板垣退助の述懐
会津の戦いが終わり、藩主の松平容保父子が城を出て、妙国寺(みょうこくじ)にこもって謹慎していたある日のことです。一人の百姓がやってきて、芋を藩主に差し上げ、その不幸を慰めようとしました。その護衛の役についていた土佐の侍が、これを美談として、軍の指揮官の板垣退助に話しました。そばで聞いていた者は、みなその忠義をほめないものはありませんでした。
このとき板垣は、静かに次のような思いを語ったといいます。これは日本の憲政の歴史でも、よく知られた言葉です。
「我輩先日、日光今市の戦の時、友人にして戦死する者多く、その屍を見る度に、身を切られる様な思ひをした。然るに敵の死兵を検査すると、皆身に文身(いれずみ)をした無頼漢ばかりであつた。自分はこれを見て、石と玉とを交換した様な気がして、甚だ落胆痛恨した。その夜、床の中で考へたのであるが、ヨーロツパの戦争では、常に万を超える死傷者があるのに、士気は毫(ごう)も衰へぬと云ふ。その理由はどこにあるかと云へば、大体、日本の兵士は僅かな士族だけで組織してあるから、平常の友情関係が極めて濃厚で、人員もまた少いから、これが戦死を見て、心を傷めることが深い。これは全く封建制度の罪であつて、その人情関係が狭い為である。従つて、国民皆兵の時代が来れば、かうした弊害は結局打破されるであらうと考へた」
(私は先日、日光・今市の戦いのとき、友人で戦死する者が多く、その遺体を見るたびに身を切られるような思いをした。ところが敵の死んだ兵を調べてみると、みな体にいれずみをしたならず者ばかりだった。これを見て私は、宝の玉を石ころと取り替えたような気がして、ひどくがっかりし、悔しくてならなかった。その夜、床の中で考えた。ヨーロッパの戦争では、いつも一万を超える死傷者が出るのに、兵の気力は少しも衰えないという。その理由はどこにあるか。だいたい日本の兵は、わずかな士族だけでつくられているので、ふだんの友だちづきあいがとても濃く、人数も少ないから、仲間の戦死を見て心を痛めることが深い。これはまったく封建制度の罪で、人のつながりが狭いせいだ。だから、国民みなが兵になる時代が来れば、こうした弊害は結局うち破られるだろう、と考えた)
板垣は、さらに言葉を続けました。
「やがて兵を進めて会津に近づくや、会津の雄藩、必ず一藩を焦土と化して戦ふであらうから、三千未満の官兵では、とても攻略することは出来ん。唯討死の外あるまいと秘かに覚悟を決めてゐた。ところが松若城に近づくにつれて、人民は家財道具を携へて、争つて地方に遁れ、甚しきに至つては、人足となつて官軍の手助けをする者がある。我輩はその意外なるに驚いた。諸君は芋を持つて来て、その旧主を慰めんとする百姓に感心してゐるが、それなら何故初めから我々に抵抗して、旧主を助けなかつたのか。之を要するに、戦争は士がやるもの、百姓は初めから不関焉(われかんせず)だからである。その楽しみを倶(とも)にせざるものは、その憂ひを倶にせずだ。武士だけがその特権を振り廻してゐる時代に、百姓がどうして国事を共に憂へるものか。これ程の大藩が亡びるのに、之に殉ずる者、僅かに三千に過ぎないと云ふのは、この道理に外ならぬ。我輩は、昨日まではこれを会津のことゝして、冷やかに見ることが出来たが、これを今後の日本に及ぼして考へれば、由々しき大事である。要するに、今日以後は、四民平等の制度を布いて、国民全体が楽しみを倶にし、憂ひを倶にせねばならぬ」
(やがて兵を進めて会津に近づいたとき、会津ほどの大きな藩なら、きっと藩じゅうを焼け野原にしても戦うだろうから、三千に足りない官軍の兵ではとても攻め落とせない。討ち死にするほかはあるまいと、ひそかに覚悟を決めていた。ところが若松城に近づくにつれて、人々は家財道具を持って、われ先にとよその土地へ逃げていき、ひどいものは人夫になって官軍の手伝いをする者まであった。私はその意外さに驚いた。諸君は芋を持ってきて昔の主君を慰めようとする百姓に感心しているが、それなら、なぜはじめから我々に手向かって、昔の主君を助けなかったのか。要するに、戦は武士がするもので、百姓ははじめから関わりがないからだ。楽しみを分かち合わない者は、苦しみも分かち合わない。武士だけが特権をふりかざしている時代に、百姓がどうして国のことを一緒に心配するだろうか。これほどの大藩が滅びるのに、運命をともにする者がわずか三千人にすぎないのは、この道理にほかならない。私は昨日まで、これを会津のこととして冷ややかに見ることができた。だが、これからの日本に当てはめて考えれば、たいへんな大事である。要するに、今日からのちは、身分の分け隔てのない制度を敷いて、国民全体が楽しみも苦しみも分かち合わなければならない)
