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廃藩置県――一夜で藩が消えた日|菊池寛『大衆明治史』を読む 第1回

廃藩置県――一夜で藩が消えた日 日本の焚書
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※注:この記事は、菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社、昭和十七年=1942年)の第一章「廃藩置県」を、今の読者に向けて現代語に訳したものです。この本は戦時中に書かれたもので、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって没収の対象とされた、いわゆる「焚書」の一冊です。この記事では、本の記述は省かずに訳しました。底本には、今日では差別的とされる言い方や、当時の国の立場に立った物の見方が、そのまま出てきます。書かれた時代の文章をありのままに伝えるため、本文の途中でいちいち断ることはせず、注は底本の事実の誤りと、言葉の意味や人物・年代など、読むのに要る補いだけにしました。どう読むかは、読む方に委ねます。

 

版籍奉還の願い出

 

明治維新の歴史にピリオドを打つのは、明治四年の廃藩置県だと言ってよいでしょう。大政奉還でまず幕府が倒れ、廃藩置県で大名たちの支配がなくなりました。こうして、天皇を中心とするまったく新しい明治の中央政府が、日本全国に実際の力を及ぼすようになったのです。本当の意味での明治の歴史は、廃藩置県から始まると言ってもよいかもしれません。

明治四年に廃藩置県が行われるまでの日本は、今の私たちが思う以上に困難な状態にありました。それだけ、維新を成し遂げた人々は死にもの狂いで働いたのです。もっとも、新しい時代の改革は、廃藩置県一つだけではありませんが。

大名の土地を国に取り上げ、それぞれの藩が抱えていた軍隊をなくす。つまり封建制度を完全に打ち壊すことが、どれほど難しい大事業かは、外国の歴史を少しのぞいただけでもわかります。それが日本では、比較的すんなりと行われました。外国の人々が驚いたのも無理はありません。血を流さずに憲法が発布されたことと並んで、明治の歴史の二つの快挙だと言ってよいでしょう。

ただ、藩をなくそうという考えは、先を見通す一部の人々の間では早くから芽生えていました。その先がけが、明治二年(1869年)に行われた「版籍奉還(はんせきほうかん)」です。版は土地、籍は人々のことです。幕府を倒しても、大名がまだ土地と人々を自分のものにしていたのでは、維新の目的を果たしたとは言えません。土地と人々を朝廷に返し、昔のように天皇が治める形を取り戻さなければならない――そう考えられていたのです。

木戸孝允(きど たかよし)は長州藩主の毛利敬親(もうり たかちか)を説き、大久保利通(おおくぼ としみち)は薩摩藩主の島津忠義(しまづ ただよし)を説きました。こうして明治二年、島津忠義・毛利敬親・鍋島直大(なべしま なおひろ)・山内豊範(やまうち とよのり)の四人の藩主が名を連ねて、土地と人々を返したいと願い出たのです。その書面には、こう書かれていました。

「抑々(そもそも)臣等(しんら)居る所は即ち天子の土、臣等牧(ぼく)するところは即ち天子の民なり。安(いずく)んぞ私有す可(べ)けんや。願(ねがわ)くは朝廷其の宜(よろしき)に処し、其の与ふべきは之(これ)を与へ、其の奪ふべきは之を奪ひ、凡(およ)そ列藩の封土、更に宜しく勅命を下し、之を改め定むべし。而(しこう)して制度典刑(てんけい)軍旅の政より戎服(じゅうふく)機械の制に至るまで、悉(ことごと)く朝廷より出で、天下の事大小となく皆一に帰せしむべし。然る後に、名実相得(あいえ)、始めて海外各国と並び立つべし。是(これ)朝廷今日の急務にして、又臣子の責なり」

