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新井白石の生涯|の生涯と名言!天才学者にして幕府のトップ

『新井白石』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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六代将軍の先生

 

新井白石(あらい はくせき)は、江戸時代において特に優れていた学者であり、政治家でもあります。

37歳の時のことですが、儒学者の木下順庵(きのした じゅんあん)に才能を認められ、その推薦で甲府藩主の徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の専属教師(侍講:じこう)となりました。1693年(元禄6年)に、徳川5代将軍綱吉が亡くなり世継ぎがいなかったため、選ばれて家宣が将軍となったので(※)、白石は何かと政治上の意見を聞かれることが多くなりました。そして55歳で従五位下(じゅごいのげ)の位をいただき、筑後守(ちくごのかみ)に任命されました。翌年10月に将軍が亡くなるまでの20年間と、7代将軍・家継の代になってからの4年間、彼が政治的なアドバイス(献策)を行って世の中の役に立った功績は、本当に大きなものです。

(※史実では将軍就任は宝永6年ですが、ここでは底本の記述に沿っています)

例えば、貨幣制度の改善です。派手なことを好んだ元禄時代、政治家の間違った考えから貨幣の質が悪く作り変えられていたのがそのままになっており、物価が上がり、世の中の経済が行き詰まっていたのを救うために、貨幣の金の割合を慶長時代(昔の質の良いお金)と同じように作り直したのです。

また、盛んになりかけた外国との貿易によって、海外へ流出していく金・銀・銅が少なくありませんでしたが、国の立場から「それではいけない」と気づき、輸入制限を提案したのも白石の素晴らしい見識でした。

 

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やがての大龍

 

彼が6、7歳の頃のことです。両親と一緒に芝居を観に行きました。物語の筋書きや細かい役者の動きまで、一つ一つしっかり記憶にとどめ、帰ってから人に話して聞かせる内容が、実際の芝居と少しも違いませんでした。

「この子は普通ではない。しっかり学問をさせたら、将来どんな大物になるか分からない。きっと新井家の名を上げるだろう」と父を大いに驚かせました。

文字を習い始めると、自分でしっかりと日課を決め、毎日四千文字を書き写さなければ気が済みませんでした。夏はいいのですが、冬になって日が短くなると、夜になっても終わらないことがあります。眠気を催してくると井戸のそばへ行き、裸になって冷たい水を頭から「ザブッ」と一桶かぶって目を覚まし、必ず日課を果たしました。

そんな調子ですから、9歳の時にはすでに父の代わりに手紙を書くこともできました。13歳で藩主のそばに仕え、いろいろな文書を代わりに書きましたが、とても少年の字とは思えないほど立派でした。読書は特に好きでしたが、家が貧しくて本が買えないため、人から借りて書き写しては、暇を見つけて夢中で読みふけりました。

当時の大金持ちに河村瑞軒(かわむら ずいけん)という人がいます。のちに幕府に仕えて、安治川(あじがわ)の底を深くしたり、宇治川や淀川などの治水工事に尽くした人ですが、彼は白石の才能を見込み、自分の娘を嫁にやりたいと考えたことがあります。

「あなたは将来、大学者になられる方ですが、生活が苦しいために十分な学問ができないのは本当にお気の毒です。もし私の娘をもらってくださるなら、三千両(現在の数億円相当)の家と土地を差し上げたいと思います」

と申し入れました。しかし、白石は即座にこれを断って言いました。

「お気持ちはありがたいのですが、昔話があります。ある山に住んでいた小さな蛇を、刀の先で一寸(約3cm)ばかり傷つけた人がいました。やがてその蛇が大きな蛇になって死んだ時、傷跡は一尺(約30cm)以上にもなっていたといいます。今はいくら苦しいからといって、他人から恩を受けるのは潔し(いさぎよし)としません」

この時すでに、たくましい白石の気迫が満ちあふれていたのです。

 

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政治家としての彼

 

白石は、その学問が昔から今に至るまで広く、日本のことも中国のことも深く通じていましたが、また、徳川時代の中で最も早く海外の事情を研究し、紹介した一人でもあります。

その頃、西洋のことに触れられる場所は、日本にたった二箇所しかありませんでした。一つは長崎の出島で、もう一つは江戸の切支丹(キリシタン)屋敷です。白石は、キリスト教を広めるために日本へやって来て捕らえられている、切支丹屋敷の外国人を訪ねて、西洋の事情を聞きました。そうして出来上がった本が『西洋紀聞(せいようきぶん)』と『采覧異言(さいらんいげん)』です。

それは宝永5年(1708年)、はるばるイタリアからやって来たシドッチという宣教師を、幕府の命令で取り調べたのがきっかけでしたが、彼がそれ以前から西洋に深い関心を持っていたことは言うまでもありません。

キリスト教に対して、幕府は「弾圧」という一つのやり方で臨んでいましたが、白石はシドッチを調べて、「キリスト教を広めることが、国を乗っ取るための作戦である」という世間の噂には、断固として反対しました。