板垣が言おうとしているのは、士族が持っている国を思う心を、国民みんなのものとして広めるには、士族が持っている特権を、国民みんなが広く受けられるようにしなければならない、ということです。ここに、まだ不完全ながら、彼の政党運動や、国民の代表が政治を行う「代議政体」の考えが芽生えていました。
「板垣死すとも、自由は死せず」の名文句で、憲政の神さまのように言われている板垣も、もともとは一本気な武人でした。ぐずぐずしていた土佐藩の意見を強引に引っぱって、鳥羽・伏見の戦いに加わらせたのも彼でしたし、さらに日光に転戦して、敵の大将の大鳥圭介(おおとり けいすけ)に手紙を送り、
「日光廟を兵燹(へいせん)より救ふため、山を下つて雌雄を決すべし」
(日光の廟を戦火から救うため、山を下りて勝負を決めよう)
と申し入れたのも板垣です。大鳥はこの情けある武士のはからいに感激し、戦わずに裏道から会津へ走りました。今、日光に板垣の銅像があるのは、このときの彼の行き届いたはからいをたたえたものです。
武一辺倒と思われた板垣も、この戊辰戦争では、よほど胸にこたえるものがあったのでしょう。坂本龍馬このかた、一種の伝統ともいえる土佐の人に特有の民権の思想が、燃え上がる会津鶴ヶ城の炎をながめながら、板垣の胸に新しい理想をわき立たせたのです。
凱旋のあと、板垣はこの精神で若者の教育に当たりました。明治三年十一月、藩の中に示した彼の文の中で、
「夫(そ)れ人間は天地間活動物中の最も貴重なるものにして、特に霊妙の天性を具備し、知識技能を兼有し、所謂(いわゆる)万物の霊長と称するは、固(もと)より士農工商の階級に由るに非るなり……」
(そもそも人間は、天地のあいだに生きて動くもののなかで最も尊いもので、とくに不思議なすぐれた性質を備え、知識と技能をあわせ持っている。いわゆる「万物の霊長」と呼ばれるのは、もとより士農工商の身分によるのではない……)
と述べ、続けて、これまで武士がつとめてきた文官や武官の職に、一般の人々もつけるようにしようと言っています。これは日本での自由と平等の最初の宣言ともいうべきもので、今読んでみると、その調子はルソーの文章を読んでいるような気がする、と底本は書いています。
立憲思想の沿革
日本に議会政治の思想がやってきたのは幕末のころで、まず中国から入ってきました。当時の中国では、欧米の人々による文化事業がどんどん行われ、多くの漢文の本や翻訳が出て、それが次々と日本に伝わってきたのです。その本の中には、もちろん西洋で行われている議会政治の思想を説いたものも多くありました。佐久間象山(さくま しょうざん)、吉田松陰(よしだ しょういん)、安井息軒(やすい そっけん)、横井小楠(よこい しょうなん)、橋本左内(はしもと さない)など、外交を論じ、海外に志を持つ知識欲の強い人々は、難しい漢文の訳を通して、間接的に、争ってこれを読んだのです。
時代が進むにつれて、漢文を離れ、洋学者の手で、西洋の本から直接、議会政治の思想が入ってくるようになりました。福沢諭吉の『西洋事情』、加藤弘之(かとう ひろゆき)の『立憲政体略』、津田真道(つだ まみち)の『泰西国法論』など、どれも慶応三、四年に出版され、当時の若者たちにむさぼるように読まれたものです。
こうした流れが、やがて広く意見を聞いて政治を行うことを条件にした大政奉還となり、五箇条の御誓文となり、各藩から選ばれた徴士・貢士による公議所の設置という、封建の世には夢にも考えられなかった改革になって現れてきました。それが結局、理想だけで終わり、薩長の専制による藩閥政府が現れて、明治の前半を暗い影でおおったのはなぜでしょうか。
