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荒木寛畝の生涯|の生涯と名言!幕末の絵師から帝室技芸員へ

『荒木寛畝』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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その生い立ち

 

のちに「帝室技芸員(ていしつぎげいいん:皇室が認定した最高の芸術家)」となった荒木寛畝(あらき かんぽ)は、増上寺の役人であった田中永周の三男として、天保2年(1831年)6月、芝赤羽の通称「御被官町(ごひかんちょう)」と呼ばれた、お竹大日如来で有名な心光院の近くの屋敷で生まれました。先祖の田中民部太夫が、大阪城落城の際に徳川家のために家を没収され、それ以来、増上寺に身を寄せるようになったと言われています。

9歳の時、荒木寛快(あらき かんかい)という画家の門に入りましたが、彼は読書や算術といった本来の勉強が嫌いで、絵ばかり描いて遊んでいました。何度叱っても、好きな道に夢中になると他人の言うことなど全く聞き入れません。ついに親たちも「この子の将来は絵だ」と決め、絵の道に専念させることにしたのです。

しかし、師匠から見れば、まだ色つきの絵(彩色物)を描かせるには少し早すぎました。「まずは蘭、竹、菊などの『四君子(しくんし:中国の宋代から東洋画(水墨画)で画題とされてきた「蘭・竹・菊・梅」の4つの植物の総称)』を描く基本の筆遣いから順序立てて学ばせないと、器用さが仇となってせっかくの才能が伸び悩んでしまう」という心配があったのです。しかし、光三郎(こうざぶろう:寛畝の幼名)はひたむきに、自分の描きたいように描きました。そして、その技術の並外れた素晴らしさによって、師匠をすっかり感服させてしまったのです。

こうして腕を磨いた彼は、16歳の春に「琴棋書画(きんきしょが)」の緻密な絵8枚を模写しましたが、それによって師匠の寛快はすっかり光三郎の腕前を見込み、「後継者として養子に欲しい」ということになりました。その話が決まった翌年、実の父である永周が亡くなり、18歳の彼は増上寺に入って冠誉大僧正の付き人(随身)となりました。

大僧正もまた彼の優れた技術に感心し、古い立派な絵の模写をさせました。そしてその出来栄えを大いに褒め称え、特別に豪華な金襴の掛け軸(表装)に仕立てて居間に飾り、光三郎をその前に呼び寄せてこう言いました。

「これこそがお前の一生の守りである。必ずこの道を一生懸命勉強して、後世に名を残しなさい」

と励ましたのです。この激励の言葉は、一生忘れることのできない感激となって寛畝の胸に焼き付けられました。

 

荒木寛畝

容堂公のお抱え絵師に

 

養家である荒木家も、徳川時代より前からの旧家ですが、その先祖は荒木山城守といい、3代将軍・家光の時代に、主君である秋田城ノ介が百万石の領地を没収され、奥州三春(福島県)に五万石の新しい土地を与えられたため、暇をもらって江戸に住み着いたのでした。たまたま安政の大地震に遭い、一時は大変貧しい生活をしたと言います。

寛畝には寛一(かんいち)という義理の兄がいました。その主君である黒田甲斐守は、土佐藩主・山内容堂(やまうち ようどう)の伯父にあたる人で、荒木家と同じ町内に住んでいました。安政3年、寛畝が26歳の時、彼は黒田邸を訪れていた容堂の御前で、兄の寛一と共に「その場で絵を描いてみせよ(席画揮毫)」と求められました。

かねてから彼の天才ぶりを噂に聞いていた容堂は、これを幸いと、寛畝の腕前を直接試してやろうと思ったのです。

「お前の得意なものは何だ」

「はい、人物や花や鳥などでございます」寛畝は全く物怖じする様子もなく即座に答えました。

「よろしい。では今ここで、四人の美人をそれぞれ描き分けてみせよ」と容堂が命じました。そして用意された絵を描くための絹(尺八絵絹)4枚が持ち出されました。寛畝は静かに筆を執って、次々に描き上げました。それは、楊貴妃、西施など、中国の歴史上の四人の美人を墨だけで描いた四枚の掛け軸(四幅対)でした。容堂はさらに「七日間の期限でこの絵に色をつけよ」と命じました。一週間後、素晴らしい極彩色の美人画四枚が容堂の元へ差し出されました。さらに重ねて容堂は「蓮の絵を12枚、それぞれ違う構図で描き上げてみせよ」と命じました。これもまた、あっという間に御前へ提出されました。人物も花も、いずれも容堂の気に入ったことは言うまでもありません。ついに彼が山内家のお抱え絵師として召し抱えられることになったのも、この「採用試験」に見事パスした結果だったのです。

 

荒木寛畝

 

阿房宮の大作

 

しかしながら、世の中は非常に騒がしくなり、浪人たちが暴れ回っているという噂がしきりに飛び交い、人々はみな砲術や剣道の訓練に身を鍛えるばかりで、平和に絵を描くような心の余裕はありませんでした。容堂も朝廷の命令を受けて京都へ向かわなければなりませんでした。

寛畝は留守番の一人として江戸の屋敷に残りましたが、世の中はますます物騒になってきます。絵師などという職業は、こうなるとさっぱり価値を認められない時代になってきました。もとよりお仕えしている身分である以上、いざという時には絵の筆を投げ捨てて、主君のために命を捧げなければなりません。とはいえ、むざむざ今ここで命を捨てることは彼にとって無念でした。今まで苦労して築き上げてきた絵の道が、たちまち水の泡になってしまうからです。そこで彼はとっさに考えました。

