外交舞台の第一人者
安達峰一郎(あだち みねいちろう)の名前は、実は日本国内よりも海外での方がずっと有名です。彼は外務省に入ってから一生のほとんどを外交官として捧げ、日本国内の役所よりも外国での勤務期間の方が長かったという、他にはない記録の持ち主です。
ただ長く海外にいただけでなく、彼はずば抜けた才能と凄まじい行動力を持ち、世界の平和のために外交の最前線で大活躍した「第一人者」でした。真面目で誰に対しても公平な態度と、国際法に関する深い知識を持っていたため、世界中から集まったエリート外交官たちから絶大な信頼と尊敬を集めました。
彼が外務省に入った明治時代の中頃、日本はまだヨーロッパ諸国から「半分遅れた野蛮な国」として見下されており、外国人が日本で悪いことをしても日本の法律で裁けないという、とても悔しい時代でした。
しかし、それから40年後。ポーランドとリトアニアという二つの国が領土をめぐって争いになり、「国際連盟」という世界の平和を守る組織で裁判が行われることになった時、なんと「裁判官」という大役を任されたのは日本であり、その代表として出席したのが安達峰一郎だったのです。かつて見下されていた日本が、世界の揉め事を裁く立場になった瞬間でした。
彼は1868年(明治元年)、雪深い山形県の山辺町で生まれました。お父さんは教育者であり後に町長も務めた人物でしたが、家庭のルールは非常に厳格でした。峰一郎少年は、その厳しさに息が詰まりそうになることもありましたが、優しいお母さんの温かい愛情に守られながら、絶対に諦めない「不屈の精神」を鍛え上げていきました。

語学の天才
彼が華やかな国際舞台で活躍できた大きな理由の一つに、「語学力」があります。彼は「外務省きっての語学の天才」と呼ばれましたが、それは生まれつきの才能だけでなく、並大抵ではない努力の賜物(たまもの)でした。
彼が大学生だった頃、ボアソナードという有名なフランス人の先生の授業がありました。当時の日本にはまだ法律の基礎がなかったため、ボアソナード先生は「あっちの角度からも、こっちの角度からも」と、一つのことを何度も何度も繰り返して、とても丁寧に教えてくれました。
しかし、生意気な学生たちは「何度も同じことを繰り返してくどい!」と言って、授業をサボる者が続出しました。のちに総理大臣になる若槻礼次郎(わかつき れいじろう)でさえサボっていたほどです。
しかし、その中でたった一人、毎回一番前の席に座って絶対に授業を休まず、熱心にノートをとっていたのが安達峰一郎でした。
「また同じ話だよ、サボろうぜ」と悪友が誘っても、彼は決して乗りませんでした。実は彼にとって、ただ法律を学ぶことだけが目的ではありませんでした。ボアソナード先生は「フランス語」で授業をしていたため、彼は法律と一緒に「生きたフランス語」を必死に勉強していたのです。語学をマスターするためなら、何度同じ話を聞かされても我慢して食らいつく。その姿勢が、彼の語学力をグングンと伸ばしていきました。

国際会議の雄
外交官となった彼は、ベルギー、フランス、イタリア、メキシコと様々な国の大使を務めました。
日露戦争の終わりの「ポーツマス条約(講和会議)」の際には、小村寿太郎(こむら じゅたろう)の助手として同行し、フランス語の通訳としてロシアの代表と堂々と渡り合い、会議の記録を作るなど大活躍しました。
また、第一次世界大戦のあとの「ベルサイユ会議」や、数々の国際連盟の会議にも日本代表として出席し、イギリスとフランスという大国同士の揉め事を見事に仲裁して、両国から深く感謝されたこともあります。
しかし、彼の人生で最も輝かしい活躍は、1924年(大正13年)にスイスのジュネーブで開かれた会議での出来事でした。
当時、世界の平和を守るルールの中に「移民問題などの国内の事情については、国際連盟は口出ししない」という案が出されていました。これは、移民を制限したいイギリスやアメリカの顔色をうかがったルールでした。
これに対して、安達代表は一人で立ち上がり、真っ向から反対しました。
「国際連盟が『世界の平和を守る』という目的を持っている以上、それがどんな問題であれ、戦争の火種になる可能性があるのなら、連盟が仲裁(話し合いで解決)できる道を残しておくべきではないか!」
かつて日本が「人種差別をなくそう」と提案した時も、イギリスやアメリカの反対で潰された悔しい過去がありました。安達は「今回も大国の言いなりになって泣き寝入りしてはいけない!」と悲壮な覚悟を決め、小国(ギリシャなど)の代表たちをまとめ上げ、大国イギリスやアメリカに堂々と論戦を挑んだのです。
彼の鋭く筋の通った主張に、他の国々も熱烈な拍手を送り、ついに安達の意見が勝利しました。この瞬間、彼は弱い立場にある「小国の救世主」となったのです。

異国の土
世界中の「平和と正義のシンボル」として尊敬されるようになった安達峰一郎は、1932年(昭和7年)、フランス大使を引退すると同時に、オランダのハーグにある「常設国際司法裁判所(世界で一番偉い裁判所)」の裁判官に任命されました。
世界40ヶ国以上からわずか11名しか選ばれないという超難関でしたが、彼はメンバー全員からの圧倒的な信頼を受け、なんと「裁判所長(トップ)」に推挙されたのです。
国と国との複雑な揉め事を裁く裁判所長という仕事は、とてつもなく重い責任が伴います。彼は休む間もなく、世界平和のために誠実に働き続けました。
しかし、あまりにも激務だったため、心臓と神経をすり減らしてしまい、ついに倒れてしまいました。所長を辞任して静養に入ったものの、時すでに遅く、1934年(昭和9年)12月28日、67歳でオランダのハーグにて静かに息を引き取りました。
何十年も日本を離れ、世界平和のために命を削って戦い続けたこの偉大な日本人に敬意を表し、オランダ政府は「国葬(国を挙げての特別なお葬式)」を行いました。
彼が一番名誉を受けた地であるオランダ・ハーグでその生涯を閉じたことは、平和に尽くした彼にとって、ある意味で最もふさわしい最期だったと言えるでしょう。


