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秋山好古の生涯|日本騎兵の父と呼ばれた男の生涯

『秋山好古』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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和製ヒンデンブルグ

 

秋山好古(あきやまよしふる)は「和製のヒンデンブルグ(ドイツの有名な将軍)」と呼ばれていました。馬に乗って戦う騎兵科出身の大将としては、現在の参謀総長である閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王殿下に次ぐ地位にあり、鋭い眼光で人を射抜くような、いかにも武将らしい顔つきをした典型的な武人でした。上原元帥はかつて彼を評して、

「典型的な古いタイプの武士のような風格がある武将で、もうこの先、あのような人間は現れないだろう」

と言っていたそうです。

彼は、海軍中将で亡くなった名将・秋山真之の兄であり、安政六年(一八五九)の正月、伊予国(現在の愛媛県)松山に秋山久敬の三男として生まれました。
後年「猛将」と呼ばれる彼も、幼い頃はひどい泣き虫で、体も弱かったようです。兄弟が多く家計が苦しかったため、学費が無料(官費)の大阪の師範学校に入学しましたが、十九歳でなければ入学資格がなかったため、十六歳を十九歳と偽っていました。
卒業後は名古屋師範学校の付属小学校で先生(訓導)となり、月給二円五十銭をもらっていましたが、将来に希望が薄いのを感じて陸軍に入ることを決心し、その翌年に陸軍士官学校に入学しました。そして明治十二年十二月、規定通りに騎兵少尉となりました。

明治十八年に陸軍大学校を第一期生として卒業し、明治二十三年にフランスへ留学して、騎兵科の優れた人材として当時すでに将来を嘱望(しょくぼう:期待)されていました。日清戦争では監軍本部の部員から騎兵第一大隊長に変わって出征し、各地で戦って手柄を立てました。中でも土城子(どじょうし)の戦いでは有名な白兵戦(刀などを使った接近戦)を行い、その勇猛な名を轟かせました。
戦後は中佐に昇進して乗馬学校長に任命されました。その後、学校は「騎兵実施学校」と名前を変え、彼も大佐になりましたが、他へ異動することなくその地位にとどまりました。
この四年間、実施学校では「騎兵の秋山」という名が知れ渡るようになり、武器の装備や訓練などを徹底的に研究し、その結果が騎兵大隊の連隊編成にも活かされて、次第に軍の内部でも有名になりました。

北清事変(ほくしんじへん)の際には第五師団の兵站監(へいたんかん:物資補給の責任者)として出征し、やがて清国(中国)駐屯軍の参謀長となり、三度も駐屯軍の司令官に抜擢されました。
彼が軍の司令官として天津に赴任していた時、当時の直隷総督(ちょくれいそうとく)であった袁世凱(えんせいがい)と手を結び、まさに結ばれようとしていたロシアと清の密約をいち早く察知して、これを成立させなかった功績は大変大きなものでした。そして赴任から二年後の明治三十六年の春、騎兵第一旅団長に昇進して北支(中国北部)を去ることになりましたが、この時すでに日本とロシアの外交関係は非常に緊迫したものになっていました。

 

『秋山好古』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

日露戦争の騎兵戦

 

その明治三十六年九月、ロシア軍はシベリアのニコリスクという場所で陸軍の大演習を行いました。秋山はこの大演習の視察として派遣されました。彼は見学や訪問という名目で、ウラジオストクの軍港や、ハバロフスクの軍事施設などを視察し、「日本とロシアの戦争は近い」という確信を得て帰国しました。

そして翌年の明治三十七年、ついに日露戦争が勃発。彼は部下の旅団を率いて遼東半島(りょうとうはんとう)の張家店(ちょうかてん)に上陸し、第二軍に所属して敵のミシチェンコ騎兵団と対峙しました。ミシチェンコの騎兵団は、ロシアが誇るコサック騎兵の精鋭部隊であり、馬も良く、兵士も優れ、将校も優秀でした。彼はこの強さを頼りにしており、日本軍はこれを恐れていました。
しかし秋山の並外れた勇気は、常に少ない兵力で多数の敵に立ち向かい、ミシチェンコに決して手柄を立てる隙を与えませんでした。これこそ、さすが秋山と言える活躍でした。数多くある戦闘の中でも、特に素晴らしい手柄として注目すべきは、沙河(しゃか)の会戦と黒溝台(こっこうだい)の会戦です。