「同じ死ななければならない身ならば、せめてこの世の思い出に、一生一代の命を懸けた大作を後世に残しておこう。これこそ、お抱え絵師である自分に与えられた責任であろう」

そして構想を練ること三日三夜、ついに「阿房宮図(あぼうきゅうず:中国の伝説的な巨大宮殿の絵)」の大作のプランが胸の中で完成しました。

それからの1年間、昼も夜もこの大目標のために全精力を注ぎ込みました。ある時は佐藤一斎の門下で彼の漢学の師匠であった河野魯助を訪ねて、昔の資料を調べることに没頭し、そのため顔色さえもげっそりするほど熱中しました。思いやりのない友人たちは、このただならぬ彼の振る舞いを見て、今の厳しい時代状況を分かっていない「阿房宮野郎」だと馬鹿にしました。

「おい、どうした阿房宮。少しは竹刀でも持って剣術の稽古でもしたらどうだ」

などと冷やかす者ばかりです。その度に彼は真面目にこう答えました。

「いや、ごもっとも。しかし俺は恥ずかしながら剣術もできないし、砲術も知らない。それでもよいから『何でも絵を描け』と命じられ、絵師としてお給料をいただいている。絵を描きながら死のうと殺されようと、もとより覚悟の上のことだ」

そう言って、ただひたすらに大作の完成に向けて努力しました。しまいには、友人や浪人たちが「なんだかんだ」と言って押しかけてくるのをうるさがり、しっかりと門の鍵を閉めて、最後の筆の仕上げに魂を打ち込みました。こうしてその大作がほぼ仕上がったのが、ちょうど薩摩藩の屋敷に討伐の軍が向かったのと同じ日でした。

 

荒木寛畝

洋画への希望

 

明治元年のことでした。彼もまた容堂の呼び出しに応じて京都へ行くことになりました。しかし、ちょうど「鳥羽・伏見の戦い」の直後で、京都の街の中も外も非常に血生臭い雰囲気に覆われており、彼はついに絵筆を握る暇もなく、慌ただしく雑務に追われました。そして容堂が天皇の東京行幸(東幸)の先駆けを命じられて再び江戸に帰る時、彼もまた一行に随行して、懐かしい「新しい東京」の土を踏みました。

東京はすっかり変わっていました。東京と横浜の間に電線が通り、郵便局が始まるという有様でした。そして明治5年には、湯島の聖堂跡で博覧会が開かれ、フランスの有名な画家の「油絵(洋画)」が3枚出品されました。油絵については、すでに以前、容堂が2枚購入した時に初めて特別に見せてもらい、その描写の見事さに魅了されていましたが、彼は今再びその油絵を見ると、もう矢も盾もたまらず、絶対にこれを学ぼうと決心しました。

幸いにも、知り合いに川上冬崖(かわかみ とうがい)という人がいました。この人は日本画の心得がある上に、かつて開成所で油絵を教えたこともあるので、早速頼み込んで手ほどきをしてもらいました。しかし、その先生といっても、わずかに西洋の本を拾い読みして油絵の描き方を少し理解したという程度に過ぎませんでした。その頃、イギリス人でワーグマンという人が横浜にいると聞いて押しかけましたが、なかなか弟子入りを許してくれませんでした。仕方なく、当時ヨーロッパから帰ってきたばかりの国沢新九郎という人について教えを受けました。

しかし一方で、お抱え絵師の身分(扶持)を離れた当時の境遇上、生活費を稼がなければなりません。明治7年、月給20円で役所(正院の地誌課)に就職し、その傍らで油絵の研究を続けることになりましたが、仕事の片手間ではどうしても修行が十分にできませんでした。そこでついに決心して仕事を辞め、貧しい生活と戦いながら油絵の技術を磨き上げました。

こうした努力の結果、当時の油絵画家として「五姓田芳松、高橋由一、荒木寛畝」と、トップ3の指に数えられるまでになったのです。

 

荒木寛畝

再び日本画へ

 

油絵の研究におけるこれまでの努力と苦労は、並大抵のことではありませんでした。もともと寛畝は、片桐桐隠の日本画の系統を受け継いだ人物です。油絵さえ学ばなかったら、これほど身を削るような苦しい思いをしなくてもよかっただろうとさえ後悔されました。そんな時、内田正雄という人から伝言があり、真面目な忠告がもたらされました。

「最近は非常に油絵に苦心しておられるそうだが、子供の頃から丹精を込めて学ばれた日本画のために力を尽くし、どうしてひたすらに日本芸術の本来の姿を極めようとしてくださらないのか」という意味でした。寛畝自身も、すでにそうした心に十分傾きかけていた矢先のことでした。

こうして明治13年の第2回「内国勧業博覧会」の開催を転機として、彼は「日本画家」としての立場(旗幟)をはっきりと示し、西洋画の写実性(リアルさ)を取り入れた、和洋折衷の独自の素晴らしい画風を展開して世間に広く認められました。宮内省からは何度もお仕事(御用)が命ぜられ、また三条実美公の知遇(引き立て)を得て、数多くの大作が残されました。

金屏風に桜と紅葉の絵を依頼された時、まだそれが完成しないうちに三条公が亡くなられました。寛畝は公の墓前に行って泣いたそうです。彼の画塾の名前「読画会(とくがかい)」も、三条公の筆による文字にちなんで選ばれたものです。

そうして彼は多くの弟子を育てる一方で、華族女学校や女子師範学校などで日本画の教授に任命され、日本画の普及と美術の発展に力を注ぎました。明治31年には東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授に任命され、明治23年には「帝室技芸員」に選ばれました。大正4年(1915年)6月2日、85歳で亡くなりました。

 

荒木寛畝

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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