ひとことで言えば、当時の識者が、西洋の議会政治をほんとうには理解していなかったからです。議会政治の基本ともいうべき「政党」というものの、はっきりした考えがなかったのです。彼らが自由民権を唱え、政治の上で頼りにしたのは、古くからの「藩」であって、政党ではありませんでした。
明治の新政府は、五箇条の御誓文を出したとはいえ、新政府の最初の高札には、
「何事にもよらず、よろしからざる事に大勢申合候(もうしあわせそうろう)を徒党ととなへ、徒党して願ひ事企つるを強訴と云ふ、堅く御法度なり」
(何事であれ、よくないことのために大勢で申し合わせることを「徒党」といい、徒党を組んで願い事をたくらむことを「強訴」という。これはかたく禁じる)
と、旧幕府そのままの文が掲げられていました。これでは、議論の場として公議所や集議院が設けられても、政党などできるものではありません。
明治四年に廃藩置県が完了して、「藩」は制度としては廃止されましたが、人々の意識の中ではしつこくこびりついていて、取りきれるものではありませんでした。藩閥と呼ばれる古い勢力が、長いあいだ日本の政治を支配したのも偶然ではないのです。
けれども、藩閥の政府が強大になるにつれて、それに反対する勢力も力を得てきます。藩閥が自分たちの利益を中心にまとまろうとすればするほど、これに対する民間の反抗はしだいに組織立っていき、自然と政党という形をとってくるのだから面白い、と底本は書いています。
明治六年の征韓論の分裂は、土佐を政治の中心から追い出しましたが、このとき飛び出した板垣退助や後藤象二郎(ごとう しょうじろう)らが、のちの自由党の結成の中心になったのも皮肉です。明治十四年の政変で、藩閥の政府は佐賀出身の大隈参議を無理やり辞めさせましたが、大隈は負けずに改進党をつくり、藩閥打倒の旗じるしを高くかかげるようになったのですから、これもまた皮肉です。
日本で政党らしいものができたのは、明治六年にできた愛国公党だといわれます。これは征韓論の分裂で政府を去った後藤象二郎、板垣退助、副島種臣(そえじま たねおみ)、江藤新平(えとう しんぺい)らが、民間の世論を呼び起こそうとして、京橋銀座三丁目にクラブを置いて始めたものですが、ほとんど世の中の注意をひかないまま消えてしまいました。
板垣は、この愛国公党の失敗は足もとが弱かったからだとして、土佐に帰り、そこで新たに郷土の結びつきをもとに、その志を伸ばそうとしました。有名な土佐の立志社(りっししゃ)がこれです。西郷の私学校に坂本の海援隊を加え、そこに自由民権の弁論を加えた団体と思えば間違いない、と底本は書いています。とても今日の政党のようなものではありませんでした。
立志社は明治十一年、大阪に出て仲間を集めて「愛国社」と名を改め、そののち何度か大会を開いて勢力を広げ、全国的な運動の団体になりました。そして明治十三年三月には「国会期成同盟会」と名を改め、片岡健吉(かたおか けんきち)と河野広中(こうの ひろなか)を委員として、国会開設を願う書面を天皇に差し出すことにしました。これに署名した者は二府二十二県、八万七千人あまりといいますから、たいへんな勢力です。
この願い書を差し出すという知らせが四方に伝わると、世の中の人々の心はいっせいにこの一事に集まり、全国の有志がさかんに東京に集まって、それぞれ願い書を差し出そうとしました。太政官も元老院も、規則をたてに受け取らないので、岩倉右大臣の私邸や三条太政大臣の屋敷に行って、願い書を差し出す者があとを絶ちませんでした。
中には政府のやり方に憤る者も少なくありませんでした。第一師団の歩兵伍長の小原某(なにがし)は、政府が言論を押さえつけるのを嘆いて、一通の上書をふところに、赤坂の皇居の前で自ら命を絶つという痛ましいことが起きました。また新潟県の赤沢某も、太政官の門前で自殺をはかるなど、このまま放ってはおけない、人々の心の動揺ぶりでした。