明治三十七年十月、ロシア軍は遼陽(りょうよう)を取り戻すために、大規模な攻撃を仕掛けてきました。右翼の黒木軍の方面では本渓湖(ほんけいこ)で苦戦し、軍旗山の陣地を奪われ、中央の野津軍も三塊石山(さんかいせきざん)で夜間の大規模な奇襲攻撃を敢行したものの、戦況は必ずしも良くなりませんでした。
左翼の奥軍だけがなんとか進撃できているという状況で、外国の従軍記者たちからは「日本軍の危機だ」と報道されるほど危険な状態でした。この時、一番左の端(最左翼)から断固として前に出たのが、秋山の率いる騎兵旅団だったのです。

この旅団は敵の最右翼を突くために四日間も長距離を駆け抜け、渾河(こんが)の岸に迫った時、思いがけず遭遇したのがコサック騎兵の約二個旅団でした。それはまさに日本軍の二倍にあたる大部隊でした。秋山はこれに対してためらわずに攻撃を命じ、猛烈な突撃でこれに打ち勝ち、急いで追いかけて、ついに彼らをはるか黒林台(こくりんだい)の北のほうへ敗走させました。
この戦闘が沙河の会戦ですが、これ以降、両方の軍隊は沙河を挟んで年を越し、世間で言われる「沙河の対陣」となりました。
このにらみ合いにおいて、秋山の騎兵団はわずか騎兵八個連隊を中心とする少ない兵力で、一番左の端から七里(約二十八キロ)以上にも及ぶ広い正面を担当したのです。本来なら一個師団(数万人規模)が必要なほどの広さを、この少ない兵力で守り抜いたのは驚くべき冒険であるとともに、秋山の優れた才能を知ることができます。

しかし、ここに弱点ができていることを、ロシア軍が気付かないはずはありませんでした。翌年一月下旬、グリッペンベルグ大将が率いる大軍は、ミシチェンコの大騎兵団と協力し、合計十二個半もの師団(およそ十数万人)を使って、この秋山が守る正面を一気に突破し、日本軍全体の背後に迫ろうと、堂々と渾河を渡り、雲霞(うんか)のように大群で押し寄せてきたのです。こうして、自然と日露戦争中で最大の激戦と言われる黒溝台の会戦が起こりました。

一月二十五日の午後、ロシア軍の進撃がはっきりし、秋山支隊は死に物狂いで守り抜く激戦の渦中に巻き込まれました。満州軍の総司令部では、最初はことの戦況をそれほど重大に考えていませんでしたが、戦況が明らかになるにつれて第一線の危険を痛切に感じ、後方で待機していた(総予備隊の)立見中将の第八師団を大急ぎで応援に向かわせました。
しかし、応援が到着する前に戦況はすでに「卵を積み重ねたようにいつ崩れてもおかしくない危険な状態(累卵の危き)」にありました。

「秋山支隊が全滅するのも時間の問題だ」

と言われるほど、戦況は不利でした。それでも秋山は決して動じず、降ってくる雪よりも激しい銃弾や砲弾を浴びながらも、満州軍全体のために犠牲になる覚悟を決め、「陣地を死守せよ!」と命令し続け、一歩も退きませんでした。

二十六日、立見師団は無理な強行軍の末にようやく第一線に到着して広がりましたが、その時にはすでにミシチェンコの騎兵団が左の後ろ側に迫っており、同師団は背筋が凍るような危険な状況に立たされていました。

二十七日、敵の攻撃はますます激しさを増しました。秋山支隊は全滅を覚悟で第一線に立ち、後ろには一人の兵士も残していませんでした。総司令部はさらに木越中将の第五師団を応援に送り、臨時で「立見軍」を編成しましたが、戦況は少しも良くならず、依然として秋山支隊は生死の境(死線)をさまよっていました。

二十八日、秋山支隊の中央の拠点である小台子(しょうだいし)が、敵に幾重にも包囲されて、ついに奪い取られてしまいました。この悲痛な知らせが支隊の司令部に届いた時、秋山はただ黙って頷くだけで、眉一つ動かさなかったと言います。

