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天草四郎の生涯|島原の乱を率いた17歳の美少年の激動の生涯

『天草四郎』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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悲愴なる「日本廿八聖人」

 

天文年間(1532年〜1555年)に日本へ伝わったキリスト教(耶蘇教)は、九州や中国地方を中心に、あっという間に各地へ広まりました。当時、天下を統一しようとしていた織田信長は、仏教勢力(一向一揆など)を極度に嫌っていたため、その勢力を削ぐ目的でこのキリスト教を保護しました。その結果、信者はますます増えていきました。

しかし、豊臣秀吉や徳川家康が天下を握るようになると、状況は一変します。当時のカトリック教会はローマ法王を頂点とする「国を超えた巨大組織」を目指しており、それが日本の国家体制を脅かすものだとみなされたのです。ヨーロッパ諸国でも迫害を受けるほどだったため、日本における弾圧の激しさは想像を絶するものでした。幕府はキリスト教を完全に根絶やしにするため、信者たちに対して非常に残酷な刑罰を与えるようになりました。

それでも、一度燃え上がった信仰の炎は、どんなに厳しい刑罰をもってしても消し去ることはできませんでした。とくに九州地方はキリスト教が最初に伝わった場所であり、外国との貿易の利益を求めてキリスト教を歓迎した大名も多かったため、信者がたくさんいました。中でも天草諸島(熊本県)や島原半島(長崎県)は、まさにキリスト教の一大拠点となっていました。

天草諸島は、もともと熱心なキリスト教徒であった大名・小西行長の領地でしたが、関ヶ原の戦いの後は別の領主(寺沢広高)の土地になっていました。領主が代わり、キリスト教への取り締まりが厳しくなっても、領民たちの信仰心は全く変わりませんでした。小西行長の元家来であった大矢野松右衛門らを中心とする熱心な信者たちが、常に島内や島原地方をこっそり行き来して教えを広め、決して侮れない勢力を保っていたのです。

また、島原半島もかつての領主(有馬晴信)が信者だったため、領民の半分以上が熱心なキリスト教徒でした。しかし、新しく領主となった松倉重政はキリスト教が大嫌いな人物でした。彼は有馬家の原城を壊して新しく島原城を築き、信者たちに信じられないほどの残虐な拷問を行いました。生きながら海に沈めたり、蓑(みの)を着せて火をつけたり、雲仙岳の煮えたぎる火口に投げ込んだり、竹のノコギリで首を切り落としたりといった、残酷極まる刑罰を与えたのです。

1630年(寛永7年)にこの残虐な松倉重政は病死しましたが、跡を継いだ息子の松倉勝家もまた、父親と同じように信者を苦しめました。それどころか、領民に重い税をかけて暴政の限りを尽くしたため、領民は着る服や食べる物にも困るような悲惨な状態に追い込まれました。

ついに領民たちは、「このまま何もせずに飢え死にするくらいなら、いっそ領主に反抗して死んだほうがマシだ」と思うようになります。この人々の怒りと呪いが、やがて歴史を血で染めた「島原の乱」を引き起こすことになります。

そして、この絶望した領民たちの反乱の先頭に立ったのが、まだ頬の赤い美しい少年・益田四郎時貞、すなわち「天草四郎」だったのです。

 

本文では「廿八(28)聖人」と記載されていますが、現代の歴史的定説および公式記録では「日本二十六(26)聖人」のことです。当時の史料の誤記をそのまま引用したものとみられます。

なお、この「二十六聖人の殉教」に至る豊臣秀吉のキリスト教弾圧の背景について、近年の研究や歴史的再評価では、単なる宗教対立だけではなく、当時、一部の南蛮商人や宣教師たちが多くの日本人を奴隷として国外に連れ去っていた(奴隷貿易)実態があり、これに激怒した秀吉が人身売買を禁止し、国の秩序を守るために断行した、という側面が強くクローズアップされています。

 

天草四郎

美貌の神童

 