今や政府の中でも、国会を開くかどうかより、その時期が大きな問題になったわけです。明治十四年十月十二日、大隈参議の罷免とともに、明治二十三年をもって国会を開く時期と定められた詔(みことのり)が出されたことは、前の回で述べたとおりです。この詔こそ、明治天皇が時の流れをよく見通されたご聡明さと、国民への深いお思いやりによるもので、国民がいつまでも忘れることのできない感激である、と底本は書いています。
自由党の創立
これより前、北海道開拓使の払い下げ問題で、政府の内外の世論がさかんに沸き立っていたとき、板垣退助は八月二十六日、「海南の草蘆(そうろ)を出でて」(南の海の国、土佐の草ぶきの家を出て)という英雄めいた言い方そのままの意気込みで、さっそうと全国を演説して回る旅に出ました。
九月一日、板垣が神戸に上陸すると、大阪朝日新聞は「雷雨来る矣(い)、雷雨来る矣」(雷雨が来た、雷雨が来た)という題で、南の海から大きな低気圧が起こったことにたとえています。九月十日、大阪の戎座(えびすざ)で「未開の人民と雖(いえど)も、権利に差等あるべからず」(まだ開けていない人々であっても、権利に差があってはならない)という題で、五千人の聴衆を酔わせました。十六日に東京に入ると、新橋駅での歓迎はたいへんなにぎわいでした。
板垣はさらに東北を演説して回る旅に出ましたが、十月十二日に国会開設の詔が出されると、仲間たちは急いで自由党をつくることを話し合いました。十月十八日、浅草の井生村楼(いぶむらろう)で党の約束を決め、選挙で総理に板垣を選び、そのほかの役員も決めました。ここに初めて、組織を持った政党として、自由党が生まれたのです。
自由党の強みは、地方の団体の実力者である片岡健吉、大井憲太郎(おおい けんたろう)、河野広中、松田正久(まつだ まさひさ)、柏田盛文(かしわだ もりぶみ)らが中心となり、これを助ける論客として大石正巳(おおいし まさみ)、馬場辰猪(ばば たつい)、末広重恭(すえひろ しげやす)、中江篤介(なかえ とくすけ:中江兆民)などのそうそうたる人材が集まり、分かりやすくまっすぐな議論と、激しい闘志をみなぎらせていたことにあります。その設立の趣意書の書き出しは、こうです。
「自由は人の天性なり、自由を保つは人の大道なり。然るに、人為の権力動(やや)もすれば、天賦の自由を抑制し、その自然を損害し、その権利を保全する能(あた)はざらしめ、吾輩人民の最も貴重すべき生命財産の安固も之を維持するに由なく、挙げて政治家の左右する所に任ず、其危殆(きたい)なること実に薄氷を履(ふ)むが如し。思ふて玆(ここ)に至る時、未だ嘗(かつ)て惕然(てきぜん)として寒心せずんば非ざる也……」
(自由は人の生まれつきのものであり、自由を守ることは人の大きな道である。ところが、人の作った権力は、ともすれば天から与えられた自由を押さえつけ、その自然のあり方をそこない、その権利を守れないようにしてしまう。私たち人民にとっていちばん大切な命や財産の安全も守るすべがなく、すべてが政治家の思うままにされている。その危うさは、まさに薄い氷の上を歩くようなものだ。このことを思うと、恐れて心が冷えないことはない……)
もちろん、この自由党の理論の武器は、ルソーの『社会契約論(民約論)』で、中江兆民の『民約訳解』は一世を風靡しました。「人の生るゝや自由の……」という調子は、そのまま自由党の人々が好んで口にするところでした。
九州のある県では、県内の小学校に、ルソーの『民約論』やフランス革命の歴史を読んではならないと禁止令を出したところ、それまでこんな本を知らなかった小学校の先生たちが、禁止されるほどの本ならよほど面白いに違いないというので、かえってこれを買って読む者が増えた、と当時の雑誌『頴才新誌(えいさいしんし)』に出ています。
欧米の民権論は、政府を攻撃する矛先が、ついには王室に向かいます。けれども日本の民権論は、どんなに過激な論者でも、藩閥政府は容赦なくたたきましたが、皇室に対してはまったく従順で忠実でした。これは外国と比べて大きな特色だ、と底本は書いています。のちに議会が開かれるようになっても、
「藩閥有司攻撃には虎の如き民軍の勇士も、言一たび皇室に及べば猫の如く柔順となりたり」
(藩閥の役人を攻撃するときは虎のような民権派の勇士も、話がひとたび皇室に及ぶと、猫のようにおとなしくなった)