二十九日、日本軍が反撃に出ることを恐れたロシアの総司令官クロパトキンは、突然、退却の命令を下しました。ロシア軍はまるで潮が引くように退却していきました。日本軍はすぐに追いかける作戦に移り、秋山支隊の勇ましい名前は、歴史の記録(青史)にまぶしく輝くことになったのです。

 

秋山好古

 

物事に頓着しない性格

 

秋山は、作戦を考える知恵(智謀)という点では、もしかすると弟の真之にはかなわなかったかもしれませんが、典型的な豪快な武将でした。その一面として見られるのが、彼が野性的な生活を平気で送っていたことです。本当か嘘かはわかりませんが、普段から歯を磨かなくても平然としており、また日露戦争中もたった三回しかお風呂に入らず、全身にシラミが這い回るに任せ、暇があれば背中を柱にこすりつけてかゆさをしのいでいたと言われています。

また、後年になって朝鮮軍の司令官を務めていた時代のことです。伝染病が流行しており、ハエが非常に恐れられていた時期に、彼がビールを飲もうとしたところ、コップの縁にハエが止まったくらいでは全く気にせず、ビールの中にハエが泳ぎ回っていても平気で口に入れ、指で一つ一つハエを口からつまみ出していたそうです。向かいに座っていた人は見るに耐えられず、顔をそむけて逃げ出してしまったとのことですが、まさに秋山の豪快な性格が目に浮かぶようです。

 

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武人から教育家へ

 

戦後、彼は騎兵を統括する「騎兵監」となりましたが、明治四十年にオランダのハーグで第二回万国平和会議が開かれた時、彼は専門委員として派遣されました。会議は結局、机上の空論ばかりで終わりました。その時のエピソードですが、ある時、委員会の席上で雷のようないびきが部屋の隅から聞こえてきたので、みんなが見てみると、日本の秋山少将その人だったということです。

帰国した翌年の明治四十二年に中将に昇進し、第十三師団長となり、やがて近衛師団長へと異動し、さらに朝鮮駐剳軍(ちゅうさつぐん)司令官になり、ここで大将に昇進しました。その後、軍事参議官として軍の中央に戻りましたが、大正九年十二月に教育総監となり、その職を三年務めた後、大正十二年三月に軍人としての生活を引退しました。当時の関係者は彼を「元帥(げんすい:軍の最高位)」に推薦する予定だったそうですが、彼はこれを辞退したと伝えられています。

予備役(引退して軍籍だけ残す状態)に入った後、彼は故郷の人々の頼みを聞き入れて、松山の北予中学校(ほくよちゅうがっこう)の校長になりました。

「欧米では、大統領でも、大臣でも、大将でも、退職したからといって暇を持て余すことはなく、皆が自ら進んで弁護士や教師になって、死ぬまで働く。自分もそうしたい」

というのが彼の口癖であり、彼は今、その言葉通りに実行したのでした。

秋山校長は非常に真面目で熱心に働く(精励恪勤:せいれいかっきん)そのものであり、大正十三年二月の就任から昭和五年三月に辞任するまでの六年間、たった一日たりとも遅刻も欠勤もなく、人々は彼の出勤する時間を見て自分の時計の時間を合わせたと言います。

七十二歳のある日、御坂峠(みさかとうげ)に登って帰ってきた時、ふと左の足の指から太ももの外側にかけて、うずくような痛みを感じました。この足の不調が思いのほか長引き、学校を休むようになりました。彼は自分の引き際が来たことを感じ、校長の職を陸軍中将の烏谷章に譲って辞任しました。そして、北海道の十勝にある牧場を見るために松山を出発し、東京に着いた時に、足の痛みが急に激しくなりました。医者の診察を受けたところ糖尿病であり、また脱疽(だっそ:組織が腐る病気)の初期段階でした。一ヶ月間の闘病生活の末、ついに足の手術で切断しました。しかし、経過が悪く、昭和五年(一九三〇)十一月四日、その一度も休むことのなかった生涯を閉じました。

 

『秋山好古』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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