明治三十八年(1905年)十二月二十八日。
満洲に出征していた軍の大部分は、その前日までに凱旋を終え、将軍たちは光栄に輝き、歓迎に酔っていました。
その翌日、一人の大佐が新橋駅に降り立ちました。垢じみた背広服に、破れた鞄を片手に提げて、影のようにひっそりと。彼を出迎える歓声はありませんでした。
日露戦争のさなか、ヨーロッパでロシアの後方を攪乱し、のちに朝鮮の憲兵隊司令官・台湾総督となった軍人、明石元二郎(あかし もとじろう)そのひとです。
戦国策士明石元二郎
参謀本部が編んだ『日露戦史』のどこを探しても、「明石元二郎」の名は見つかりません。しかし日露戦争での彼の働きは、満洲の山野を駆け回った勇将たちに少しも劣らないものでした。それが文字にならなかったのは、彼の活躍が秘中の秘であり、正史に残せない性質のものだったからです。
けれども時は、すべてを御破算にします。今はもう秘密ではなく、文字にすることができるでしょう。彼は戦争が始まるとスウェーデンの首都ストックホルムに移り、「戦国の策士」となりました。ロシアの怪僧ガポン長老に新しい運動を起こさせる。ポーランドの革命党をそそのかして国内を騒がせる。タタール人を教唆してシベリア鉄道を破壊させる。そうやって、ロシア軍の背後を揺さぶることに力を尽くしたのです。
もちろん、これらの運動が明石の力だけで起こったとは言えません。本当の原因は、もっと大きな社会の情勢に求めなければならないでしょう。しかし、その原因に拍車をかけた功績だけは、彼に認めなければなりません。
これほどの辣腕(らつわん:物事を手際よく処理する才能)をふるった彼は、ただの武人ではありませんでした。軍人政治家としての天分と、策士としての風格を備えていたのです。しかしその蓄えた学識と、国を治める方策を実現することなく世を去ったことは、彼を知る人がひとしく惜しんだところでした。

辺幅に頓着せず
明石は元治元年(1864年)八月一日、九州福岡に生まれました。幼いころから人並み外れて腕白で、しかも大胆でした。七、八歳のあるとき、身内が彼を懲らしめる方法に困って、叺(かます:藁で編んだ袋)に押し込めて土蔵に入れたことがあります。ところが泣きも叫びもせず、土蔵の中で平然としていたそうです。
風采はひどく不潔で、いつも洟(はな)を垂らし、涎を流していました。それでいて頭はきわめて明晰で、小学校ではいつも首席でした。

十三歳で上京し、幕末の大儒・安井息軒(やすい そっけん)の塾で漢籍を学びます。翌十四歳の六月、明治十年(1877年)に陸軍士官学校の幼年生徒となり、陸軍士官への道に入りました。決められた課程を終えて歩兵少尉になったのは明治十六年(1883年)十二月。同期にはのちの大将・大井成元(おおい しげもと)、仁田原重行(にたはら しげゆき)らがいます。三年後に陸軍大学校に入り、二十二年(1889年)に卒業しました。
こうして将軍への道に入った青年士官も、粗野で身なりに構わないところは幼いころと変わりません。紙屑を噛みながら本を読む。図面を垢だらけの手でいじって黒くするだけでなく、時には洟を落とすという不潔ぶりでした。その一方で、戦術と数学が得意で、図面の緻密さと正確さは誰もが感嘆するところだったといいます。

参謀および駐外勤務
陸軍大学校を出ると歩兵第五連隊付として青森に赴任し、約一年後には参謀本部に出仕を命じられました。それから師団長になるまでの二十五年間、連隊長として外に出たのはわずか十か月。あとはすべて参謀の仕事か海外駐在でした。ここに彼の特色があります。
二十七年(1894年)二月、大尉としてドイツ留学を命じられて渡欧しましたが、まもなく日清戦争が始まり、近衛師団の参謀として帰国しました。しかし師団は出征の途中で講和を迎え、戦地には至りません。そこで方向を転じて台湾に入り、抵抗する人々の鎮圧にあたりました。戦うこと半年。そのあいだに師団長・北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)の薨去(こうきょ)もあり、つぶさに苦労をなめて凱旋しました。
二十九年(1896年)五月に参謀本部へ戻ります。このころから彼のずば抜けた才能がようやく認められました。九月には参謀次長・川上操六(かわかみ そうろく)に従って台湾、フランス領インドシナの安南(アンナン)・東京(トンキン)地方を視察。三十一年(1898年)五月には南洋諸島に派遣されて米西戦争を観戦。三十三年(1900年)の北清事変では同行者二名とともに山海関・錦州付近を偵察して万一に備える。彼の仕事の多くは、こうして対外的なものになっていきました。
そしていよいよ、生涯の大事業の舞台となるヨーロッパへ乗り込みます。三十四年(1901年)一月、日露のあいだの雲行きが怪しくなってきたころ、フランス公使館付武官としてパリに赴任。さらに三十五年(1902年)八月にはロシア公使館付武官に転じました。彼の責任は、月ごとに、日ごとに重みを増していったのです。

