寛永十四年(1637年)、九州はひどい旱魃(かんばつ:日照り)に見舞われました。来る日も来る日も炎天がつづき、沈む夕日が真紅に燃え上がって見える日が、何日もつづいたのです。そして秋になると、山や野のさまざまな木に、季節はずれの狂い花が咲きました。
天草と島原のキリシタンたちは、これを見て噂しあいました。
「夏の真紅な太陽といい、この狂い花といい、これはただごとではあるまい」
この年、江戸では三代将軍・家光が病のために数か月も引きこもり、京都から見舞いの勅使が下されるほどでした。それが世間に知れると、家光が亡くなったという噂まで流れます。そして人々が二十年あまり前の宣教師の予言を思い出したとき、その目は、天草に住む一人の美しい少年に向けられたのです。
天草四郎(あまくさ しろう)。本名を益田四郎時貞。十六歳で島原の乱の総大将にかつがれ、十七歳で原城に散った少年でした。
悲愴なる「日本廿八聖人」
天文年間に日本へ伝わったキリスト教は、九州と中国地方を中心に、たちまち各地へ広がりました。当時、織田信長は仏教の勢力をひどく憎んでいたので、それを削ぐためにこの西洋の教えを保護します。その結果、キリスト教はますます広まっていきました。
ところが豊臣、徳川と天下の権が移るにつれて、この教えは国を害するものとみなされ、しだいに禁教の方針が固まります。慶長以後は根絶やしにすることを目指し、信者に対しては厳しい刑をもって臨むようになりました。
当時のカトリック教会はイエズス会が中心で、イエズス会はローマ法王を中心とする「超国家」を実現しようとしていました。その正体が明らかになるにつれて、ヨーロッパの国々でも主権者の憎しみと迫害を招いたほどですから、日本での弾圧の激しさは十分想像できるでしょう。
しかし、ひとたび染みこんだ信仰の炎は、どんなに厳しい刑を課しても、根絶やしにはできませんでした。とくに九州は、キリスト教が最初に伝わった土地です。しかも貿易の利益を求めて、ポルトガルやスペインの船はもちろん、宣教師の渡来まで歓迎する大名が多かった。だから信者も多く、天草島や島原半島は、まさにその中心地でした。
天草島はもともと、信者の一人であった小西行長の領地でした。関ヶ原の合戦のあとは、肥前唐津の城主・寺沢広高の領地になります。領主が変わり、取り締まりが厳しくなっても、領民の信仰はいっこうに変わりませんでした。行長の遺臣・大矢野松右衛門をはじめ数名の熱心な信者が、いつも島の内と島原のあいだを行き来して、ひそかに布教を続け、あなどれない力を持っていたのです。
島原半島のほうは、領主の有馬晴信が信者になって以来、領民の大半が熱心なキリスト教の信者でした。晴信はそのために、ついに切腹を命じられます。そのあとに封じられたのが、キリスト教嫌いの松倉重政でした。重政は有馬家の原城を取り壊し、新しく島原に城を築いて、厳しい取り締まりを始めます。信者を生きたまま海に沈める。蓑(みの)を着せて焼き殺す。温泉岳(うんぜんだけ)の火口に投げ込む。竹の鋸(のこぎり)で首を挽き切る。残虐きわまる刑罰でした。
寛永七年(1630年)、この重政は病気で死にました。しかし子の勝家もまた、父と同じように信者を苦しめ、そのうえ領民に重い税をかけて、暴政の限りを尽くします。領民は着るものにも食べるものにも困るありさまとなり、ついには「むなしく飢え死にするよりは、領主に反抗して死ぬほうがましだ」とまで思うようになりました。この呪いの気持ちが憤りに変わり、やがて歴史を血で彩った島原の乱を引き起こすのです。
そのとき、領民の反乱の先頭に立ったのは、キリシタンの信徒で、まだ紅顔の美少年、益田四郎時貞——すなわち天草四郎でした。

美貌の神童
寛永十三年の冬から翌十四年にかけて、三代将軍・家光は病のために数か月間、引きこもっていました。近親者のほかは、幕府の重臣にさえ会いません。よほどの重病だったらしく、京都からは見舞いの勅使まで下されました。それが世間に知れると、家光が亡くなったという噂まで広まります。
この知らせは、かねてから幕府のやり方を怨み、憤りを燃やしていた天草の大矢野松右衛門をはじめ、キリシタンたちに大きな衝撃を与えました。いや、彼らの胸を激しく騒がせたのは、それだけではありません。同じころ、これに重なるように、二つの現象が起きたからです。それが冒頭に記した、真紅の夕日と狂い花でした。
キリシタンたちは、この自然現象をめぐって、ますます疑いを募らせていきます。そこへさらに、もう一つの「現象」が加わりました。といっても、そのとき突然あらわれたものではありません。前からそこにあったものを、いくつもの不思議を重ね合わせた結果、彼らがそう感じたのでしょう。それは、美しく才知に富んだ天草四郎という少年の存在でした。
天草四郎は、小西行長の遺臣・益田好次(よしつぐ)の子です。元和八年(1622年)に生まれ、当時十六歳。たいへんな美貌で、読み書きも人にすぐれ、たびたび人を驚かせるようなふるまいをしました。鳩を手のひらに載せて卵を産ませ、その卵の中から聖書を出してみせた。雀のとまっている竹の枝を折り取って、そのまま人に渡してみせた。そんな言い伝えまで残っています。本当にそんなことができたかどうかは別として、ふつうの少年でなかったことは確かでしょう。
この非凡な少年、真紅の夕日、木に咲いた狂い花、そして将軍家光が死んだという噂。ふつうに考えれば、どれも疑う余地のない、ありふれた出来事です。けれども松右衛門たちキリシタンにとって、それらを足し合わせたものは、大きな不思議でした。
なぜか。二十年あまり前、ある宣教師がこんな予言を書き残していたというのです。今から二十数年後に暴主が世を去り、新しく一人の神童があらわれて世を救う。その年には季節はずれの花が木に咲き、天が真紅になる。そのときキリスト教のために力を尽くせば、人々の心はたちまちこの教えになびき、天下泰平の楽しみを受けることは疑いない——。
そこで四郎と松右衛門たちは、ひそかに集まって相談しました。これらの現象と予言書を文書にまとめ、「キリシタンの教えが再び興る時が来たことは疑いない。一命を捧げて再興に力を尽くすべし」という檄(げき:人々を奮い立たせる呼びかけの文)を、天草と島原の村々に配ったのです。
こう書くと、彼らは無知だったから盲信し、反逆を企てたように見えるかもしれません。しかしそこには、誰にも侵すことのできない強い信念が、炎のように燃えさかっていたのです。