(そもそも私たちが住んでいる土地は天皇の土地であり、私たちが治めている人々は天皇の民です。どうして自分のものにしておけましょうか。どうか朝廷がふさわしいようにお取り計らいください。与えるべきものは与え、取り上げるべきものは取り上げ、すべての藩の領地について、あらためて天皇のご命令を下し、決め直していただきたいのです。そして、制度や法律、軍事の政治から、軍服や武器の決まりに至るまで、すべて朝廷から出るようにし、国の事は大小を問わず、みな一つにまとめるべきです。そうして初めて、名前と中身がそろい、外国と肩を並べることができます。これこそ朝廷の今日いちばん急ぐべき仕事であり、また家臣である私たちのつとめです)

四人の藩主は、こう申し出たのです。

明治新政府の不安

 

明治二年の正月、伊地知正治(いじち まさはる)が大久保に送った手紙に、こんな一節があります。

「西郷入道先生も既に四五十日当山湯治(とうじ)、犬四五匹、壮士三四人同道の由」

(西郷入道先生は、もう四、五十日もこの山の温泉に浸かっておられ、犬を四、五匹と、若者を三、四人連れているそうです)

上野の銅像のような格好で、山の中でのんびり過ごしていたのでしょう。けれども手紙にあるとおり、西郷隆盛(さいごう たかもり)は頭を丸めて「入道」になっていました。見た目はのんきそうでも、心の中の憂いは隠しようがなかったのです。

時代は確かに新しくなりました。すべてのものが激しい流れのように、新しい時代へ向かって泡を立てて流れていきます。その流れの堰(せき)を切ったのは西郷自身でした。だからこそ、その結果があまりに激しく、しかも軽はずみなものになっていくことに、嫌な気持ちを抱かずにはいられなかったのです。

頭を丸めたのは、西郷の昔を懐かしむ気持ちの表れでもあったでしょう。しかし底本は、本当は「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」がここまで行われたことへの、激しい怒りから出た抗議だったのだ、と説明しています。

廃仏毀釈とは、寺や仏像を壊す運動のことです。明治維新を動かした考えの一つは「昔に帰る」ことで、神を祀ることと政治を一つにする社会を目指していました。王政復古の大号令が出されたとき、政府はこう宣言しています。

「神祇官ヲ始メ、太政官夫々旧儀御再興之思召ニ候」

(神祇官をはじめ、太政官についても、それぞれ昔の制度を再興するお考えである)

そして、神々を祀る役所である「神祇官(じんぎかん)」をまず復活させ、その理想の実現に向かって進みました。都が東京に移るとすぐに明治天皇が氷川神社(ひかわじんじゃ:今の埼玉県さいたま市)に行幸なさったのも、それまで主に仏式で行われてきた歴代天皇の陵墓を新たに神式に改めるために、山陵の調査が行われたのも、みなこの傾向の表れでした。その神祇官が最初に取り組んだのが、「神仏分離」でした。

中世から、神と仏は同じものの別の姿だという考えが広まり、いつの間にか神と仏が混ざり合って、もとの姿がわからなくなったものがたくさんありました。「八幡大菩薩」のように、神なのに菩薩と呼ばれるものもそうです。神祇官は、神々を古い時代の純粋な姿に戻して人々の信仰の中心にしようと、神社にいた僧をやめさせ、仏像を御神体にしていたものを取り除かせました。

ところがこの政策は、それまで日の当たらなかった神主たちを必要以上に勢いづかせることになりました。国学者や神官の一部は、各地の寺を打ち壊す激しい運動を始めたのです。

その激しさは、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)や奈良の興福寺(こうふくじ)のように、皇室とも縁が深く、国を守る祈りの場だった寺社まで、見る影もなく荒らされたことからもわかります。とくに興福寺では、一時は僧が一人残らずいなくなり、猿沢の池のほとりに建つあの有名な五重塔が、五十円で売りに出されたといいます。

買おうとする者が現れたので、寺の者が何に使うのかと尋ねると、こう答えたそうです。「てっぺんの飾りが鉄だから欲しいのだが、取り外せないので、火をつけて燃やして取りたい」。燃やされては、ほかの建物に火が移ってはたまりません。それは困ると断った、という話です。うそのようですが、『廃仏毀釈史料』にちゃんと載っている、と底本は書いています。程度の違いはあっても、こうした話は全国にありました。とくに地方の役人の中には、政府のご機嫌をとろうとして、廃仏の運動にかえって油を注いだ者がたくさんいたのです。