日露戦争中の活躍
明石は三十六年(1903年)十一月に大佐に進みましたが、引き続きロシア公使館付武官でした。翌年二月上旬、いよいよ日露両国が戦火を交えると、ロシアの公使館は引き揚げとなり、彼はスウェーデンの首都ストックホルムに移ります。表向きの職務は参謀本部付でヨーロッパ駐在。実際は、ロシアの後方を攪乱するという大任でした。
当時のロシアには、さまざまな社会党や革命党がありました。明石が考え出した計画はこうです。これらを使ってロシア国内の事情を探らせる。できることなら彼らをまとめてロシア国内に革命運動を起こさせる。そうすればロシアは国内のことに手一杯になり、極東で戦争などしていられなくなるだろう——。そのためには、まず社会党に近づかなければなりません。
彼はロシア語の教師として、ロシア人の大学生ブラトンを雇いました。これが社会党の大物を知る糸口になります。ブラトンの言葉に従い、ストックホルムに移ったその日、この地に亡命していたフィンランド憲法党の首領カストレンに密書を送って会見を求めました。ところが使者はむなしく帰ってきて言います。
「カストレンは在宅していますが、明石なる者を知らず、おそらく人違いだろうと言いました」
彼は大いに落胆して考え込みました。そこへ、高い帽子に白いひげの老紳士が訪ねてきます。カストレンの親友コンニ・シリヤクス——ロシア革命党の別働隊として作られたフィンランド反抗党の過激派の領袖(りょうしゅう:かしら)で、カストレンの代理として来たのでした。彼は言います。「あなたにカストレンを紹介したのは誰ですか。また先刻の使者は安全な人物ですか。その点に疑問があったので、不本意ながらお手紙を返した次第です」
そして改めて言いました。「同志の会合は、カストレンも私も大いに希望するところです。しかし旅館では危険です。明日午前十一時、旅館の前で待っていてください。同時刻に必ず旅館の前に停まる馬車があるから、それに乗車されたい。当地は連日の降雪、幌を下ろし人目を避けて、安全な会合地に行くことにしましょう」
こうして彼はロシアの社会党に近づき、その紹介でスウェーデン参謀大尉アミノフを知り、ロシア国内の攪乱と情報の収集を、一歩一歩、形にしていったのです。

この特別勤務一年半の苦心は、じつに筆にも言葉にも尽くしがたいものでした。ヨーロッパ全土を東へ西へ駆け回り、そのあいだ常に刺客につけ回され、一日として安心して眠ることができません。彼はこんな詩を作っています。
遼水韓山斫賊營
(遼水(りょうすい)韓山(かんざん) 賊營(ぞくえい)を斫(き)る)
三軍僚友盡功名
(三軍(さんぐん)の僚友(りょうゆう) 盡(ことごと)く功名(こうみょう))
愚誠苦節何人識
(愚誠(ぐせい)苦節(くせつ) 何人(なんぴと)か識(し)る)
策竭茫然對月明
(策(さく)盡(つ)きて茫然(ぼうぜん)月明(げつめい)に対す)
遼水・韓山で敵陣を斬り、軍の同僚たちはみな功名を尽くした。だが我が愚かな誠と苦節を誰が知ろう。策は尽き、茫然として明るい月に向かう——という趣旨のものです。
三十八年(1905年)十月、戦争が終わり、彼は帰国を命じられました。五年を過ごしたヨーロッパに別れを告げて東京に着いたのは、十二月も押し詰まった二十八日。満洲出征軍はその前日までに大部分が凱旋し、将軍たちは光栄に輝き、歓迎に酔っていました。しかし彼は、垢じみた背広服に破れ鞄を片手に提げ、ひとりさびしげに新橋駅に降り立ったのです。彼の行動はすべて、秘密のベールに覆われていました。

台湾総督として逝く
明治三十九年(1906年)の正月は、久しぶりに家族そろって屠蘇を酌みました。しかし二月にはまた、ドイツ大使館付武官としてヨーロッパへ赴きます。ところがドイツでは彼の辣腕が危険視され、社交の場に入ることができません。在任十か月で帰国し、歩兵第七連隊長となりました。この在任も実は五か月。思いがけず陸相・寺内正毅(てらうち まさたけ)の推挙により、少将に進むとともに第十四憲兵隊長(まもなく韓国駐箚憲兵隊と改称)として韓国に赴任したのです。ここから、彼の朝鮮憲兵の拡張事業が始まります。
彼は三代の統監のもとで、韓国駐箚軍参謀長、警務総長、憲兵隊司令官などを歴任し、次々に憲兵の力を増やして、日韓併合の際に何の事変も起こさせませんでした。朝鮮には約八年在任しましたが、このときが最も彼の得意の場面だったようです。
大正三年(1914年)四月、ヨーロッパに戦雲が濃くなると、彼は参謀次長に起用されました。翌年十月には第六師団長に転じますが、これはやや左遷の意味があったらしく、彼自身も内心は不満だったようです。七年(1918年)六月に台湾総督に栄転し、七月に大将となります。八年(1919年)八月には台湾軍司令官を兼ねました。
それより前の五月二十九日、台湾東部の視察に出ましたが、九日間の旅で無理をしたのでしょう、帰ってから病を得て、一時は重態となります。九月にいったん床払いをしたものの、十月、内地へ転地する船の中で病状が急変し、二十六日、福岡で亡くなりました。享年五十六歳でした。