と当時の政治史に記されていますが、これが当時の政治家の態度だったのです。
自由民権論がこれほど国民全体にとって魅力となったのは、一つには、当時の役人たちが封建の大名以上にいばり散らしたことへの反抗でした。当時の知事が地方を回るときには、人々に土下座を強いた者があったほどです。地方の人々の中でも、気骨のある者が、こうした役人の横暴を実際に見て大いに怒り、自由民権の叫びを上げるのも当然だったのです。
これに対して、自由党の板垣にしても後藤象二郎にしても、かつては参議までつとめた人物が、一般の人々とひざをつき合わせて政治論を戦わせたのですから、その人気がますます高くなったのは無理もありません。とくに後藤象二郎などは人の扱いがうまく、田舎から上京する代表者などを、堂々とした高輪の屋敷に招いてもてなしたのですから、地方の有志たちは有頂天になったはずです。
このとき、国民全体にいちばん大きなショックを与えたのが、板垣退助の岐阜での遭難事件です。明治十五年三月、自由党総理の板垣退助は東海道を演説して回る旅に出て、静岡、名古屋を経て、四月六日に岐阜で大演説をしました。そして玄関を出ようとしたところを、愛知県の小学校の教員、相原某に襲われたのです。
傷は浅かったのですが、この知らせが全国に伝わると、自由党員はこぞって岐阜に集まり、これは政府が手を回して板垣総理を殺そうとしたのだと激しく憤り、その意気はまさに天をつくようでした。このとき板垣が刺客をにらみつけて、
「板垣死すとも自由は死せず」
と一喝したという話は、殉教者のような響きをもって全国に伝わりました。
急ぎの知らせが東京に届くと、後藤象二郎は、
「余は板垣の屍体を壇上に横へて、弔演説をなさん」
(私は板垣の遺体を演壇に横たえて、弔いの演説をしよう)
と、シェイクスピアの劇『ジュリアス・シーザー』のアントニーを気取りました。やることなすこと、みな芝居がかっています。しかもそれが大まじめに行われたのですから、とにかくのどかな時代でもあったわけです。
このとき板垣の傷を診察した若い医者が、当時の愛知県病院長で、まだ若々しい後藤新平(ごとう しんぺい)だったのも、ひとつの奇遇でした。
改進党と大隈
「……故にわが党は、かの政治を改良前進するに当つて、順正の手段と着実の方便とを求め、追歩して、その目的に達するに至らんことを冀(こいねが)ふものである。故にルソーの余流を汲み『ジヤコビン』者流の二の舞を演じ、躁急激昂以て過激の変革をしようと冀ふものがあるなら、私はこれを却(しりぞ)けて、進路を共にするを欲しない……」
(……だから我が党は、政治を良く改め前へ進めるにあたって、正しい手段と着実な方法を求め、一歩ずつ進んで、その目的に達することを願う。だから、ルソーの流れをくみ、「ジャコバン派」のまねをして、あせって激しく興奮し、過激な変革をしようと願う者がいるなら、私はそれを退けて、行く道を共にしようとは思わない……)
これは、大隈が「改進党人に告ぐ」という題で党員に配ったパンフレットの一節ですが、改進党という政党の主張を、いちばんはっきりと表したものだと思う、と底本は書いています。暗に自由党を「ルソーの亜流」と呼び、そのやり方を過激なジャコバン党(フランス革命の急進派)にたとえたあたりは、穏やかさを旨とする改進党として当然のたとえでしょう。
自由党が全国を風靡して、大いに大衆に呼びかけた勢いはすさまじいものがありました。けれどもその運動は、ともすれば極端に走り、識者の中にはこれを嫌う者も多く、このとき穏やかな思想にもとづく新しい政党を待ち望む気運が、わき起こってきました。この気運に乗ったのが、大隈重信とその一派だったのです。
大隈は明治十四年の政変で、薩長の策士たちにまんまとしてやられ、政府を追い出されましたが、官を辞めたあとの大隈の身の振り方は、国民がひとしく注目するところでした。ある者は「虎を野に放つが如し」と言い、中には「第二の江藤新平、西郷隆盛だらう」と評する者もいました。
けれども大隈は落ち着きはらって、いつものように雉子橋の屋敷に引きこもり、
「我輩は、明治の辞職勅任官(じしょくちょくにんかん:辞職した高官)の模範になるんである。板垣の真似などしないのである」