 

※注:興福寺の五重塔が売りに出されたという話は広く知られていますが、値段は二十五円とする話、二百五十円とする話など、伝える書物によってさまざまです。底本は五十円としています。五重塔は買い手がつかずに残り、今は国宝になっています。

 

どちらかといえば昔気質の西郷が、こうした風潮が広がっていくのを見て、苦々しく思ったのは当然だったでしょう。廃仏の運動だけではありません。身分をなくして皆を平等にすること、農民や町人から兵を集めること、成り上がった役人たちの空威張り。何事も極端に走り、形ばかりになっていく新政府のやり方に冷たい目を向けたのは、西郷一人ではありませんでした。

明治三年(1870年)七月、世の乱れを憤って、政府の役所の門前で腹を切った人がいます。森有礼(もり ありのり)の実の兄、横山安武(よこやま やすたけ)です。横山は「時弊(じへい:今の世の悪いところ)十か条」を書き残していました。底本はその全文を載せています。

「旧幕府の悪弊暗(あん)に新政府に移り昨日非とせしものを今日却(かえ)つて是(ぜ)とす。是其の一なり。大小官員外には虚飾を張り、内には名利を事とする。是其の二なり。朝令夕替(ちょうれいせきたい)民狐疑(こぎ)を抱き方向に迷ふ。是其の三なり。駅毎(ごと)に人馬の賃銭を増し、五分の一の税を収む。是其の四なり。直(ちょく)を尊ばずして能者を尊び、廉恥(れんち)上下を論ぜざる。是其の五なり。官の為めに人を求めず、人の為めに官を求む、故に各局の其職を勤むる者傭工(ようこう)の其主に於けるが如き者あり。是其の六なり。酒食の交を重んじ義理上の交際を軽んず。是其の七なり。黜陟(ちゅっちょく)の大典未だ立たず、賞罰愛憎を以てす。是其の九なり。上下交々(こもごも)利を征(と)つて国危し。在朝の君子恣意妄行す。是其の十なり」

(旧幕府の悪い習わしがいつの間にか新政府に移り、昨日まで悪いとしていたことを今日はかえって良いとしている。これが第一。大小の役人は外では見せかけを飾り、内では名誉と利益ばかり求めている。これが第二。朝に出した命令を夕方に変えるので、人々は疑いを抱き、どちらへ向かえばよいか迷っている。これが第三。宿場ごとに人足や馬の賃金を上げ、五分の一の税を取っている。これが第四。正直な人を大事にせず、要領のよい人を大事にして、恥を知る心が上にも下にもない。これが第五。仕事のために人を求めるのではなく、人のために役職を作っている。そのため各局で仕事をする者の中には、雇われ職人が主人に仕えているようなありさまの者がいる。これが第六。酒や食事の付き合いを重んじ、筋の通った付き合いを軽んじている。これが第七。役人を上げ下げする大もとの決まりがまだ立っておらず、賞も罰も好き嫌いで決めている。これが第九。上の者も下の者も利益を奪い合って、国が危うい。朝廷にいる人々が勝手気ままにふるまっている。これが第十)

 

※注:底本の印刷では「其の八」が抜けていて、一から十までのうち九つしかありません。原本のとおりに載せました。

 

政治にたずさわる人々の心の乱れを嘆いた、抽象的な内容ではあります。それでも西郷はこれを口をきわめてほめたたえ、後に横山のために碑の文まで書いて弔ったほどでした。

 

※注:横山安武が腹を切ったのは、当時の議会にあたる「集議院(しゅうぎいん)」の門前とされています。底本は「正院の前」としています。

 

封建の古い力はまだ根強かった

 

明治二年から四年の廃藩置県までの間、新しい日本はたいへんな危機の中にありました。一歩まちがえば、建武の新政(南北朝時代の初め、天皇中心の政治がわずか数年で崩れた出来事)の二の舞になるところだったのです。