1636年(寛永13年)の冬から翌年にかけて、江戸では三代将軍・徳川家光が重い病気にかかって数ヶ月間も引きこもり、幕府のトップにすら面会できない状態が続いていました。京都の天皇からお見舞いの使者が来るほどの重病で、世間では「将軍はすでに亡くなっているのではないか」という噂まで流れるほどでした。

このニュースは、幕府の残酷な仕打ちに怒りを燃やしていた天草のキリスト教徒たちに大きな衝撃を与えました。

しかし、彼らの胸をさらに激しく高鳴らせたのは、それと同時に起きた「不思議な自然現象」でした。

1637年(寛永14年)、九州はひどい日照り(干ばつ)に見舞われました。何日も炎天下が続き、夕日がまるで血のように真っ赤に燃え上がって見える日が続きました。さらに秋になると、山や野原の木々に、季節外れの「狂い咲き」の花がいっせいに咲いたのです。

これを見た信者たちは、「あの真っ赤な太陽といい、狂い咲きの花といい、これはただ事ではない」と噂し合いました。

実は、これより20年ほど前に、あるキリスト教の宣教師がこんな予言を残していました。

「今から20年後、残酷な支配者がこの世を去り、代わりに一人の『神童』が現れて世界を救うだろう。その年、季節外れの花が咲き、空は真っ赤に染まる。その時こそキリストの教えに従えば、人々の心は一つになり、天下泰平の世が訪れることは間違いない」と。

将軍の重病の噂、真っ赤な太陽、季節外れの花。これら一つ一つは自然現象や偶然の噂に過ぎないかもしれません。しかし、迫害に苦しむ信者たちにとって、これらがすべて同時に起きたことは「奇跡の予言の成就」に他なりませんでした。

そして、彼らの前に現れたのが「美貌と知恵に恵まれた神童」天草四郎だったのです。

天草四郎は小西行長の元家来・益田好次の子どもとして1621年(元和8年)に生まれ、当時は16歳の少年でした。彼は非常に美しい顔立ちをしており、読み書きもずば抜けて優秀で、度々人々を驚かせるような行動をとりました。

たとえば、手のひらに乗せた鳩に卵を産ませ、その卵の中から聖書を出してみせたり、スズメが止まっている竹の枝をポキッと折って、スズメが逃げないまま人に渡してみせたりした、という伝説まで残っています。本当にそんな魔法のようなことができたのかはわかりませんが、彼がただ者ではない「非凡な少年」であったことは間違いないでしょう。

四郎や大矢野松右衛門ら幹部たちは密かに集まって会議を開き、この予言の書と自然現象を組み合わせたメッセージを文章にまとめました。そして、天草や島原の村々に「キリスト教を再興する時が間違いなく来た!命を捧げてこの戦いに参加せよ!」という激しい呼びかけ(檄文)を配って回りました。

無知だったから洗脳されたというわけではありません。そこには、誰にも犯すことのできない「強い信念の炎」が激しく燃え盛っていたのです。

 

天草四郎

 

島原の乱

 

檄文が村々に配られると、信者たちは狂喜して立ち上がりました。運が良いことに、島原の領主・松倉勝家も、天草の領主・寺沢広高も、たまたま「参勤交代」で江戸に行っており、国元を留守にしていました。反乱を起こすには絶好のチャンスでした。

信者たちは集団で村々を練り歩き、幕府の役人を倒し、寺や神社を破壊して回り、翌日には大軍となって島原城へ押し寄せました。かつて大阪の陣で敗れて全国に隠れ住んでいた豊臣家の生き残りたちも続々と合流し、軍の幹部として作戦を練りました。

1637年(寛永14年)10月26日、島原城に残っていた役人たちは大パニックになりながら必死に防戦し、急いで隣の佐賀藩(鍋島家)や熊本藩(細川家)に助けを求める使者を出しました。しかし、彼らがこの事件を知ったのは3日後のことでした。しかも当時のルールで「幕府の許可なく自分の領地の外へ兵を出してはいけない」と決められていたため、どちらの藩も国境ギリギリまで兵を出したままストップし、大阪城の責任者(城代)へ指示を仰ぐ急使を送ることしかできませんでした。