しかし、国境を越えて入ってきた外国人ですから、何とか処分しなければなりません。白石の優れた見識は、政治家としても少しも曇ることがありませんでした。

彼は三つの案を立てて意見を出しました。

それまでの決まりでは「キリスト教をやめる(改宗する)なら助け、そうでなければ処刑する」という例でしたが、彼には彼の国の風習があり、それが邪悪な教えだとは思っていないのだから、日本の法律を無理やり押し付けて何でもかんでも殺すのは良くない、と「処刑」の案を退けました。だからといって、改宗もしない者を長く切支丹屋敷に閉じ込めておくのは無意味なので、「命を助けて国外へ追放する」のが一番良い案だというのです。いくら将軍のお気に入りだったとはいえ、当時の厳しい時代において、そこまで言い切れた彼の良心的な男気には敬服するしかありません。

シドッチを取り調べた際、立ち会いの役人(奉行)が、「寒そうだから着物をあげよう」と言ったのに、シドッチは食べ物だけをもらい、

「日本の国の恩を受けることはすでに重いのに、この上、身につける物まで頂戴するのは、あまりにも恐れ多いからです」と言って辞退しました。

そして、さらにお願いがあると言って、次のように申し出たのです。

「私がはるばるあなたの国へ参りましたのは、ありがたい神様の教えを伝え、人も世も救うためであります。それなのに、最近のこの夜寒の中、警備の侍の方々に苦労をおかけするのは恐縮でたまりません。自分から進んでやって来たのですから、私がどうして逃げたりするでしょうか。しかし、規則がある以上は、昼間はともかく、夜だけでも警備の方が安心してお休みになれるよう、私に手枷(てかせ)と足枷(あしかせ)をして、牢屋の中に繋いでおいてください」

その誠実な思いが顔に表れており、奉行所の人々を感激させました。しかしその時、白石はいきなり、

「この嘘つきめ!」と厳しく叱りつけました。その本心は、言うまでもなく、白石なりの思いやりから出た強がり(温かい強圧)だったのでしょう。

シドッチは素直に恐れ入ったといいますが、言葉の裏で二人の魂が通じ合った、劇的な情景が目に浮かぶようです。

 

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「火の子」火の性

 

白石の本当の名前は君美(きみよし)といい、「明暦の大火」で有名な明暦3年(1657年)の正月生まれです。先祖は上野国(群馬県)の荒井から出たということですが、父は正済(まさなり)といって、上総国久留里(千葉県)の藩主・土屋民部少輔(つちや みんぶのしょう)に仕える家臣でした。

江戸中が火事になった年に生まれたというので、藩主はよく冗談で幼い頃の白石を「火の子」「火の子」と呼びました。それが、火のように激しい彼の性格と通じているのも面白いことです。

後年、堀田侯に仕えた時、同僚に小滝という者がいて、いつも白石に向かってこう言ったと伝えられています。

「自分は若い頃、軍学を由井正雪(ゆい しょうせつ:幕府転覆を企てた人物)から学んだが、あなたの恐れを知らないふてぶてしい顔つきは、あの正雪と本当によく似たところがある」

そのような激しい性格のせいだったのか、彼は長い間、出世に恵まれませんでした。その運が開けたのは、前にも書いたように、師匠の木下順庵に推薦されて甲府藩主の専属教師となってからです。

白石は、学者であり、政治家であると同時に、武士らしい立派な雰囲気も備えていました。甲府藩主に仕えていた時、火事に遭って五十両の金をもらいました。すると彼は、「これで家を綺麗に飾ってみたところで、また火事に遭えばせっかくの恩を無駄にするだけだ」と言って、立派な鎧兜(甲冑)を一揃い作りました。その5年後に再び火事に遭い、家具や食器などはすっかり焼けてしまいましたが、甲冑だけは身に着けて逃げたので無事でした。

7代将軍の時代まで仕えましたが、8代将軍・徳川吉宗が将軍になった時は、高齢を理由に仕事を辞め、それからの9年間はのんびりと本に親しみ、享保10年(1725年)10月19日に江戸で亡くなりました。69歳でした。

お墓は現在、東京都の高徳寺にあります。

 

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著述挙げて百六十種

 

白石は実に偉大な著述家で、その著書は160種類以上にも達しています。

歴史関係のものでは、全国の大名(三百諸侯)の伝記を集めた『藩翰譜(はんかんふ)』、日本の歴史的な事実について意見を述べた『読史余論(とくしよろん)』、神代の歴史を研究した『古史通(こしつう)』があり、国語や漢文に関するものでは、物の名前の意味を解説した『東雅(とうが)』、日本と中国の昔と今の文字について調べた『同文通考(どうぶんつうこう)』があります。

シドッチを取り調べて書いた『西洋紀聞』は、当時の西洋の事情を伝えた本として最も優れているものですし、それをさらに整理してまとめた『采覧異言』は、当時としては素晴らしい地理の本です。言葉の学問への知識も深く、「言葉を本当に理解するには、一般的な社会の様子も研究しなければならない」と言って、インドの言葉(梵語)や西洋の言葉の発音が日本語の中に入ってきたことから、その発音の変化まで詳しく調べています。

有名な『折たく柴の記(おりたくしばのき)』は、彼自身の自伝とも言うべきものであり、白石の素晴らしい人柄を知るためには絶対に見逃すことのできない一冊です。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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