と、ゆうゆうとしていました。
そのうちほどなく、大隈が新しく政党をつくってその総裁になるといううわさが、しきりに新聞に出るようになり、何となく寝覚めの悪い政府の大官たちをおびやかし、国民のあいだにも大きなセンセーションを巻き起こしました。
そこで藤田一郎が大隈を訪ねて、そのうわさがほんとうかどうか確かめた一問一答が『東京日日新聞』に載っていますが、その一節で大隈はこう語っています。
「政党組織は事実なり、予は誠に昨年、兄に、明治政府の辞職勅任官の亀鑑(きかん)たるべしと告げた。今に於て何ぞこれを忘れん。抑(そもそ)も予が亀鑑と言ふは、出処の正しきことを指すのである。予は昨年政府を去る時、太政官に出頭し、官員諸君に告ぐるに、予は朝に在るも野に在るも、その主義とする所は変へない。諸君これを記憶せよ、と云ふ語を以てした。これ廟堂諸君の等しく知る所である。彼の板垣退助君の如く、征韓論を以て内閣を去りながら、数月を出でずして民選議院設立の建白書を上(たてまつ)ると云ふが如き挙動は、予の敢てなすところでない。予は主義によつて政府を去り、その主義を以て民間に唱ふ、何ぞ出所の正しからざることあらん。予熟々(つらつら)近時の我が国情を考ふるに、政党組織も遏(とど)むべからず。政談演説も絶つべからず、必ずや一日は一日と多くなることゝ思ふ。これのみでない。予が兄と共に憂ふべきことは、今日の政党者流の挙動である。彼等は政府といへば善悪を弁ぜず、郡吏、巡査さへも攻撃せんとし、民権と云へば、政府に抗すれば得られるものと思つてゐる。その最も甚しきものは彼の自由党の類である。このまゝに放置して置けば、遂には社会を破壊するに至るであらう。これが予が不敏を省みず、自ら任じ、民間に在つてこれを矯正し、国家の保安を維持して、聖天子に報い奉らんと欲する所以である。予豈(あに)徒らに事を好んでこの事をなさん」
(政党をつくるのは事実だ。私はたしかに去年、あなたに、明治政府を辞めた高官の手本になると言った。今それを忘れるはずがない。そもそも私の言う手本とは、身の振り方が正しいことを指すのだ。私は去年政府を去るとき、太政官に出向いて役人の諸君に、「私は政府にいても民間にいても、自分の主義は変えない。諸君、これを覚えておいてほしい」と告げた。これは政府の人々がみな知っていることだ。あの板垣退助君のように、征韓論で内閣を去りながら、数か月もたたないうちに民選議院をつくれという建白書を出すようなふるまいは、私のすることではない。私は主義によって政府を去り、その主義を民間で唱えるのだ。どうして身の振り方が正しくないことがあろう。近ごろの国の事情をよくよく考えると、政党をつくることも止められないし、政治の演説もなくすことはできない。きっと日に日に多くなっていくだろう。それだけではない。私があなたと一緒に心配すべきことは、今の政党の連中のふるまいだ。彼らは、政府といえば良い悪いを見分けずに、郡の役人や巡査まで攻撃しようとし、民権といえば、政府に逆らえば手に入るものと思っている。そのいちばんひどいのが、あの自由党のたぐいだ。このまま放っておけば、ついには社会を壊すことになるだろう。これこそ、私が自分の至らなさをかえりみず、自らその役を引き受けて、民間にあってこれを正し、国の安らかさを保って、天皇にご恩をお返ししようとするわけである。私が何も、好きこのんで事を起こそうとしているのではない)
と、大隈らしい意気込みを堂々と述べたのです。この大隈の大芝居の陰で作戦を練った参謀は、小野梓(おの あずさ)です。
政治家としての大隈がいちばん得意としたのは、矢野文雄(やの ふみお)の評によれば「群雄を使いこなす手腕」でした。彼の政党づくりに加わった人々は、
– 第一に、河野敏鎌(こうの とがま)や前島密(まえじま ひそか)などの元役人
– 第二に、矢野文雄を中心とする東洋議政会の一団、つまり犬養毅(いぬかい つよし)、尾崎行雄(おざき ゆきお)、箕浦勝人(みのうら かつんど)ら慶應義塾の出身者
– 第三に、小野梓を中心とする鴎渡会(おうとかい)の高田早苗(たかた さなえ)、天野為之(あまの ためゆき)、市島謙吉(いちしま けんきち)ら東京大学の出身者