確かに、天皇が治める形は取り戻され、「五箇条の御誓文」が出され、大事なことは皆で話し合って決めるという国の方針も定まりました。けれども、実際の政治はそんな立派なものではありませんでした。維新で手柄を立てたのは、圧倒的に薩摩と長州です。それでも、皆で話し合えという世間の声に押されて、思い切った政治ができません。ましてほかの小さな藩の有力者たちに、何かを積極的に進められるはずもありませんでした。

新政府のいちばんの弱点は、政治の中心になる力がないことでした。当時の中央政府には、名ばかりは徴士(ちょうし)とか貢士(こうし)とか呼ばれる、今の代議士のような人々が全国の藩から集まって、盛んに政治の議論をしていましたが、実際には何も進みません。肝心の軍隊にいたっては、中央にはまったくありませんでした。

その一方で、東北の戦いから勝って帰った各藩の兵は、それぞれの藩に戻って手柄を誇っていました。大小の藩はどこも独立した国のようなもので、中央の様子をうかがいながら、何か起きるのを待っている――そんな、ただならぬ有様だったのです。

有力な藩がばらばらに張り合っていた様子を、もう少し詳しく見てみましょう。

まず薩摩です。西郷が新政府のやり方に不満を持ち、犬を連れて温泉にばかり行っていたことは先に書きました。藩の実権を握る島津久光(しまづ ひさみつ)は、身分をなくすことや藩をなくすことなどとんでもないと、たいへん機嫌が悪い。しかも久光が西郷をひどく嫌っていることは誰もが知っていましたし、西郷のほうも久光を「肝(きも)の殿様」と呼んで、文久のころからずっと煙たがっていました。薩摩にはほかに、大久保利通という一つの勢力もあります。

 

※注:「肝の殿様」は底本の原本にそう印刷されている呼び名ですが、どういう意味の呼び方なのかは、はっきりしません。

 

長州の代表には、広沢真臣(ひろさわ さねおみ)、大村益次郎(おおむら ますじろう)、山県有朋(やまがた ありとも)らがいますが、何と言っても中心は木戸孝允です。この木戸がまた、大の薩摩嫌いでした。薩摩の人間には心を許せない、というのが、維新を通じての木戸の信念だったと言ってよいでしょう。西郷でも大久保でも、薩摩の人である限り「あいつらはずるい」というわけです。

土佐藩も維新では大きな働きをしました。後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の大政奉還の建白、坂本龍馬(さかもと りょうま)の薩長同盟の仲立ち、板垣退助(いたがき たいすけ)らの東北での戦功と、薩摩・長州に次ぐ維新の功労者です。土佐の人々は、武力に頼る薩長に対して、「皆で話し合う政治」という意外な手を使って新政府に割り込もうとし、それがうまくいきかけていました。世の中から少し身を引いていたとはいえ、前の藩主・山内容堂(やまうち ようどう)も、何かあれば薩長のやり方の不当を言い立てないとも限りません。

土佐の次には肥前(佐賀)があります。肥前は大きな藩で、藩主の鍋島閑叟(なべしま かんそう)は少しのんびりしたところがあるものの、賢い殿様として名を知られていました。薩長土が維新の争いで人材をすり減らしている間に、肥前では落ち着いて人材を育て、蓄えていたのです。外交の副島種臣(そえじま たねおみ)、財政の大隈重信(おおくま しげのぶ)、法律の江藤新平(えとう しんぺい)、民政の大木喬任(おおき たかとう)。みな佐賀の人です。薩長としても無視するわけにはいかず、むしろ一生懸命に味方にしようとしていました。けれども肥前には肥前の立場も面目もあります。薩長のおまけで終わるつもりはなかったでしょう。

大久保利通の転向

 

このように、天皇の政治を取り戻したと言っても、中身がともなっていたわけではありませんでした。むしろこのとき、誰か一人が腕まくりして立ち上がれば、国全体が崩れ出したかもしれないのです。