島原がこのような大パニックに陥っている頃、天草の信者たちも行動を起こし、10月29日に天草四郎の指揮のもと、富岡城というお城へ押し迫りました。富岡城の役人も驚き、慌てて本拠地の唐津城へ連絡を入れました。唐津城からはすぐに2000人の援軍が海を渡って向かいましたが、運悪く嵐に見舞われ、到着したのは11月10日になってからでした。

この援軍到着に勇気づけられた富岡城の兵士たちは城から討って出て激しく戦い、必死の防衛を見せました。さすがの四郎たちもこのお城を落とすことはできず、11月23日に包囲を解いて海を渡り、島原へと移動しました。

四郎たちは、かつてのキリシタン大名・小西行長が建てた「原城(はらじょう)」の跡地に陣地を構えました。ここは三方が切り立った崖になって海に面しており、もう一方は小高い山が連なる、まさに「天然の要塞」でした。

四郎はここに大量の食料を運び込み、お堀を深くし、柵を立てて立てこもりました。この時、原城に集まった信者の軍勢は、男女合わせてなんと3万7000人にも膨れ上がっていました。信者たちは頭に十字架の印をつけ、「サンチャゴ(聖ヤコブ、あるいはキリストの兄弟としての四郎を指す言葉)」と叫びながら団結しました。

一方、11月4日に島原の反乱の知らせを受けた大阪城の責任者は、「一刻の猶予もない!」と判断し、江戸からの指示を待たずに佐賀藩や熊本藩へ「すぐに出兵して構わない」と命令を出しました。そして幕府も、板倉重昌(いたくら しげまさ)を反乱鎮圧の総大将として派遣しました。

重昌は12月8日に島原へ到着し、周辺の大名の兵を合わせた2万人の大軍で直ちに原城へ攻撃を開始しました。しかし、守りの堅い原城と信者たちの強い抵抗の前に、幕府軍は完全に振り回されるばかりでした。

重昌はいったん攻撃を中止し、城の中の食料が尽きるのを待つ作戦(兵糧攻め)に切り替えました。ところが、「重昌ではダメだ」と判断した幕府が、新たに知恵者の「松平信綱(まつだいら のぶつな)」を総大将として江戸から派遣したという知らせが届きます。これを聞いた重昌は「信綱が着く前に反乱軍を倒さなければ、自分の顔に泥を塗ることになる」と焦り、無謀にも再び総攻撃を命じてしまいました。

1638年(寛永15年)のお正月(元旦)。この無謀な攻撃は、重昌軍の完全な大敗北に終わりました。

城に立てこもる信者軍の死傷者がわずか17人だったのに対し、幕府軍はなんと3800人もの死傷者を出し、総大将の板倉重昌自身も戦死してしまったのです。

その後、到着した松平信綱のもとに九州中の大名から集まった幕府軍は、総勢12万4000人という途方もない大軍になりました。信綱は矢に手紙を結びつけて城の中へ射込んだり、使者を送ったりして「降伏しろ」と何度も説得しましたが、天草四郎は一切応じませんでした。

しかし、これだけの大軍に囲まれれば、やがて城の中の食料も完全に底を突きます。それを見計らった信綱は、2月28日を期して最終的な大総攻撃を開始しました。

圧倒的な大軍を前に、さすがの四郎も「もはやここまでか」と覚悟を決めました。

「今は詮なし(もはやどうしようもない)!」と叫ぶと、美しい顔を怒りで真っ赤に染めながら信徒たちに最後の突撃を命じました。そして雲霞(うんか)のように押し寄せる幕府軍に決死の反撃を行い、城が落ちるとともに全員が壮絶な戦死を遂げたのです。

天草四郎、まだつぼみのような17歳の若さでした。この若き少年は、己の命を「信仰」という揺るぎない信念に捧げ、散っていったのです。

 

天草四郎

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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