– 第四に、沼間守一(ぬま もりかず)、島田三郎(しまだ さぶろう)、大岡育造(おおおか いくぞう)などの一団
でした。多くのすぐれた人々がそろい、まさに当時の知識人のおもだったところを、ほとんど網羅したようなものです。大隈だからこそできた芸当でしょう。
こうして明治十五年三月十四日、立憲改進党の趣意書を発表し、十六日に、木挽町(こびきちょう)の明治会堂で結党式を行ったのです。
朝野の相剋
日本で最初の二大政党は、以上のようにしてできあがりました。このほかに、福地桜痴(ふくち おうち)らの「立憲帝政党」というものもできましたが、その勢力や社会的な裏づけは、問題にするほどのものではありませんでした。
ここで注意しなければならないのは、自由党は土佐出身の前参議・板垣退助によってつくられ、改進党は肥前(佐賀)出身の前参議・大隈重信によってつくられたことです。二人とも、立憲政治を求めるという国民の支持の上に政党をつくりあげたのですが、それぞれ新しい勢力と結びついて、薩長と争おうという考えが濃かったことは否定できません。政府を追われた昔の恨みを、このチャンスに晴らそうと、少しは考えていたに違いないのです。日本の政党が、とかく主義より人を中心にして、ともすれば封建的な権力争いに夢中になる傾向は、もうこのころから芽生えていたのだ、と底本は書いています。
自由党と改進党は、どちらも立憲主義を掲げ、藩閥を敵としていたのですから、手を組んで一緒に戦えばよさそうなものです。けれども実際には、たがいにもめごとや党の争いをくり返しました。それは主義の違いというより、党の気風の違い、その総理である板垣と大隈の性格の違いによるところが大きかったのです。
意気を重んじる情熱家の板垣は、知略を得意とし、品格を重んじる大隈とは合いません。だから自由党に集まるのは、昔の燕や趙の国の志士のように悲憤慷慨する壮士や、地方の農民、不平士族が多く、改進党を支えるのは、学問や常識を誇る人々や、都会の商工業者が多かったのです。
自由党も改進党も、華々しくできあがりはしましたが、二十三年の国会開設まではまだ何年もあります。結党したばかりのころは、両党とも勢いは止めようもないほどでしたが、すぐに議会に臨めるわけではないので、何となく拍子抜けした感じがありました。
そこへつけこんで、政党を骨抜きにしようとしたのが、いわゆる藩閥の政治家たちでした。とくに長州の山県有朋(やまがた ありとも)、品川弥二郎(しながわ やじろう)、薩摩の黒田清隆(くろだ きよたか)などは、政党を目のかたきにして、まるで謀反人のように呼び、自分たちこそ勤皇党だと言って、政党いじめに専念しました。福島県令の三島通庸(みしま みちつね)が、
「自由党と火放(ひつ)け泥棒は一匹も管内に置かぬ」
とうそぶいたのは有名な放言ですが、藩閥の役人の姿が、この一言によく表れています。
藩閥の政治家は、まずこの二大政党の仲の悪さにつけこんで、いっそう二つを引き離すようにつとめました。お金をばらまいて板垣を外国へ旅行させるかと思えば、大隈にはその資金の道を断って、のど首をしめ上げました。さらに正面からは、厳しい法律と重い刑罰を設けて、政党員の活動を手も足も出ないように縛り上げたのです。
指導者を失い、厳しい刑罰におびやかされた自由党は、ついに非合法なギャング党になり、各地で武器をとって政府に逆らう暴動がしきりに起こりました。穏やかさを誇っていた改進党も、しだいに強硬な闘争の党になって、長く反政府軍の先頭に立ったのです。
この空気が国会開設のあとまで残り、主義や綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だと言って、いらないもめごとをくり返しました。これが国の順調な発展を大きくさまたげたことは、今日まで私たちが至るところで、その弊害を見せつけられているのだ、と底本は書いています。
政党が生まれ、国会の開設が近づく一方で、政府はもう一つの柱を固めていきます。次の回では、大村益次郎と山県有朋がつくりあげた日本の軍隊の歩み、「大国軍の建設」を読みます。