この有様を誰よりも心配したのは、大久保利通でした。明治二年四月二十六日、大久保が岩倉具視(いわくら ともみ)に送った手紙に、その考えがよく表れています。

「即今(そっこん)内外の大難、危急存亡の秋(とき)切迫すること間不容髪(かんふようはつ:髪の毛一本入るすきもない)、抑(そもそも)昨年来漸(ようや)く平(たいら)ぎ一時の無事の形を成すと雖(いえど)も大小牧伯(ぼくはく)各々狐疑(こぎ)を抱き、天下人心恟々然(きょうきょうぜん)として其の乱るゝこと百万之(の)兵戈(へいか)動くより恐るべく今日を平安と心得候(そうろう)は、床下の烈火燃出(もえいだ)さゞるを幸(さいわい)とするに異(ことな)らず。豈(あに)思はざる可けんや。東下(とうげ)後実地之情態厚く見聞仕(つかまつ)り候処、英公使要路の人を恥(はずか)しめ、児童の如く愚弄し、草莽士(そうもうし)は政府を凌辱して奴輩(どはい)の如く蔑視し、内外の侮慢(ぶまん)至らざる所なし、況(いわ)んや、天下の人心政府を信ぜず、怨嗟(えんさ)の声路傍に喧喧(けんけん)、真に武家の旧政を慕ふに至る……斯(か)く迄に威令の衰滅せしこと歎息流涕(りゅうてい)の至りに堪へず、在職の者何の顔(かんばせ)かある」

(今、国の内も外も大きな困難を抱え、生きるか滅びるかの瀬戸際が、髪の毛一本入るすきもないほど迫っています。去年からようやく落ち着き、いっときは何事もないように見えますが、大小の大名たちはそれぞれ疑いの心を抱き、世の中の人々の心はおびえて落ち着かず、その乱れは百万の兵が動くよりも恐ろしいものです。今を平和だと思っているのは、床下で燃えている激しい火が、まだ燃え出していないのを幸いに思っているのと変わりません。どうしてこれを考えずにいられましょう。東京に来て実際の様子をよく見聞きしたところ、イギリスの公使は政府の要人をはずかしめ、子どものようにからかい、在野の志士たちは政府をあなどって、まるで家来のように見下しています。内からも外からも、あなどられないところはありません。そのうえ、世の中の人々は政府を信じず、恨みの声が道ばたにあふれ、本気で武士の昔の政治を懐かしむまでになっています……。これほどまでに政府の威信が落ちてしまったことは、嘆き涙を流さずにはいられません。役についている者は、どんな顔をして人前に立てるでしょうか)

では、こうした乱れの原因はどこにあるのか。大久保は、それは「皆で話し合う政治」にある、と言い切りました。二か月後の六月、大久保は同じように、もとの藩の桂右衛門(かつら うえもん)にあてて手紙を書き、こう伝えています。

「公議所(こうぎしょ)など、無用の論多く、未だ今日の御国体には適用し申すまじく候間、一応閉局の内評に相成り候」

(公議所などは役に立たない議論が多く、今の日本の国のあり方にはまだ合わないので、いったん閉じようという内々の話になっています)

上下二つの局からなる議政所で、藩から集まった貢士たちがいくら議論を重ねても、公家や大名の大会議を何度開いても、それで朝廷の土台がしっかりし、頼りになる中央政府ができるわけではありません。朝廷には力のある軍隊もなく、お金もありません。このままでは国はやがて崩れてしまう、と大久保は考えたのです。

そしてこれは、木戸孝允の考えでもありました。薩摩と長州の中心人物の考えが、期せずして一致したのです。皆で話し合う政治はだめだ。坂本龍馬や福岡孝弟(ふくおか たかちか)が外国の本を生かじりにして持ち込んだ、話し合いや入れ札(選挙)にもとづく民主政治は、今の日本には早すぎる。国を救う道はただ一つ。皆で話し合う政治をやめ、薩摩と長州の二つの藩の力を中心にして政府に集め、それに逆らい邪魔をする勢力は、力ずくでも取り除くことだ――。

 

※注:底本は「福本孝弟」と印刷していますが、土佐出身で五箇条の御誓文の起草にもかかわった福岡孝弟のことです。

 

