ人間と生まれ、しかしこのようなまちがった業をいたしておりましたのは、まことに恥ずかしいことでございます。どうかわれらの罪をゆるし、ご門弟に加えていただき、お教えくださるようお願いしたく存じます」

と悔悟して、以来良民になったといいます。多少誇張された傾向がないでもありませんが、彼の温容と高徳を伝える話としてふさわしいではありませんか。

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大石良雄と仁斎

その人を見る目の確かさについては、こんな話があります。大石良雄(おおいし よしお:内蔵助)が仁斎のもとへ束脩(そくしゅう:入門の謝礼)を納め、ある日、仁斎が書を講じるのに席に侍っていました。ところが大石はときどき居眠りをして、よく聴いていません。あたりの塾生はその様子に笑いを殺していましたが、やがて大石が退出すると口々にあざけりののしり、「怠惰もあそこまで行けばむしろ学ぶ必要はあるまい。何のために来たのか」と、そういう意味の軽蔑をあらわにしました。

が、仁斎はそれをたしなめて言いました。

「諸君はみだりに彼をそしってはならぬ。私が見るところでは、大石は決して凡庸の器ではない。必ず将来に大事をなすに足る人物と信ずる」

のちに大石が主君の仇を討って世を驚かせたのは、人の知るとおりです。

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駁論(ばくろん)無用也

芝山大高坂(しざん おおたかさか)が、その著書においてはなはだしく仁斎を非難攻撃したことがありました。そのとき門人の一人はさっそくその書を持参して仁斎に示し、「これを黙っておられるということはありません。ただちに弁駁(べんばく:反論)の書をお書きなさいませ」と勧めました。しかし仁斎は微笑したのみで、何とも言いません。門人は怒って、「先生がもし弁じられぬのならば、私がその任にあたりましょう」。仁斎はそれを静かにとどめて言いました。

「彼が是であるならば、自分はわが非を改めて彼に従おう。もし自分が是で彼が非であるならば、わが是は天下の公論であるによって、もとより弁を待たぬ。時を経るうちには、彼みずからその非を知るであろう。なんじはただ自らを修め、あえて他人のことを顧みるな」

と戒めたそうです。太っ腹で、かつ信念の強い仁斎の風貌を髣髴(ほうふつ)とさせるものがあります。

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その学説

仁斎の著書には『論語古義』『中庸発揮』『語孟字義』『童子問』『古学先生文集』『詩集』などがあります。要するに彼は、いわゆる訓詁詞章(くんこししょう:字句の解釈や文章の修辞)、言葉や文章の詮索などは事とせず、もっぱら道義を解き明らかにすることを任務としました。『論語』をもって彼は「最上至極、宇宙第一の書」とし、『孟子』をもってこれに次ぐものとしました。

そして、宋儒の唱える、天理(形而上)と現象(形而下)が相たすけ合うという二元論を排撃し、「寂静主義」、すなわち自己に沈潜し瞑想のうちに内的な静けさを味わおうとする一種の神秘主義をもしりぞけました。また彼は、宋儒の説である「復性復初」、すなわち気質を変化して本性の初めに立ち返れという考えは老荘の思想であって儒教にはないといい、われわれは自己に内在する善の種子を意識的に育成し発展させなければならないと主張し、本性とは気質の本性以外になしと言って、それを二つに分けることに強く反対しました。宋儒にしたがうと、孟子の書にある「四端の心」、すなわち惻隠(そくいん)の情・善悪の感・恭敬の念・是非の別は、われわれの本性に固有する仁・義・礼・智の四徳の端緒ですが、仁斎の見解ではそうではありません。「四端の心」は、やがて仁義礼智に発展すべき種子である、というのです。彼は儒学をきわめ尽くして、独自の一家の見識を打ち立てました。

千石の禄を断り、追いはぎに着物をくれてやり、自分を攻撃する本に反論を書かなかった人。その人が四十年、堀川の家で教え続けた「道」は、人と交わるには信、親には孝という、ごく当たり前のことでした。当たり前を一生貫いた人のもとに、千人を超える弟子が集まったのです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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