島原の乱
檄が村々に配られると、信者たちは狂喜して応じました。折よく、島原の城主・松倉勝家も唐津の寺沢広高も、参勤で江戸にいます。事を起こすには絶好の機会でした。信者たちは徒党を組んで村々を押し歩き、役人を殺し、寺や神社を壊し、その翌日にはいよいよ大挙して島原城に押し寄せます。ちょうどそこへ、大阪落城で諸国に流れていた豊臣の残党も次々に加わり、森宗意軒(もり そういけん)をはじめ幹部として軍務に加わりました。
寛永十四年十月二十六日のことです。城中の者は慌てふためきながらも必死に防いで退け、急使を立てて佐賀の鍋島家と熊本の細川家に援軍を求めました。しかし両家がこれを知ったのは三日後です。しかも幕府の指図がなければ兵を領外に出せない決まりがあったので、兵を国境まで出したまま、大阪城代へ急使を送るしかありませんでした。
島原がこんな混乱に陥っていたころ、天草はどうだったのでしょうか。こちらもまた、いきり立つ信徒の群れがあちこちで渦を巻いていました。そして同じ月の二十九日、四郎時貞の指揮する信徒軍は、ついに天草の富岡城めがけて押し寄せます。城代は島原と同じように驚いて、唐津城に急を告げました。唐津城がその知らせを受けたのは十一月二日。ただちに海路で二千余りの兵を送り出しましたが、あいにく風雨にはばまれ、船が天草に着いたのは十日でした。

援軍を得て力を取り戻した城代は、みずから城の外へ躍り出て奮戦します。しかしたちまち信徒軍に攻め立てられ、無惨な最期を遂げ、兵は城の中へ逃げ込んでしまいました。勝ちに乗じた信徒軍は城を囲み、いよいよ激しく攻め立てます。ところが、もう逃げ道のない城内の兵が死に物狂いで防いだため、さすがの四郎時貞も攻めあぐみました。二十三日、囲みを解いて島原に渡ります。そして旧有馬家の原の城址に陣を築き、ここに兵を拠らせたのです。
原城は、三方が絶壁となって海に面した高台で、残る一方には小山が起伏する、絶好の要害でした。四郎時貞はここに兵糧五千石を運び込み、濠を深くし、柵を設けて立てこもります。このときの信徒軍は、男女あわせて実に三万七千余人。信徒はそれぞれ頭髪にラテン十字の形を残し、「サンチャゴ」と鬨(とき)の声をあげました。これは聖ヤコブ、すなわちキリストの弟として天草四郎をさすものです。
ここで幕府側に目を移しましょう。十一月四日、島原騒動の急報が大阪城代に届くと、城代は一刻の猶予もないと判断しました。江戸に言上して指図を待つまでもなく、鍋島や細川などの大名に、危急の場合はただちに鎮圧に出兵してよいと命じます。一方、松倉家からの急報は八日に江戸に届き、十日には板倉重昌(いたくら しげまさ)が鎮圧軍の総大将として江戸を発ちました。重昌は二十七日に豊前の小倉に着くと、信徒軍があなどれない勢いだと知り、ただちに鍋島と細川に島原への出兵を命じます。自分が島原に着いたのは十二月八日でした。
その日、重昌は鍋島と細川の援軍を加えて二万余りの兵を得、すぐに原城の攻撃を始めます。ところが彼の軍は、かえって信徒軍に翻弄されるばかりでした。重昌は攻撃をやめ、城中の食糧が尽きるのを待つことにします。しかし、江戸から松平信綱が島原へ向かったという知らせが届くと、その到着前に信徒軍を滅ぼさなければ面目が立たない、と気づきました。そこでふたたび総攻撃をかけます。寛永十五年(1638年)の正月元旦でした。
この戦いも、重昌の敗北でした。信徒軍の死傷はわずか十七人。鎮圧軍は三千八百余人の死傷者を出し、重昌自身が戦死したのです。
このあと島原に出そろった九州諸藩の兵は、総勢十二万四千余人にのぼりました。信綱は矢文を城中に射込み、使いを城内へ送って降伏を勧めましたが、四郎時貞は少しも応じません。そのうちに、城中の食糧はしだいに乏しくなっていきました。それを知った信綱は、二月二十八日を期して総攻撃を開始します。
ここに至っては、さすがの四郎時貞も、もはや絶体絶命でした。「今は詮なし」と叫び、紅顔を火照らせて信徒軍に命じ、雲霞(うんか)のように押し寄せる鎮圧軍に立ち向かいます。その日、ついに落城とともに戦死を遂げました。花にたとえれば、まだ蕾の十七歳。これほど若くして、おのれの命を信念に賭けた人は、そう多くはないでしょう。