この年の十二月、大久保が政治の仲間に配った「妄議(もうぎ)」と題する意見書があります。その中で、彼ははっきりと言い切っています。皆で話し合えだの、世の中の声だのというのは、国を滅ぼす俗説だ。薩長が勝手なことをしていると言いたければ言えばいい。今、薩長の力に頼らずに何ができるというのか。くだらない非難に耳を貸さず、薩摩と長州が手を結び、朝廷を中心にいただいて、維新のはじめの心に立ち返って働くべきだ。そのとき、多少のもめごとや騒ぎが起きるのはしかたがない。幸い今は外国との争いがないから、国内で多少の騒ぎが起きても恐れることはない。大事なのは一日も早く国をまとめ、国の土台を固めて、外国に対抗することだ――。

まさに百八十度の方向転換でした。

西郷の出馬

 

この決心のもとに、大久保はまず自ら動き、岩倉と木戸の賛成を得て、薩長の連合へとまっすぐに突き進みました。その結果、西郷がふたたび中央の政治の場に、薩長連合の中心として出てくることになります。朝廷を守る「近衛兵」が置かれることになり、そして最後に、藩という仕組みにとどめを刺す廃藩置県という画期的な改革が、見事に成し遂げられることになったのです。

大久保の言う薩長の連合とは、具体的にはどういうものだったのでしょうか。誰を中心に薩長をまとめていくのか。それはもちろん、西郷をおいてほかにはいません。

維新の手柄として、西郷が朝廷から与えられた賞典禄(しょうてんろく:手柄に対して与えられる米の給与)は二千石。家臣としては最高のものです。それは西郷の世間の評判を裏づけるものでもありました。とくに武士たちの間での西郷の人気と信頼は、ほかの誰とも比べものになりません。

このころ、兵の集め方を変えることや藩をなくすことについての漠然とした動きが、士族(もと武士)たちを極度に不安にさせていました。武士の特権を失うことへの反発は、各地の騒ぎや、政府の要人の暗殺が相次いだことからもわかります。兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎、参議の広沢真臣が暗殺されたのも、みなこの重苦しい空気の表れでした。この士族たちの反発をしずめるためにも、どうしても西郷が中央の政府に必要だったのです。西郷がそこに座っているだけで、政府の信用がまるで違いました。まして、薩摩と長州のうるさ型を抑えるのに、西郷はいつも最後の切り札でした。

西郷を中央に引き出す役目は、まず弟の西郷従道(さいごう つぐみち)が試しに引き受けました。従道もまた一代の傑物で、ちょうど山県とともにヨーロッパから帰ったばかりで、意気盛んでした。堂々としたヨーロッパの政府を見てきたばかりなので、どうしても明治の新政府を強いものにしなければならないと、ひどく熱心に兄を説きました。西郷は目に涙を浮かべて聞き、このときすでに東京へ出る決心はついていたようです。

大久保は大久保で、岩倉たちとすっかり相談をまとめ、天皇の使い(勅使)を送って西郷を引っぱり出そうということになりました。筋を通さなければ西郷は動かない、と見たのでしょう。そして勅使は、毛利と島津の二人の藩主に遣わされるという形をとり、西郷には「随従上京されたし」(藩主のお供をして東京へ来てほしい)と伝えることにしました。

西郷はこう言いました。

「拙者(せっしゃ)のために、こんなお手数をかけて済まぬ。出るがよいとなら出もするが、しかし、拙者には拙者の考もある。如何(いか)なものであらう」

先に手を打ったのです。大久保は、いつものように調子よく答えました。

「貴下(きか)の、その考へが聞きたくて、わざわざ下つて来たのだ」

そこで西郷は、古い封建の名残を取り除くには薩摩と長州だけではだめだから、土佐を加えよう、とまず提案しました。島津斉彬(しまづ なりあきら)のころからの、有力な藩をまとめる考え方です。大久保にも岩倉にも、特に異論はありませんでした。

明治四年一月三日、西郷と大久保は鹿児島を出発し、長州藩主に会って大きな計画を語り、さらに土佐を訪れて山内容堂と話し合い、土佐藩の大参事・板垣退助をともなって、二月二日、堂々とした顔ぶれの一行が東京に入りました。

西郷が中央の政府に入って最初に手がけたのは、朝廷の新しい軍隊を置くことでした。中央の政府に実力を持たせて、地方の勢力を抑えようというのです。すぐに薩摩・長州・土佐の三藩の兵を集めることが決まり、喜び勇んで上京してきた薩摩の四個大隊の兵を、西郷は市ヶ谷の元尾張藩の屋敷に迎えて、そのまま兵たちと一緒に兵営に住み込みました。同じころ鎮台(ちんだい:地方に置かれた軍の拠点)の仕組みも始まり、小倉と石巻に最初の鎮台が置かれて、新しい時代を迎える土台が着々と築かれていきました。

あわせて西郷は政府の顔ぶれを改めることにも成功し、自ら参議になります。大久保が考えていた、薩長による強固な独裁の政治が、ひとまずできあがったのです。

廃藩置県の断行

 

政府のにらみは十分にきいています。今こそ政治を一新する好機でした。とくにいちばん大きな懸案である廃藩置県を行うなら、今をおいてほかにありません。

長州の若手、鳥尾小弥太(とりお こやた)と野村靖(のむら やすし)の二人は、すぐに山県を説きに出かけました。話は井上馨(いのうえ かおる)にも伝わります。そこで山県が西郷を、井上が木戸を説くことになり、手分けして出かけることになりました。六月三十日の夜、西郷が参議になって五日目のことです。

翌朝早く、山県は西郷を訪ね、廃藩置県の必要をとうとうと説きました。山県は、奇兵隊が五卿(ごきょう:長州に移っていた五人の公家)を動かすことに反対して西郷に頭を下げさせた、あのとき以来の仲です。遠慮なく、思う存分に論じたのでしょう。黙って聞いていた西郷は、

「よろしい、承知しました」

と、こともなげに言いました。山県は後年、これを話の種にして、西郷はとても及ばない大きな器だったと、何度も感心したといいます。しばらくして西郷は聞き返しました。

「だが、木戸さんの意見はどうか」

「まづ、貴公の御同意を得た上で――」

「木戸さんも承知なら、拙者異議ない」

こうして西郷は引き受けました。木戸ももちろん承知です。そこで七月九日、木戸の屋敷で廃藩についての秘密の会議が開かれました。大久保の日記には、その日のことがこう書かれています。

「九日、今日暴風雨にて所々破損多し。九時参朝、二時退出。大山に少西郷子同道、五時より木戸氏へ訪(とう)。老西郷氏も入来、井上山県も入来、大御変革御手順のこと、且(かつ)政体基則のこと種々議談す。凡(およ)そ相決す」

(九日、今日は暴風雨で、あちこちに被害が多かった。九時に朝廷に出て、二時に退出。大山(巌)と少西郷(西郷の弟の従道)が一緒で、五時から木戸氏を訪ねた。西郷氏も来て、井上と山県も来て、大改革の手順と、政治の仕組みの基本について、いろいろと話し合った。おおよそ決まった)

このとき、木戸と大久保の顔に悩みの色があるのを見て、西郷はこう言いました。

「貴公等に、廃藩実施の手順さへ附いてをれば、その上のことは拙者全部引受ける。暴動が各地に起きても、兵力の点なら、御懸念(ごけねん:ご心配)に及ばぬ。必らず鎮圧して、お目にかけませう」

この一言で一同はほっと息をつき、話がまとまったのです。その一言を待っていました、というところでしょう。のちに天皇からお尋ねがあったときにも、西郷は「恐れながら吉之助(きちのすけ:西郷の通称)が居りますから」とお答えして、天皇を安心させたといいます。

こうして七月十四日、嵐のように廃藩の命令が下されました。鳥尾小弥太は、そのときの様子を『国勢因果論』にこう書いています。

「突然廃藩令の下るや、全く他の意表に出で、恰(あたか)も陰雲漠々(いんうんばくばく)、将(まさ)に雨ふらんとする前、忽(たちま)ち雷霆(らいてい)の下撃せし如く、人々相顧みて、一言半句もなく顔を見合せて、相共に令に応ぜしに似たり」

(突然、廃藩の命令が下ると、まったく人々の思いもよらないことで、まるで暗い雲が広がって今にも雨が降り出しそうなときに、いきなり雷が落ちてきたようだった。人々は互いに振り返り、一言も言えないまま顔を見合わせて、そろって命令に従ったようであった)

実際にそうだったのでしょう。西郷が東京へ出るとき、「決して廃藩置県などやるでないぞ」と念を押していた島津久光(藩主・忠義の父で、事実上の薩摩の主)は、廃藩の知らせが薩摩に届くと、屋敷の庭で花火を打ち上げさせて、不満を爆発させたといいます。大名も武士も、古いものを守ろうとする人々が受けた衝撃は、たいへんなものだったはずです。

西郷はそのときの心の内を、薩摩の家老にこう伝えています。

「御互ひに数百年来の御鴻恩(ごこうおん:大きなご恩)、私情に於ては忍び難き事に御座候へども、天下一般此(かく)の如き世運と相成り、此の運転は人力の及ばざる処と存じ奉り候」

(私たちは数百年にわたって殿様の大きなご恩を受けてきましたから、個人の気持ちとしてはしのびないことです。けれども、世の中全体がこういう流れになり、この動きはもう人の力ではどうにもならないものと思います)

どちらかといえば古いものを大切にする西郷です。その苦しい胸の内が思いやられます。

廃藩の命令が出ると、それまでの藩はしだいに県に改められ、十一月には七十二の県ができました。

一方の大久保は、今でいえば内務・財務・郵便・農林・商工の五つの役所を合わせたような大蔵省に陣取り、井上馨、伊藤博文(いとう ひろぶみ)、松方正義(まつかた まさよし)、津田出(つだ いずる)といった新しい人材を率いて、新しい政策をどんどん進めていきます。底本によれば、彼らの目には西郷は一種のロボット(飾り物)のようなもので、廃藩置県という大仕事が済んでしまえば、もう西郷は必要ではなかったのです。

西郷の好みに合いそうもない政策が、次々と生まれました。八月九日、髷(まげ)を切り、刀を差さずに歩くことを許す命令。八月十八日、鎮台を東京と大阪に置き、兵部省に属させる命令。八月二十三日、華族・士族・平民の間の結婚を許す命令。こうして身分の区別がなくなり、士族の特権はどんどんはぎ取られていきました。

西郷は、のちに西南戦争の最後、城山で亡くなるときにも、「百姓上がりの官軍の兵はかわいそうだから、捕まえても許してやれ」と言ったといいます。兵はどうしても武士でなければならないと、固く信じていたのです。髷を切れだの、刀を取り上げるだの、まして百姓や町人から兵を集めるなどということは、どうしても西郷にはぴんと来なかったようです。

西郷は明治維新のいちばんの立役者でした。しかし時代は、すでに西郷を追い越して進み始めていたのです。

 

※注:城山での西郷の言葉は伝えとして記されているもので、記録で確かめられるものではありません。廃藩置県では、藩の借金を国が引き受け、藩主には家禄(給料)が保障されたことも、大きな反発が起きなかった理由の一つとされています。

 

一夜にして二百六十の藩が消えた日。それを支えたのは、「拙者全部引受ける」と言った西郷の一言でした。けれどもその改革は、西郷が大切にしてきた武士の世の終わりでもありました。次の回では、その西郷と政府の仲間たちが、朝鮮をめぐって真っ二つに割れる「征韓論」の争いを読んでいきます。

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている 菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社・1942年) を、現代の読者に向けて現代語に訳したものです。

原本は戦時中に書かれ、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の没収の対象となった本です。原本の記述は省かずに訳し、原本の誤りや言葉の意味・人物・年代には注を添えています。当時の見方は、そのままの形で伝えています。
文章はAIが原本を読んで作成しました。アイキャッチ画像は、記事ごとに画像の中に出どころを記しています。

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